第5話
第4章 韓国見たまま
北朝鮮を取材したなら韓国も見たくなるのは人情というものだろう。二〇一二年(平成二十四年)七月六日から十二日まで、その機会が訪れた。その旅では韓国・ソウルで同行者と落ち合うことになっていた。大阪の作家・奥田継夫氏と息子さんだ。
奥田さんは一九三四年(昭和九年)生まれで、戦時中、自らの学童疎開の壮絶な体験をもとに著した小説『ボクちゃんの戦場』(理論社)が代表作である。彼は大阪で、平和と言う意味のロシア語を日本語表現した《みーる》というバーを経営しており、わたしは彼と酒を飲み、彼手作りの肴を味わいながら、ユダヤ問題などで論を戦わせているうちにいつの間にかそのバーの常連になっていた。彼が執筆を休む木曜と金曜の週二日だけ開店する《みーる》も、二〇〇〇年(平成十二年)末に閉店した。わたしはその後奥田さんを囲む会を有志と立ち上げ、彼との交流は続いた。会と並行して文学作品の合評会も開き、奥田さんはわたしの文学上の厳しい師匠でもあった。今回紹介する旅もそういう関係から生まれたものである。それでは日を追って韓国見たままの旅を記そう。
●(七月六日)
関空から韓国・金浦空港へ飛ぶ。あっという間に金浦に着いたら梅雨空のソウルが出迎えてくれた。金浦空港は勿論初めてだが、わたしには一九七〇年(昭和四十五年)日本で発生した大事件を想起させる。大阪万国博が開幕した直後に起きた日航「よど号」ハイジャック事件だ。日韓両政府は北朝鮮の首都ピョンヤンに向け飛び立った「よど号」をピョンヤンに着いたと思わせて、実は金浦空港に着陸させた。しかし、ハイジャック犯は一枚上手だった。機の窓から目ざとく米軍の車両を確認し、騙されまいと機をピョンヤンに向けて飛び立たせた。
そんな事件のことを脳裏に掠めながら、わたしはソウル駅から忠武路(チュンムロ)という駅が最寄り駅と聞いていたアストリアホテルへ向かった。本当に駅から歩いて直ぐのところにホテルはあった。
奥田さん一行より一日早く韓国入りしていたのは、彼に会う前にソウルの街を一人で歩いてみようと思ったからだ。
チェックイン後、最初にソウルでも代表的な繁華街・明洞(ミョンドン)と最大の市場・南大門(ナムデモン)に出かけた。ロッテ百貨店の免税店を冷やかし、地下食料品街を歩くと、品揃いの多さ、規模の大きさに眼を見張る。
明洞は今や韓国コスメの拠点にもなっており、通りには軒並み化粧品を売る店が並んでいる。日本人観光客もわざわざコスメを買いに訪れるほど、韓国の化粧品は日本にも知られている。
移動は初めて乗る地下鉄で地図を見ながらの旅である。駅の表示などは韓国語、中国語、日本語と三か国語で表示されている。
日本での日常は初めてのソウル散歩ですっかりと隅に押しやられてしまい、新しい環境に慣れようとわたしの体内では「脳活」がフル回転していた。
アストリアホテルまで無事に戻ったが、部屋の履物は部屋に泊まった人間の使いまわしなので早々にしまい込む。水虫でもうつされたら大変だ。それにバスタブは垢のようなものがこびりついている。ちゃんと清掃しているのか大いに疑問だ。日本では、どこに泊まろうが、こういう不潔感を味わわされる宿泊施設はまずお目にかからない。わたしはインドネシアでアロハシャツを買い求めた時のことを思い出した。恒例の値引き交渉をした後で、買い物から帰ってシャツを広げてみたら、ビリッと音がして、袖が簡単に破けたのである。不潔感漂うホテルの部屋と同じく、現代社会の基礎的な部分でその国がまだまだ改良の余地があると気づかされるのは、異国を旅した時であろう。
●(七月七日)アストリアホテル近くを散歩していたら初めて韓国らしい山門を発見! そこは南山自然公園の入り口だった。異国の地で初めてほっとする空間を見つけたという感じで、早速公園内を散策してみた。
ソウル建都六百年記念の銘板がある。ということは、ソウルは一四一二年に都が作られたことになる。この年は日本で応永十九年。室町時代で、ウィキピディアを見ると、若狭国・小浜に南蛮船が来航とあった。
今夜宿泊するヒュンダイ・レジデンスに前もって荷物を預けておこうとしたが、ヒュンダイを知らない運転手ばかり。日本のタクシーなら無線基地に問い合わせるなり、地図を調べるなりするだろうが、調べようとする者すらいない。
運転手がホテルのスタッフを連れて来て何とかしようと、ひと騒動になる。結局おばさんドライバーが何とか連れて行ってくれた。
荷物をフロントに預けて、待たせておいたタクシーでロッテ百貨店前まで乗り、百貨店開店までの時間、南大門市場(ナムデモン・シジャン)を見て回る。
近くにアイルランド大使館があった。ほんの二か月ほど前、わたしはアイルランドを旅して回ったから気になったのだった。七夕の午後、インチョン空港で、アカシヤの大連から到着した奥田さん親子と合流する。
空港高速でソウル市内のヒュンダイ・レジデンスへ移動。翌日以降の旅のスケジュールの打ち合わせをしてから中国の「甘い冷麺」に飽きた食通の奥田さんらと近くの店で冷麺を食べたら、「これはいける!」と奥田さん。腹ごなしに近くの市場でプラスチックボトル入りのマッコリを買ったが、バッグ内で漏れ、捨てる羽目になった。こんなことって日本であるだろうか。まずない。
●(七月八日)今回の旅の核ともなる「百済王朝」の古都・扶余(プヨ)に移動した。ソウル・南部バスターミナルから高速道路約一時間半で「百済王朝」の三番目の首都だった扶余(プヨ)に入る。
先史時代の松菊里遺跡と山直里支石墓(ドルメン)を見て回る。扶余国立博物館でパノラマ的に百済地方の歴史を見学した。
扶蘇山登山で落花岩へ。ここは白馬川流れる景勝の地で、悲話がある。敵に貞操破りの辱めを受けないために、百済の女性が岩山から飛び降り自殺をした地である。亡くなった百済女性の霊を慰める寺が山腹にあり、寺で王様が飲んでいたという聖水をいただく。扶余の中心街に戻ると、日本では昔懐かしい温泉マークがあちこちに。連れ込みモーテルに分泊することになり、あてがわれた部屋に入ると、如何にも怪しげな簡易ベッドと赤っぽい照明が男女の営みを想像させる。窓から外を覗くと、向かいのビルの一階にある食堂で男女が食事の真最中。終われば、近くのモーテルで逢引きするのだろうか。
●(七月九日)早朝独りで散歩に出た。海外に来ると滞在先でいつもする習慣である。百済の英雄・階伯(ケベク)将軍像と聖王像を結ぶ扶余のメインストリートを歩くと、百済のシンボルである五重の石塔がある定林寺址があった。
韓国で初運転する。右側通行・左ハンドル、レンタルした八人乗りのハイエースの初運転に戸惑いながらも、ナビを見ながら進行。同乗者が少々怖がるような運転ではあったが、幸い無事故で車を降りた。
六六三年(天智二年)百済復興を目指す日本・百済の連合軍と唐・新羅連合軍が戦った白村江の戦いの舞台と比定され、出船入船で活気溢れる群山港を歩いた。その付近には目測数キロもある巨大な産業開発ゾーンがあり、韓国の発展ぶりを目の当たりにした。
郊外にある桓武天皇の生母とゆかりのある武寧王稜を参拝。日本とは非常に縁の深い王様が眠る地で博物館を訪問。ここで最も印象的だったのは燦然と輝く『百済金堂大香炉』である。国宝二百八十七号と書かれ、売店で思わずミニチュアを買ってしまった。
バスで移動し、歴代朝鮮王が執務したり、歴代大統領も逗留したりした温湯温泉ホテルに到着。日本では当月から提供禁止になった生ユッケをたらふく食べる。プルコギも驚くほど美味い! さすが本場だ。持ち込み赤ぶどう酒も韓国焼酎・マッコリもいける! 韓国の食に夢中になった夜だった。
●(七月十日)百済王陵墓参拝。風水的に工夫された景勝地の山上に七つの円墳が鎮座する。
午後、ソウルに戻る。地下鉄2号線・安国(アングク)駅近くの文教地区にある韓国町家の宿に泊まる。女性的な色合いの内装からしてキーセン女性を連想する部屋が小さな庭の空間を取り巻くようにある。
奥田さんの趣味ともいえる散髪屋さん併設の大衆浴場があり、彼は早速散髪の椅子に座る。風呂に入ったら、冷水浴と温水のバスタブがあり、中年男性が交互に入浴していた。今では詳しいことはわからないが、風呂のわずかな料金のことでひと騒ぎがあった。お互い言葉のわからない地で、案内した町家の女性の不注意も重なった結果らしい。
●(七月十一日)終日ソウルを巡る。朝鮮王朝の王宮で世界遺産の昌慶宮。日本人観光客と修学旅行生が目立つ。
昌慶宮を見たからと、外から眺めるだけにしようとした景福宮だったが、ガイドブックで「『朝鮮征伐』の際、豊臣秀吉が焼き払った」と聞いた途端、それまで引いていた奥田さんが大乗り気になり、内部を見学することになった。
民族服姿の王宮衛兵の交代式行進にうまくぶつかり、大勢の観光客が見守る中、王宮の雰囲気が漂った。
さらに国立民俗博物館を訪問。野外には性器信仰像が林立する。男根と女陰形の石などがおおらかに展示されている。
東大門市場と南大門市場それにロッテ百貨店を徒歩で見学。
案内役にされていたので、とにかく迷わずに現場まで一行を連れて行けたのでホッとしたが、百貨店地下の食材も、免税品も奥田さんはさほど興味を示さなかったので、拍子抜けの感あり。
夕食は韓国では人気のない中国料理を、チンタオビアと喉が焼けそうになるマオタイ酒で楽しむ。
●(七月十二日)心残りだった生後五か月の孫娘に靴下のお土産を買うため再び南大門市場まで単独行。
昼飯は地元のサラリーマンやOLで賑わう小奇麗な弁当屋さんで。冷そうめんと、持ち込みの焼き・蒸し餃子を食らう。
バス停で空港バスの客をかすめとるタクシーに思わず乗ってしまい、インチョン国際空港まで。
料金はバスと全く同じとその運転手は言ったが、乗ってから「高速料金は別(バスは不要)」と言われ、奥田さんの息子・寛君が立腹。しかし奥田さんは「だまされる方が悪い。次からのための投資(勉強代)と思え」と一蹴された。
免税店で蔘鶏湯(サムゲタン)と寛君お薦めのスイスのチョコレートを土産に買う。乗っかればわずか一時間二十分の飛行で関空着。そのあとは待ち時間と人身事故で、帰宅は午前一時前になってしまった。
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