不可逆デーモニアンガールズ
七戸寧子 / 栗饅頭
本編
大学終わり。大衆居酒屋。
「乾杯!」
その言葉で打ち鳴らすのがジョッキになっていた。いつの間にか。多分、きっと、おそらく絶対、一昨日くらいまではドリンクバーの安っぽいグラスだったのに。喉に流し込むのはメロンソーダで、レモンサワーのレの字もなかったはずなのに。
痛快な炭酸。鼻に抜ける涼感。鬱憤をさらう酸味。メロンソーダに求めていたはずの甘さは控えめ。液体を注ぎ、注ぎ、身体から空気を抜く。抜いて、抜いて、全身が爽快感に満たされたのと同時に、ジョッキを叩きつける。
「んまい!」
氷が少し跳ねて、からから鳴った。僅かな音は煙たい喧騒に巻き込まれ、アルコールの呼気に掻き消える。その中でも、正面でくすくす笑う声はまっすぐ耳に届いた。反射的にはにかむ。彼女がくすくす笑えばいつだってこの顔になってしまう。
「相変わらず、気持ちいい飲みっぷり」
その手のジョッキには、まだ二割も減らないウーロンハイ。そのちびちびとした飲み方も、ドリンクバーでウーロン茶を飲んでいた頃から変わらない。暖色のLEDがあの日の夕陽かと錯覚するほど、ちっとも変わらない。
「好きね」
「や〜っぱ授業終わりはレモンサワーよ」
「はいはい、もう聞き飽きましたっと」
「この快感がわからんとは、マチはお子ちゃまだねぇ」
「コトハには言われたくないなー」
「誰がお子ちゃまだって~?」
こんな時間がずっと続けばいいのに、と思う。一杯だけでこんなことを思えるのだから、大したものだ。セーラー服でファミレスに居座り続けたあの日も同じことを考えていた。それがいつの間にか、合格発表に沸いて、胸にコサージュを挿して、セーラーはしまいこんで、夜が長くなって、目覚める時間が曜日ごとにばらばらになって、理物になって、振袖を着たと思ったら、すぐに桜が散って、将来のことを考えなきゃなあとか思いながらここにいる。本当に、一昨日まで、きっと一昨日くらいまで私たちは女子高生だったはずなのに。
「すみません、レモンサワーお願いします!」
なんて疑問を流すのにレモンサワーを使うようになったのは、いつからだっけ。
◇◇◇
コトハが「飲みに行こう」と言うだろうから、今日はおめかししてみた。ずっと、こんな日が来るだろうと思っていた。知っていた、と表現する方が適切か。推定と過去を迷うくらいには、私とコトハの付き合いは長くなっていた。今の流行りらしいレイヤースタイルを揺らして歩く後ろ姿に、セーラーによく似合ったポニーテールがないことに未だに驚くことがある。それが今や、こんなオールブラックのスーツとスモーク付きの車だらけの通りを歩くのが日常になってしまうだなんて。空気まで汚い気がする。早く駅の方に出たい。
「どこで飲む?」
「トブトリの飲みホでいいっしょ」
「好きね、コトハ」
「美味すぎるもん。デカくなったら古参アピする」
「確かに、まだ穴場だよね」
席に着くなり、レモンサワーとウーロンハイ薄めを注文。乾杯して、ウーロンハイをひとくち、ふたくち。一気に飲み干すコトハみたいに豪快に飲めるほど強くないから、そこは素直に羨ましい。すぐに二杯目を注文した彼女の眉が、ほんの僅かに垂れる。
「……ヤな事でもあった?」
「別に? 酒飲めて嬉しいくらい」
まあ、一杯目ならこんなものだろう。どうせ、今日はまだ長い。
「そういえばさ……」
コトハと話すのが好きだ。内容はどうでもいい。この飯がウマい、この曲がエモい、あの授業がダルい、あの教授はヤバい。ひとつの話題につきコトハは一杯。そんなことを口にはしても、料理はそこそことして、曲は幼稚だし、授業は割と楽しいし、教授は学部が違うし。
「つかさ〜、就活、コワくね? 院進しようかなぁ」
コトハとこうしていれば、将来が怖いともさほど思わないし。未来への憂いがないとは言わないけど。コトハは将来に苦労はなさそうだ。
「大変だよね、早期化だなんだって」
「なんでマチは他人事なんだよ〜」
「さすがに危機感くらいあるよ」
嘘だけど。
「ずっと大学生がいいよ〜」
「それ高校の頃も言ってたよ」
コトハの何杯目かわからないジョッキが届く。油っこい唐揚げを差し出して、私はコトハが手も出さないたこわさをつつく。
「じゃあずっと大学生とはいわないから、大学卒業したら高校生やりたい」
「わがままだ」
「あの頃は良かったよ、レモンサワーの味なんて知らなかったし」
始まった。コトハはどうも懐古趣味の気がある。高校一年生の秋には「春の頃に戻りたい」と言い、二年生には「一年生に」と、三年生には「二年生に」とこぼしてメロンソーダのストローを噛んでいた。居酒屋に来るようになってからは「高校生に戻りたい」としか言わない。現状も楽しんでいるくせに、不健全だと思う。
「高校生に戻りたいな〜って思うわけ」
「まあね、私も思わなくはないよ」
「珍し! マチ、いっつも面倒くさそうに聞くのに」
「わかってるなら控えてよ」
「私の愚痴聞くのはマチの仕事でしょ〜」
「はいはい、そうですよー」
いつの間にかコトハのグラスが空く。このペースはよくないと知りつつも、レモンサワーを頼む。勝手に頼んでもコトハは文句を言わない。思えばドリンクバーを取ってくるのも私の役だったし、これもマチという人間に与えられた仕事なのかもしれない。頬のあたりがしっかり赤く染まったコトハは、おもちゃのように首をゆらゆらさせながらため息をついた。
「なんで時って戻らないんだろうね」
「文句なら私じゃなくて現代科学にしてね」
「だってさあ、高校時代のあの日はもう帰ってこないんだよ? 理不尽じゃない?」
この世の理を理不尽と言われては、神だって不憫だろうに。もっとも、それを「理不尽だ」と言ってのけるのだから、コトハはすごいのだけれど。
「もうさ、贅沢言わないから高校の入学式まで戻って、今日までを追体験したいよね」
追体験。コトハはいつもその言葉を使う。その言葉の響きは驚くくらい純粋で、美しくて、危うい色を放つ。
「だって! あの空気! もうあの日あの場所にあった空気を吸えないんだよ!」
醜さとはかけ離れた透き通った欲求がそこにはあって、ただ、メロンソーダみたいにケミカルで毒々しい色をしていて、本人はそれに気付けない。狂気って、きっとこういうものを言うのだろう。コトハのせいで、最近はそれが確信になりつつある。
「……コトハはさ、過去に戻って何がしたいとは言わないよね」
過去に戻れたら、人間は何をしたがるか。私が知るのは、「死した人に会いたい」「過去の風景を見たい」「歴史の事実を明らかにしたい」「預言者になり名声を得たい」「金儲けをしたい」といった選択肢ばかり。その欲自体は別に悪いものではない。俗っぽくて、人間らしくて、ある種安心する。
「やりたいことだらけだよ?」
「例えば?」
ん〜、と言いながらコトハの首がゆっくりゆっくり傾いていく。素面でも酔っていても変わらない仕草。
「また眠気と戦いながら国語を受けたいし、冬の朝に教室でダウン脱ぎたいし、自分のお小遣いから買うノート代にため息ついたりしたい」
傾いた口から出た言葉に、目眩がする。これだからコトハは狂気的だ。彼女が求めるのは「過去だからできる体験」ではなく「あの時あった世界そのもの」なのだから。
「やっぱりわからないなあ。楽しいかな、それ」
「楽しかったじゃん、今思えば」
どき。胸が跳ねる。確かに、楽しかった。また体験できるなら嬉しいとも思う。認めてしまってはコトハと同罪になりそうで恐ろしいけれど。
「私はまたあの瞬間を生きたいだけだもん」
この欲は普遍的なものなのだろうか。仮にそうとしよう。それでも、コトハは頭抜けてマッドだ。私はそれを知っている。知っていたはずだけど、見て見ぬふりをしてきた。ふと、店員に声をかけられた。飲み放題のラストオーダーだという。
「コトハ、なに飲む?」
「え〜、だいぶ飲んだしな〜」
「水?」
「いや、マチにおまかせ〜」
とのことなので、メニューから目についたものを指さした。そろそろ時間も少ない。
「なんだっけ?」
「過去に戻れたらやりたいことの話」
「それ! もちろん、アルバム気分で懐かしみつつ立ち会いたいこともあるけどね!」
「例えば?」
「え〜? 入学式でマチが声かけてくれた瞬間とか〜?」
彼女は笑った。からかうようなニヤけ顔ではなくて、とろけてしまうような、惚気ているかのようなはにかみ。まったく、もう。
「コトハさ、私のこと好きすぎ」
「そだよ〜、今年で六年目よろしくね〜!」
私もコトハのことは大好きだ。こんなに気を許せる友達は他にいない。きっとどこで青春を送っても、これ以上の友達には巡り会えない。なんて素直に語れるのは、酔いのせいかもしれない。「よろしくね」という言葉に涙が出そうになるのも酔いのせいにしてやろう。
「不可逆なんてあんまりだ! 敵だ! 悪魔だ! 時が戻れないように設計されてるなんて、この世の創造主は神じゃなくて悪魔だよ〜!!」
「ケルビンもマクスウェルもびっくりな発言だなあ」
「将来は分子を選別する仕事に就く~!」
「酔ってる?」
「もうだいぶ〜〜!!」
今にも号泣するんじゃないかという赤さ。既に空のグラスを握りながら喚き散らせるのは、大学生でも来れるような居酒屋ならではだ。今のシーン、録画すればよかった。なんなら、光と音だけじゃなくて、この匂いも味も流れる空気も、月の座標も星の位相も地球の回った回数も保存できればいいのに。何気なくその思考がよぎって、私も狂気に侵されていることを知る。思わず漏れるため息。酔っているのかもしれない。
「あのさ」
そろそろ本題に入らなければ。
今日、私はコトハに伝えなければならないことがある。
それを知っていた。ずっと前から知っていた。だからおめかしもしたし、鏡の前で何度も声に出した。「過去に戻りたい気持ちは捨てよう」と。私の仕事は、彼女の愚痴を聞くことでも、レモンサワーを頼むことでもないから。でも、ここまで来て私にはもうひとつの考えが浮かんだ。
「もし、本当に過去に戻れるって言ったら、どうする?」
◇◇◇
マチが、手をついてそう言い放った。
「マチ、酔ってる?」
思わず尋ねる。私もさっきまでふわふわだったのに、きゅっと世界が引き締まった。
「かもね」
その言葉を遮るように、ジョッキがふたつ叩きつけるように置かれる。マチが頼んでくれた、ラストオーダーのドリンク。片方は、飲み飽きたレモンサワー。もう片方は、ケミカルな緑に炭酸が弾け、赤いストローの刺さった――
「どうするの、コトハ」
「あ、えと、マチは酔ってそうだから、レモンサワー……」
「違う」
「ええ? えっと、じゃあ、昔を想いながらこちらでも」
「飲み物の話なんてしてないよ、コトハ」
怖い顔をしている。あんまり見ないマチの顔。知らないわけではないけど、知っているとも言いがたくて、びっくりするのは隠せない。
「私が過去に戻してあげるって言ったら、コトハはどうするの」
その言葉を前に、つい飲み物で間を保とうとしてしまう。でも、レモンサワーに口をつけていいのか、もう片方――私が大好きだったメロンソーダ――を手に取るべきなのか、わからない。
「どういうこと? わかんないよ」
「今、ここで、選んで。コトハがそうしたいなら戻してあげる」
その目を見る。真っ黒な瞳。その瞳孔には吸い込まれそうなのに、視線には眉間を射止められそうで。
「入学式の、あの日まで」
マチは嘘が上手で、私はそれを見抜けたことはない。でも、こんな顔で冗談を言う子ではないのはよくわかっている。
「過去に戻れても、身体は? 私たちあれから五年も経ってるよ」
「それも戻してあげる。その技術があるって言ったら?」
「……てことは、またマチと女子高生できる?」
「……してあげる」
「体操着の貸し借りしたり、放課後にファミレス行ったり、つまらない課外受けたり、朝に鉢合わせて一緒に登校したりできる?」
「できるよ、もちろん」
「行こうって言ってたうちになくなっちゃったあのカフェも、バンドでもすればよかったねって後悔した文化祭も、台風でダメになったディズニーも?」
「全部、全部楽しめるよ」
「あはは、めっちゃ最高の高校生活じゃん」
マチは泣いていた。その頬を透明な液体が伝う。せっかくいつもより可愛いメイクをしているのにもったいない。そういえば、マチに高校生らしいメイクを教えてあげたのも私だったっけ。もし本当にあの日に戻れるなら、どんなに嬉しいだろうか。今の私はそう思ってやまない。
「……マチ、本気なの」
本当に過去に戻れるものか。
「本気」
「そっか」
それでも、マチは私に「どうする?」と聞いてくれた。「過去に戻ろう」ではないのだ。だから、これはきっと私が決めるべき話なのだ。答えは悩むまでもない。
「戻らないよ」
マチは悲しい顔も驚いた顔もしない。安心した顔もしなければ、口を開きもしない。
「このまま、大人になろう?」
緊張して、喉が渇いた。どっちでもいいか、とレモンサワーを手にとって流し込む。
「……コトハらしくないね」
マチは怖い顔を崩して、笑った。あのくすくす笑いではなく、諦めたような、ほっとしたような笑い。その懐から、ゔーっとやたら仰々しいバイブ音が鳴る。それをテーブルの下でちらりと確認して、袖で顔を拭ってから私に向き直った。頬に光るものはもうなかった。
「ま、冗談なんだけど。あんなに『戻りたい!』って言うのに、いいんだ」
「だって、それでやってくるのは私たちが過ごした『あの日』じゃないでしょ?」
そう。きっと、そこにあるのは「あの日を再現した日」で、そこにいるのは「あの日をまた楽しむ私」でしかない。不安だった新生活でマチが声をかけてくれた嬉しさも、中学生よりずっと自由な生活への驚きも、初めて制服でファミレスに入店した緊張も、きっとそこにはない。「ああ、こんな感じだった。昔こんな気持ちになったなあ」と思い返す私しかいないのだ。それは私の求める「あの日」ではない。
「それにさ、私のことだよ? ぜ〜ったい、戻ったら戻ったで『大学生だった頃に戻りたいよ〜』とか『マチに付き合ってもらって初めてレモンサワー飲んだ日に行きたいよ〜!』って言うに決まってるもん」
仮にタイムスリップができたとして、今この瞬間の思い出は残り続ける。私が歩んできた道は戻れても、足跡は結局一本線なのだ。それが行ったり来たりするだけで、昔歩んだ一歩に帰ってくることはできない。
「だから、戻らない。すっごい私らしいでしょ」
胸をぽんと叩く。レモンサワーを飲み干して、足りないからメロンソーダも飲んでやる。美味しくて、懐かしい。けど、今の私には少し甘すぎる。そんな私を見てか、くすくす、と耳慣れた声が漏れた。
「ほんと、コトハらしくていい」
思わず胸を撫でおろす。マチが柄にもない酔い方をして、どうしたものかと思ってしまった。いつもの笑顔で少し心臓の座りもよくなった。
「コトハ、明日何限からだっけ?」
「え〜、めっちゃヤバげな質問。二限」
「よし、終電コースなら大丈夫か」
「だいぶヤバいよ〜?」
「私は一限だからもっとヤバい」
「なんで終電って提案したの〜〜?」
「未来に後悔しないように遊んどくの!」
マチはそう言い放って、持て余しがちだった焼きそばにがっついた。料理がみるみるなくなっていくのが気持ちよくて、つられて箸のペースが上がる。
たらふく食べて店を後にし、夜の空気を浴びる。まだまだ夜はこれからですよと言わんばかりの眩しい灯りに、ついお互いの顔を見合わせる。二件目の居酒屋か、ちょっと洒落た店か、学生に優しいカラオケか、深夜までのファミレスでもいい。
「コトハ! 今日はとことん!」
「勘弁してよ〜!」
そんなことを言いながら、アスファルトに靴底を押し付けて一歩踏み出す。居酒屋のベタベタした床のせいか、歩くたびにぺったんぺったんと鳴る。それをいいことに、足跡をしっかり押し付けながら、私たちは夜を闊歩する。
◇◇◇
「じゃあねコトハ、ちゃんと寝て水も飲んで朝も食べてよ」
「いかないでよ〜、もどってきて〜……」
「帰るよ、ばいばい」
「ふかぎゃくなんて、てきだ〜〜っ!」
結局、コトハは潰れてしまった。前後不覚もいいところなので、最後くらいいいかとタクシーで送ってきた。当然その片道で私も終電を逃したので、同じタクシーで帰ってきた。稼いでるし、全部経費になるから構わないのだが、「大学生らしさ」を崩さぬよう生活していたのでタクシーは久々だ。ホテルにつけて、領収書を切ってもらう。その後で、もうその紙切れも不要なことを思い出す。
「はー、飲んだ飲んだ……」
フロントを抜け、エレベーターを登り、部屋の鍵を捻る。ホテル暮らしは結局最後まで慣れなかった。毎日清掃が入るのは嬉しいが、毎日他人に部屋のチェックをされると思うとそれも緊張する。慣れない時代とはいえ、先月までのアパートのほうがまだ居心地がよかった。洗面台にも向かわず、どかっとベッドに倒れ込む。全身がバウンスして、やや痛い。これで吐き気がこみ上げるレベルには至らなかった自分を褒める。
「これで、終わりかー……」
実に、丸五年以上。一世一代の大仕事だった。報告書も書かねばならないが、それは帰ってからで事足りるだろう。私の本来の仕事はコトハの愚痴を聞くことでも、レモンサワーを頼むことでもない。
西暦二〇六八年に
上路理葉――私が接していたところのコトハは偉大な科学者だった。一八八七年に小説『アナクロノペテー』が執筆されて以来、人類の悲願とされていたタイムマシンを開発、一世で実用レベルまで仕上げたのは彼女だった。「不可逆は敵だ」という言葉を知らない者は世界でいないにも等しい。もっとも、本人はタイムマシンが完成して間もなくこの世を去ってしまったのだが。
ただ、その発明は世界の常識を根本から変えてしまった。当然のことだ。確かにタイムマシンの登場で歴史上の未解決問題はかなりの数が解決され、さらにテクノロジーの進歩も飛躍的なものになったが、その恩恵の五倍は問題が発生した。人類史でも例を見ない速度での国際法の整備と、我らが国際航時刑事警察機構の発足・活躍により時間航行にもある程度の秩序は広がりつつあったが、当然それをかいくぐって犯罪を起こすものも多く、下手をすれば大幅な歴史改変が起きるという有り様だった。
結局、タイムマシンを手に負えなくなった人類の判断は「人類史上のタイムマシンの抹消」であった。つまり、開発者の過去への干渉。この決断はかなりの論争を引き起こした。最終的に国際航時刑事警察機構が法的に問題のない範囲で歴史改変を試みる極秘任務にて果たされることになった。
その現場の第一人者が里霧マチというわけだ。マチというのも令和用の偽名だが、ここまできたらどうでもいい。既に私にとって大事な名前のひとつになっていた。実年齢だってもっと上だ。十五歳からやり直したから平成と令和の人間になりかけているが、一応帰るべき場所がある。
ふと、ポケットの重力歪曲通信機を確認する。タイムマシンが開発された歴史の消滅が確認されたという通達。予測演算によると、今日コトハに「過去には戻らない」という意思を発生させることが歴史改変のトリガーだった。蝶の羽ばたきが遠方の竜巻を起こすように、その小さな意志が歴史を変えた。予測は正しく、無事私の任務も成功したわけだ。
「……コトハが戻りたいって言ったら、私も時空犯罪者になるつもりだったのにな」
なんて、呟いてみる。本気だった。成功するかはわからないけど、何回だって青春を繰り返してやろうと思った。もっとも、無事任務が成功したからそれでよかったのだが。
「さーてと、一仕事終えたし」
今日はとことん。任務中に酔うわけにはいかないからかなりローペースでしか酒は飲まなかったが、もう気持ちよく一気飲みしても許される。コトハの部屋から拝借した、缶のレモンサワーのプルタブに指をかける。カシュッと開栓して、ぐいーっと流し込む。
「……っはー、やーっぱ仕事終わりはレモンサワーよ」
コトハの「マチはお子ちゃまだねぇ」という言葉を思い返す。ここで込み上げるのが胃液なら、まだ格好つくのに。目の奥がじくじく熱くなって、震えて、瞼を閉じずにはいられなくて、その隙間から体液であろうそれが流れ落ちる。
水を差すように、通信機が鳴った。全く、こっちは何時だと思ってるんだ。
「はいー、無事完了しましたよ本部長」
さぞ労ってくれるのかと思いきや、開口一番怒鳴られた。なんでも、間もなく歴史改変が私たちの言う現代まで波及してきて、タイムマシンでの帰投が不可能になりかねないからだそうだ。なるほど、タイムマシンの開発を阻止したらそういうこともあるか。音声が聞こえにくいのも改変の影響かと思ったら、向こうはお祭り騒ぎらしい。主役は私なのに。悪い気はしないが、センチメンタルを阻害されていい気もしない。
「まあまあ、少しは余韻に浸らせてくださいよー……令和に思い入れもありますし」
「そりゃあ大変でしたよ、貴重な経験だったとは思いますけど」
「飲み連れてってくださいよ、頑張ったんだし。店? あー……トブトリとかどうですか。いやー、格安チェーンだからいいんですよ。わかってないなあ」
「ちょっと、今なんて? タイムマシンが悪魔の発明? 私の親友の発明なんですからね、ちょっと傷つくなー」
「まあ彼女は時の不可逆性こそ悪魔の発明だーみたいなこと言ってましたけど……面白いですよね、もうこれを書く伝記は残ってないでしょうけど」
「え、あ、親友? そうですよ、悪いですか。私は人類を救ったヒーローですよ? 私に楯突かないでください」
「冗談ですよ。はい、すぐに向かいますね。名残惜しいけど、そっちに戻らないわけにもいかないですから」
「はい、では、また。失礼します」
通話を切って、残ったレモンサワーを飲み干す。手に握ったままだったので、熱が伝わってぬるくなっていた。一息ついて、天上を見上げる。
私はコトハが本来持っていた歴史を歪めてしまった。それが倫理的に正しいのか、果たしてコトハは幸せなのか。考えるのは後にしよう。今は自分のことで手一杯だ。
コトハ。もう彼女に会うことはない。予期しない歴史改変を防ぐため、まともな別れの機会すら与えられなかった。「元気でね」くらい言えればよかったのに。目を閉じ、この五年間を思い返す。想うことは様々だが、時間もない。それこそ、何度でも繰り返せるならもっとかっこいいセリフを思いつくのにな。
「不可逆なんて、あんまりだ」
不可逆デーモニアンガールズ 七戸寧子 / 栗饅頭 @kurimanzyuu
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