第3話 迫る気配

その夜、優子はふと目を覚ました。

薄暗い部屋の中、時計の針は午前2時を指している。静まり返った空間にただ彼女の呼吸音だけが響いていた。

――そう、何かが違う。


モモが普段なら足元で寝ているはずだった。だが、その姿が見当たらない。

「モモ?」

声を出しても返事はない。優子は部屋の中を見回した。


そして、隣の部屋の方向に視線が吸い寄せられる。

壁の向こうから、かすかな物音が聞こえた。何かが床を引きずるような音――。


一瞬、心の奥底で何かが引っかかった。

「私は……今もこうしてひとりなんだ」

優子は唇を噛みしめながら、過去の記憶を振り払おうとした。


思い返せば、小学校の頃からずっとそうだった。

クラスメイトが笑い合う中で、いつも一人、教室の隅でじっと座っているだけ。

中学になると、その孤独が明確な形となり、いじめへと変わっていった。

誰も助けてくれないどころか、助けを求めれば求めるほど、状況は悪化していった。


「我慢しなさい」「強くなりなさい」

親や教師の言葉は優子にとって、ただの空虚な音でしかなかった。

それ以来、誰にも頼らないと決めた。自分の弱さを見せたくない――いや、見せたらまた傷つけられるだけだと確信した。


そして今、独りになった。

傷つけられることもない代わりに、優子の世界はどんどん小さくなっていった。

リモートワークで顔も知らない相手とメールのやり取りをし、モモだけがそばにいる日々。

それで十分だと思っていたのに――いや、本当は違う。


「……私、何をしてるんだろう」

壁の向こうに感じる気配は、ただの恐怖ではなく、自分自身の孤独が形を変えて迫ってきているように思えた。

それでも、恐ろしさを理由に目を背け続けることしかできない。


ガリガリ……。


玄関の方で引っかく音がした。

「モモ!」

優子はその音に反応し、急いで玄関に向かう。そこにはモモがいた。だが、いつもとは様子が違う。毛が逆立ち、低く唸っている。


モモを抱き上げ、背後の気配に背筋を凍らせた。

振り返ると、隣の部屋に通じる壁が、黒く染み出したような模様を浮かべていた。


その模様はまるで生き物のようにゆっくりと広がり、ひび割れを作りながら何かを語りかけるように蠢いている。

「……嘘……なにこれ……」

恐怖で立ち尽くしそうになるが、モモの体温だけが彼女を現実に引き戻していた。


そのとき、頭の中に声が響いた。

「どうして私を置いていったの……?」


その声は、過去の優子の声にも似ていた。

見捨てられ、拒絶され、孤独の中で叫び続けたあの頃の自分自身――。


優子は耳を塞ぎながら、心の奥底で感じる喪失感と向き合うことを拒み続けた。

だが、その声はやむことなく繰り返され、壁の模様はさらに彼女の心を蝕んでいく。


「忘れないで……」

「私を……見て……」


その瞬間、壁に浮かび上がったひび割れの中から、何かが覗いているのが見えた。

それは人の形をしていたが、人ではない。歪んだ輪郭と、黒い瞳が、じっとこちらを見つめている。


「いや……!」

優子は反射的に叫び、モモを抱きしめたまま後ずさった。

その瞬間、隣の部屋からドアが激しく揺れる音が響き渡り、部屋全体が微かに震えた。

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