第6話


 第5章 台湾と中国見たまま


 二〇一四年(平成二十六年)九月十四日午後、関空発の中華航空で、一路台北(タイペイ)に向かう。夫婦の旅だが、今回も奥田さん親子と一緒だ。

 台北・桃園空港近くの海浜には、風力発電機が椰子の並木のように並び立っている。タクシー運転手によれば、台湾の原発は四基とか。原稿執筆に当たり、裏取りをしたら、一時は六基あったが、その後原子炉は一部閉鎖されている。

 市内中心までタクシーで約一時間。檳榔(びんろう)の看板がやたら目立つ。檳榔は「危険ドラッグ」なので、大っぴらに販売はできないはずで、不思議

 に思っていたら、今は「コンビニ」「スーパー」の代名詞みたいなものらしい。夕食は「うなぎの肥前屋」がお薦めと、威勢よく奥田さんらと出かけたが、日曜日のせいか、長蛇の列だ。とても入れぬと、店を変え、「うなぎの京都屋」へ。

 鰻丼に鰻のあらい、それに白焼きが特に美味しかった。初めての台湾ビールもさっぱりと美味い。


 ●九月十五日(月)國立故宮博物院・図書文獻館を見る。新北投(しんぺいとう)温泉にも足を伸ばす。

 まず、故宮の団体客の多さには驚いた。大声で中国語を喋り、集まって作品の周りに壁を作る。ワイワイガヤガヤと芸術鑑賞という雰囲気からは程遠い有様である。

 博物館スタッフによれば、所蔵品約六十九万点だそうな。北京・紫禁城内にある故宮の方が、規模は三倍あるが、粒よりの名品の比重は、共産軍との内戦直前に蒋介石と台湾に移って来たこの故宮所蔵作品の方が高いと言われる。

 午前十一時の時点で、博物館の滞留客数は約二千三百人に上る。

 目を引いたのは「鼻煙壺(Snuff bottles)」と呼ばれる小さじ付きの瓶のコレクションだ。

 十七世紀にヨーロッパの宣教師により、南米から中国に渡る。乾燥煙草の葉を入れ、香辛料を混ぜたもので、風邪薬として重宝された。ヨーロッパでは箱型の入れ物だったが、多湿な中国では清時代の宮中の工房の手で、小さじ付きの瓶に改良された。

 図書文獻館前には蒋介石像が立つ。ここは博物院の喧騒から逃れて、静かな環境である。

 書棚には日本語の書籍も多く、半世紀にわたり日本の支配下にあったとはいえ、少なからず驚いた。故宮博物院の入り口には孫文の「天下為公」の文字の扁額が掲げられていた。「君主の地位を特定の血筋が私して占有しないこと」すなわち「世界は公共のためにある」という意味だ。

 温泉の方は、温泉峡の近くにある、日本で言えば「スーパー銭湯」のような感じ。露天浴場開場前には年配の地元の人たちが列を作っている。

 奥田さんが十五年前に来た頃は、人も少なくゆったりしていたらしいが、今では芋の子を洗う感あり。水着で入るのだが、湯船につかって、手で首筋や肩に湯をかけるだけでも、周りの浴客から注意されるなど、少々うるさく感じたこともあって、ほどほどに湯から出て、入り口の長椅子に座って、皆が上がって来るのを待っていた。


 ●九月十六日(火)宿替えして、天津大飯店に移る。ここでは日本語が通じる。

 台北から台南の高尾と並ぶ台湾の代表的な港町・基隆(キールン)へ。港を見下ろす中正公園へは結構な坂と石段を上る。坂沿いの樹木には日本では見かけない大型の鳥がこれまた聞き慣れない高い声で鳴き、リスが枝を渡っている。

 公園の頂上には、中元祭祀文物館があり、ヤミ煙草取り締まりに端を発する、外省人すなわち日本敗戦で台湾に乗り込んで来た国民党・陳儀台湾省行政長官側による本省人虐殺事件(一九四七年二月二十八日に発生した二・二八事件)の犠牲者を追悼する。

 台湾での本省人とは、一九四五年(昭和二〇年)に日本が太平洋戦争(大東亜戦争)に敗れ、中華民国へ台湾が帰属する以前から台湾に住んでいた漢民族と客家、高砂族やタイヤル族等、台湾原住民の混血子孫のことで、福建省南部で話されている方言・閩南語(びんなんご)を話す人達を指すことが多い。

 ここでの本省とは台湾省を指している。そのため、字義どおりには本省人という言葉には原住民(台湾で言う原住民とは、福建人の更に以前から住んでいるオーストロネシア系の諸民族のこと)が包含される。だが、日常的には原住民を意識せず用いられることが多い。

 なお、台湾本土派や独立派の中には、本省人という言葉が、台湾が中国の一省であることを前提とした表現であることを忌避し、台湾人や在来系台湾人などの語を使用するべきだと主張する人もいる。

 また、日本の統治が終わった台湾へ 移住してきた中華民国公民は台湾省以外に本籍を持っているため、外省人と呼ばれる。同じ理由から、彼らを「在台中国人」と呼ぶ人もいる。

 基隆から南に約十キロの山間部にある九份(きゅうふん、あるいは、ジォウフェン)は、二・二八事件の虐殺の中心となったところで、候孝賢(コウ・コウケン)監督映画『非情城市』の舞台となり、今では台湾指折りの観光地である。

 観光客の顔ぶれではヨーロッパ系の外国人と日本人の若い女性が多い印象を受けた。

 坂が上下する狭い道沿いには食べ物や土産物を売る店が立ち並び活気がある。

 若い日本人のお目当ては、宮崎駿監督のアニメ『千と千尋の神隠し』の背景のモデルとなったと思われる坂道の喫茶店界隈である。

 帰路はバスにて、かつては東アジア一の金鉱山として知られた瑞芳を経由して台北に戻った。


 ●九月十七日(水)

 蒋介石の事績記念堂である中正紀念堂と台湾原住民が暮らす烏来(ウーライ)へ。

 広大な敷地の中心にある紀念堂には、ちょうどアメリカ・ワシントンDCにあるリンカーン記念館のリンカーン像を想起させる、アームチェアーに腰かけた笑顔の蒋介石像が安置されている。

 蒋介石の本名は蒋中正であり、そこから中正紀念堂と呼ばれ、記念堂に上がる階段は、蒋介石が八十九歳で亡くなったことから、八十九段の階段になった。 

 毎正時には像を挟んで直立不動の左右の儀仗兵(中華民国三軍儀兵の名称が上着に縫い込まれている)の交代式が行われ、紀念堂を訪れる観光客らの絶好の被写体になっている。

 烏来(ウーライ)は原住民タイヤル族の言葉で「温泉」という意味で、それに漢字表記を与えたもの。タイヤル族の住む温泉施設を中心に発達した平均標高一〇〇〇メートルにある山村である。

 地下鉄MRTの新店駅からバスに揺られ山中を四十分ほど行くと、川沿いに温泉施設があり、川には水着で泳ぐ人がいた。日中三十六度という猛暑日で、少し歩けば汗にまみれる。

 温泉施設に入り、川を眺めながら内湯で中温地(地は浴槽の意)すなわち普通の温度の浴槽、温度が低い浴槽、それに打たせ湯を堪能した。

 打たせ湯は水勢があり、実に気持ちがよかった。湯から上がって、大型扇風機にあたりながら養生茶を飲み、湯船から戻る人を待つ。あとは土産物。原住民製作の手工芸品三つを、留守番をしている我が家の女性陣のために購入。土産を包むビニール紙には Taiwan Aborigines(台湾のアボリジン)と書かれてあった。アボリジンはオーストラリアの先住民のことである。


 ●九月十八日(木)台北市内の空港(松山機場)から中国大陸と向き合う最先端の島・金門島に移動。相変わらずの猛暑である。

 下田というバス停近くの民家の一角にお年寄りなどファミリーが外の椅子に腰かけて涼んでいた。説明書によれば、下田は蔡姓の村落で、傍にある井戸は「福建海賊」の頭目であった鄭成功将軍が掘ったとあり、年中泉が湧いている。

 井戸は、国姓井(こくせんい)として、ずっと良好に管理されており、未だに水を供給し続けている。近くの西湖原(さいこばら)は周囲の堤とともに建設され、金門島の飲料水源として利用されている。水鳥も多く、観鳥の場でもある。

 国姓井でわかる『国性爺合戦』(こくせんやかっせん)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。のちに全五段で歌舞伎化された。

 一七一五年(( 正徳五年)、大坂の竹本座で初演。江戸時代初期、中国人を父に、日本人を母に持ち、台湾を拠点に明朝の復興運動を行なった鄭成功。国性爺、史実では国姓爺を題材にとり、これを脚色。結末を含め、史実とは異なる展開となっている。和藤内((鄭成功)が異母姉の夫・ 甘輝との同盟を結ぶ「甘輝館」が有名。初演から十七か月続演の記録を打ち立てた。

 島内では辻々にスローガンが散見される。曰く「独立作戦」「自立更生」「中華民國万歳」。

 並木の巨樹・榕樹(ようじゅ)は樹齢百三十年以上。金門県が貴重な樹に指定し、蔓状の枝がどっしり垂れ下がっている。タクシー車内で見かけた語句は『瞬間疏忽 終身遺憾』。注意一秒けが一生にあたるものだろう。

 宿の近くの商店街を歩く。肉うどん屋さんがあった。元台北の大手ホテルに店を構えていたと誇らしげに話すご主人。一回目はランチで存在を知り、おいしかったので二回目はテイクアウトした。


 ●九月十九日(金)金門島から大陸のアモイへ移動する日。

 金門島・古寧頭にある「古寧頭戦史館」を見学。

 一九四九年(昭和二十四年)十月二十四日、泉州・石井港に集結した共産党軍が、台湾に逃げ込んだ蒋介石率いる国民党軍掃討のため、金門島に侵入。両軍の激しい戦闘となった。

 共産党軍の数およそ九千人。守る国民軍三万人。十月二十六日には共産党軍第二波が襲来する。国民軍は李樹蘭将軍に率いられ、猛然と立ち向かい、二十七日、共産党軍は壊滅した。

「全軍前進!」を命じた李将軍は英霊となり、将軍の本陣があった場所に廟が建てられ、将軍を祭っている。その前をバスで通過した。

 午後、金門島から船で対岸の中国・アモイに渡る。ここでパスポート。国境である。台湾海峡を船で大陸に渡るだけで、目前に大都会が現出した。

 恐ろしいほどの車の横暴さに戸惑う。どれも人を蹴散らすように走り抜けて行く。「格差社会」の鬱憤晴らしかと思うほど、運転が荒っぽい。交差点でも、右折、左折の車は「早く渡れ!」とばかりに、歩行者の身体ギリギリのところまでにじり寄ってくる。歩道には何台もの車が乗り上げて歩きにくいことこの上ない。車のモラルなんて全くこの国には存在しないのではと思う。

 数日過ごしただけの台湾の穏やかさが懐かしく、台湾海峡を渡るだけで車によるストレスが全く違うのに驚いた。

 しかし、そんな車のことなどお構いなしに、どんどん道路を横断してゆく奥田さん。「ふだんもそうだ」とのたまったが、大陸が初めての人間もいるのだからもう少し気配りが欲しい。人が平気で順番を抜かすのも困りもの。

 バスターミナルでわたしはついにキレた。バス停で待っている乗客を撥ねかねないスピードでレーンに入って来たり、乗客をわざと置いてきぼりにしたりするバスを許せなかった。

 奥田さんの「それがアジアや」という言葉が引き金になった。

「そんなアジアは要らん!」とわたしは反駁する。

「そんなら来ないでよい」と言う奥田さんに返事を返さなかった。

「それがアジアや」という奥田さんの言葉の裏には、アジアをあるがままに受け入れようという気概があったのだろう。まず全てを受け入れた上で、対象物を料理する。そこから自分独自の世界観が生まれる。そういうことを仰ったのだろう。

 わたしもジャーナリストの端くれである。そういう受け入れ方はよくわかる。

 が、しかし、わたしはアモイで直面した危険極まりない車両の横暴さに立腹していた訳で、人間の命が虫けらのように扱われている現実を垣間見たのである。

 わたしはそれを決して認めたくなかった。

 そういう意味で「そんなアジアなら要らん!」と叫んだのだ。

 わたしと奥田さんとの現象面での衝突は、アジア観の相違から発したものではないと、今でも思っている。

 ホテルに荷物を置き、租界と観光の島・コロンス島に渡るべく猛暑の中を延々歩いたためか、同じことを何度も聞かれた時のように少しの刺激でもキレる精神状態になっていた。おまけにフェリーは観光客で満員状態。疲労が増すばかり。

 最初に泊ったホテルの部屋にも不満が爆発した。まず冷蔵庫なし。湯わかしはあるが、備え付けの茶がない。リモコン操作が複雑でテレビが頗る見づらい。それに殆どチャネルが映らない。CNNも映らない! 情報閉鎖はやめろ、と叫びたくなった。

 しかし、それが当時のわたしから見た中国の現実だった。

 その現実を見定めるために、苦しいことがあっても、これからも現地を踏み、そこから伝えるべきものを伝えていく。それが、自分が長年にわたり携わって来たジャーナリズムの務めなのであろう。


 ●九月二十日(土)アモイから泉州へ。

 一晩ゆっくり寝て、気分も回復し、身体の疲れもとれた。泉州海外交通史博物館に足を運ぶ。ここで、時代は違うが、とかく同じ航海家として紛らわしい鄭和と鄭成功の区別が出来た。

 ▼鄭和(一三七一~一四三三 Ma Sanbo Three-Jewel Ma)

 雲南人。中国最大の航海家。一四〇五~一四三三年にかけて七回の航海で、あわせて二百隻以上の船で、乗組員二万七千人以上を引き連れて、アジア・アフリカの三十カ国以上を訪問。

 ▼鄭成功(一六二四~一六六二 Koxinga コシンガ)

 泉州・石井の人。中国の偉大な国民的英雄。一六六一年・四千隻、二万五千人を引き連れて、台湾へ航海。オランダと交戦し、旗艦を沈め、降伏させる。三十八年にわたり侵入者に占拠されていた台湾島が復権。

 海のシルクロードのターミナル・泉州に相応しい展示であった。

 夕刻は茶の試飲などして束の間の静かなホッコリした時を過ごす。通りに出て、妻の咳止めを買いに行ったら、戻る途中、辺りで鼻をつく異臭がした。臭豆腐らしい。これは退散するしかない!

 中国のバスルームに必ずといってよいほど掲げられている『小心地滑』(Be careful not to slip)という注意書きの文字。「滑らないようにご注意!」の意だが、「小心」は日本の「小心者」ではなく、「細心」に近く、「細心の注意をはらって」。「地滑」は文字通り「風呂の床で滑る」の意になる。日本と中国の意味合いの違いは実に面白い。


 ●九月二十一日(日)アモイから、アジアひいては世界経済を牛耳るとまで言われた経済マフィアが輩出した客家(はっか)の里、永定(えいてい)へ。

 バスガイドが出発前にパスポートを集めに来たが、意味がわからないまま手渡してしまったので悔いが残った。何の目的でそうするのかを、その都度知っておかなくてはならない。

 この度は、どうも客家土楼の入場料にシニア割引があり、年齢チェックのため集めたらしいが、その説明をスマートホンの英文で見せてもらったけれど、英文の意味がおかしい。

 これもほんの一例で、中国では英語のスペルから始まり、間違った英語がまかり通っているのによく出くわす。

 色々あってようやくバスが出発する。

 川沿いの山道にはバナナ林、竹林、紅の花に紫の花。鴛鴦に鴨。天気は晴れから、薄っすら曇り始めた。

 客家土楼(HAKKA DULOU)に到着。客家はもともと中国文化発祥の地とされる黄河の中下流域・中原(ちゅうげん)に居た漢族間の争いで、分派した漢族が永定などの山奥に逃げ込み、中央にドーナッツ状の広場がある円形、正方形、長方形などの複層階の集合住居を建て、共同して敵(人間と猛獣など)から自らを守った。土楼は色々な名で呼ばれているが、今では福建省の名前をとって福建土楼(ふっけんどろう)と公式に呼ばれている。

 福建土楼の一例として訪ねたところは一七七五年金朝時代に建てられ、長方形の三階建で、中央に広場があった。

 客家からは経済マフィアと同時に政治のリーダーが輩出している。李登輝(初代台湾総統)、鄧小平(元中国国家主席)、リー・クワン・ユー(元シンガポール首相)らが代表的な人物だ。どれもバイタリティに溢れる人物ばかり。


 ●九月二十二日(月)アモイの南普陀寺参拝。山上に港を望む石の展望台があった。途中岩場で休憩をとりながら、奥田さんと二人で文学論議をする。しかし、次第に小生の作品『五木田ブリ蔵の冒険』の批判が始まった。

 この作品は太平洋の島の地下深くにゴキブリの総本山の帝国があり、ゴキブリの天敵・人間による強力な殺虫スプレーの開発を阻止すべく、帝国から人間界に送り込まれたブリ蔵という名のスパイ・ゴキブリの人間界での冒険を描いたファンタジーものである。この作品には四百字詰め原稿用紙で二十五枚から三百三十枚までの色々なバージョンを作ったが、そのひとつの梗概は以下の通りである。


 ブリ蔵は人間に変身する能力を備え、日本人になりきるため、数年を日本で過ごし、五木田肇という日本名で日本の大手殺虫剤メーカーM社の拠点があるニューヨークに潜入する。

 コールガールの美樹を使い、肉体と引き換えに営業部員の最上から極秘資料を入手し、その資料を基に殺虫剤の効き目を無効にするワクチンが製造される。ワクチンは帝国が地球上に張り巡らした配信システムにより、全世界のゴキブリに配布される仕組みになっている。

 配信システムの存在に気付いたM社は、探査ロボットを駆使してシステムを破壊すべく攻勢をかける。その探査ロボットを破壊するため、ブリ蔵は美樹によるピンク作戦をM社広報部長の直木に仕掛け、寝物語の情報を得てロボットのコントロール室を破壊する。

 しかし、手動制御のロボットが帝国を発見する。ワクチン配信システムを破壊するため、直木をトップとする対策チームが砂漠地帯に派遣された。

 ブリ蔵らの懸命の破壊工作でとりあえず帝国の危機は救われたが、息つく間もなく、今度はスーパー殺虫兵器・ミサイルXXXが製造される。

 ブリ蔵は第二次ピンク作戦を直木に仕掛け、新ワクチン製造のための極秘資料を手に入れる。

 極秘資料を奪われた責任をとり免職させられた直木は、ブリ蔵に恨みを抱き、美樹を拉致してブリ蔵を決闘の場におびき出し、スナイパーを使って亡き者にしようとする。

 ブリ蔵は瀕死の直木に銃撃され、病院に運ばれたが一命は取り留める。一度は失いかけた命だから思い切ったことをしようと、ブリ蔵は人間の妻をめとる。新妻は芳恵という名前だ。

 休日のある日、芳恵が販売中止になった殺虫スプレーをゴキブリに噴射したとたん、ゴキブリが死んでしまった。まだワクチン接種をしていない同胞がいた! ブリ蔵はワクチン接種の徹底をゴーキー大帝に呼びかけてもらおうと、帝国にメールを打つ。


 この作品を合評会に提出した際、奥田さんとメンバーの友永さんから以下のように批評を頂いた。


(奥田)お話になっているか。二十年たって、やっと話になった。これまでの集大成。蓄積。集積。性の描写が進化。ただ、妻との肌合わせや人間とゴキブリのセックスが描けていない。ボッカの変身などが簡単過ぎる。子供があまり出てこない。三回読んだ。ここから批評が始まる。むいても、むいても芯が残るものでなければ。スパイの悲哀が描かれていない。コミックか文学か。


(友永)大人の読むSFコミックとして、作者の意気込みや新鮮さを感じる。主人公の自堕落な人間くささが面白い。自らの体験を生かし、アメリカの都市を舞台にして描けるのはうらやましい。ストーリーの展開遅く、メインストーリーに行くまでに、パート、パートに厚みがないため継続して読む気持ちが少し萎える。客観描写として、主人公の人間とゴキブリの二通りの視点が混同しているのは仕方がないが、なかなかなじめないのは何故か……。もっとハラハラ、ドキドキする場面や、コミカルな表現を増やしてはどうか……。人類を凌駕するようなハイテクを手にしていながら、ゴキブリの通念的なイメージとして、人類のおこぼれで生活している様子が前面に出ているのには少し違和感を覚える。ブリ蔵の思考の中に、昆虫であるゴキブリとしての突拍子もない発想のようなものが見られれば、さらに面白くなるのでは。五木田が美樹を手下のように使える理由がよく分からない。「濡れ場」の描写はもっと遠慮せずに……。ゴキブリは果たして人間に嫌われないための努力をしたのか。その辺が描かれていれば。科学的。ファンタジーではない。


(奥田)非科学的。ファンタジーや。


 正直者(?)のわたしは、大体合評会で指摘された事項を素直に改稿に盛り込む場合が多い。この時は奥田さんの指摘を受けて、人間とゴキブリのセックスシーンを付け加えた。

 しかしながら、その結果アモイの岩場に座った奥田さんの口からは「この人間とゴキブリのセックス描写は余計」などという言葉が飛び出したのには正直驚いた。

 書き方、表現の仕方についての批評なら受けて立つが、自らが合評で指摘したことを全否定するような発言はマッチポンプそのものであり、頷けなかった。

 その後、山を下り、鄭成功の像があるコロンス島を散策する。妻はホテルで休息。中々すっきりとしないので、二回ほど旅を中断して帰国しようと話したことがあったが、結局予定通りの帰国とした。


 ●九月二十三日(火)朝のがらんとしたアモイの街中で鳥が啼く。アモイを離れ、金門島へ。台北への飛行機がフル・ブッキングで翌日分予約になったので、金門島一泊となり、部屋の鍵を返すのを忘れていた民宿に再び泊まる。妻は部屋でひたすら眠る。夜、向かいの寺の境内散策と肉うどんのテイクアウトに行く。


 ●九月二十四日(水)

 金門島の空港で、台南方面に出かける奥田さん一行と別れ、帰路に着く。

 因みに奥田さんは、二〇二四年(令和六年)十月二十八日、卒寿(九十歳)の誕生日を迎え、有志がバースデーケーキを持参して彼の自宅を訪れ、誕生祝いをした。最近ではすっかり脚が悪くなり、自宅から出掛けることも無くなって、中国・アモイでの健脚ぶりは昔話になってしまったが、元気にされている。

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