第4話


第3章 拉致問題


朝鮮半島の問題で避けて通れないのは北朝鮮による組織的な日本人拉致の問題である。

わたしが北朝鮮を取材で訪れた一九八四年(昭和五十九年)、既に拉致事件は起きており、日本海側の海岸から日本人が北朝鮮工作員の手で拉致されていた。わたしら取材団は当時その件を全く知らないまま、現地取材を続けていたのである。

すなわち一九七七年(昭和五十二年)十一月十五日、新潟市立寄居中学生だった横田めぐみさん(当時十三歳)が放課後のバドミントン部練習後、帰宅途中に失踪した。

また翌年一九七八年(昭和五十三年)七月三十一日には、新潟県・柏崎市の海岸で、当時中央大学三回生だった蓮池薫さんが夏休み帰省中、近くにある図書館で待ち合わせていた美容指導員の奥土裕木子さんと一緒に姿を消した。この夏には別に二組の男女が失踪している。

後にこれらのケースはいずれも北朝鮮工作員が拉致し、北朝鮮に連れて行かれたことが判明する。

 ところが、一連の失踪事件が北朝鮮による拉致によるものと日本政府が初めて認めたのは、横田めぐみさんの失踪から十一年が経過した一九八八年(昭和六十三年)で、当時の梶山静六国家公安委員長が参議院予算委員会で「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」と発言した。しかし、当時のマスコミはこの発言を無視し、報じなかった。

 年代を追って、日本人拉致事件の経緯を紹介する。

 一九九七年二月三日、失踪からちょうど二十年経ったこの年、横田めぐみさんの拉致疑惑が表面化し、マスコミがこれを一斉に報じた。家族は実名を公表して救出活動を行うことを決断し、同じように肉親を拉致された被害者家族が集まって拉致被害者家族会を結成した。

 二〇〇二年(平成十四年)三月十一日。「よど号」事件グループ・柴田泰弘の妻だった八尾恵が東京地裁で、自分が当時ロンドンにいた有本恵子さんを騙して北朝鮮に連れて行ったと証言した。

 その年の九月十七日、当時の小泉首相が北朝鮮を電撃訪問し、当時のキム・ジョンイル主席と会見した。北朝鮮はこの段階で、拉致被害者は「五人生存、八人死亡」と発表し、拉致を認め、キム・ジョンイル主席は次のように謝罪した。

『七十~八十年代に特殊部署が妄動主義、英雄主義に駆られ、工作員の日本語教育と、日本人に成りすまして韓国へ侵入するために日本人を拉致したが、このような誤った指示をした幹部を処罰した。工作船は軍部が訓練の下でした。私は知らなかった。再びないようにする』

 その年の十月十五日には拉致被害者五人が日本政府のチャーター便で二十四年ぶりに帰国する。羽田空港には帰国を待ちわびた家族らが出迎え、再会を喜び合った。地村保志さん夫妻・蓮池薫さん夫妻・曽我ひとみさんの五人は記者会見で「長い間ご心配をかけました」と発言した。

五人は翌々日、それぞれの故郷に帰り、親や幼馴染との再会を果たしたが、地村さんは、再会できないままこの年四月に亡くなった母の仏前で涙ながらに帰国の報告をした。

だが、横田めぐみさんら帰国できなかった八名は全員死亡したとされ、その後、めぐみさんの遺骨まで登場したが、鑑定の結果全く別人の骨だと断定され、その後も蓮池薫さんの北朝鮮での生活から得た発言から北朝鮮の嘘が次々と発覚し、「八人死亡」という発表はその根拠を失った。

二〇〇四年(平成十六年)には小泉首相が再び訪朝し、地村・蓮池夫婦の子供らが帰国した。

 北朝鮮が五人を一時帰国させ、八人死亡と発表した背景について蓮池薫さんはこう証言する。

「当初五人の帰国は二週間ほどの一時帰国とされていた。帰国したのは北朝鮮当局が、子供を人質に出来ると判断した両親と、従順で、帰国しても北朝鮮に不都合なことを言う恐れのないと判断した人物だけで、それ以外は『死亡』と全くの出鱈目を言い、帰国させなかったのではなかろうか」

 それに関連して、蓮池さんは、横田めぐみさんについて、「彼女は拉致当時手に持っていたラケットカバーを大事そうにしていた。十三歳と拉致された年齢が若く、日本の家族の元に帰りたいという願望はそれだけ強かっただろう」

現に、彼女は北の幹部に帰国したいという希望を伝える一方、幾度か家を離れて彷徨う間に検問所で引き留められたことがあったという。

 この話を聞いてわたしが感じるのは、そういう態度を憂慮した北朝鮮当局がめぐみさんを帰国者候補からまず外す判断を下したのではなかろうかということだ。

さて、今分かっている範囲で横田めぐみさんと蓮池薫・奥土裕木子さんの二組の拉致の状況について見てみよう。

まず横田めぐみさん。部活動を終えて帰宅する途中で北朝鮮工作員・辛光洙らに拉致された。自宅は新潟市水道町。父・茂さん(故人)の仕事の関係で、東京都や広島市に転居、さらに拉致される前年に新潟市に転居した。新しい環境の周囲には大学の跡地の空地が広がり、それが海岸の防風林に続いている。夜間は人気が途絶え、海鳴りだけが聞こえてくるようなところだった。

自宅付近の様子についてめぐみさんは「随分寂しいところだね。お父さんは何年ここにいるのかなあ」と母親の早紀江さんに真顔で尋ねたことがあるという。

拉致されてから彼女が泣き叫んで抵抗したため、約四十時間にわたり、北朝鮮に向かう船の船倉に閉じ込められた。彼女は「お母さん! お母さん!」と泣き叫び北朝鮮に着いた後、出入り口や壁を激しく引搔いたため、爪が剥がれそうになり、血まみれになった。これは北朝鮮工作員が拉致実行犯の一人から聞いた話である。

初めて彼女について証言した亡命者によれば、彼女は拉致されてきた後、「朝鮮語を覚えたらお父さん、お母さんに会わせてあげる」と言われて一生懸命勉強したが、それが叶わないと知り、精神を病んで入院したという。病院に連れて行ったのは、めぐみさん拉致に関わった朝鮮労働党所属の工作員・チェ・スンチョルだった。

この朝鮮語に関する証言は蓮池さんが「めぐみさんは聡明で、われわれの話す朝鮮語じゃなく、言葉は完璧なバイリンガルだ」という証言に通じるものがある。朝鮮語を覚えたら、両親に会えると信じ、彼女は必死に言葉を勉強したのであろう。

めぐみさんはその後、帰国した拉致被害者・曽我ひとみさんや、同じく拉致被害者の田口八重子さんとも同居した。田口さんは一九八七年(昭和六十二年)大韓航空機爆破事件の実行犯・金賢姫(キム・ヒョンヒ)の日本語教育に関わっていた李恩恵(リ・ウネ)と同一人物と見られる。

北朝鮮当局によれば、めぐみさんは、こののち一九八六年(昭和六十一年)にピョンヤンへ転居、同年、韓国人拉致被害者の金英男(当初は朝鮮籍のキム・チョルジョンと説明)と結婚し、翌年に娘のキム・ヘギョン(キム・ウンギョンとも)を出産したという。


一方、蓮池薫さんと奥土裕木子さんのケースは、一九七八年(昭和五十三年)夏に相次いでアベック(カップル)が失踪した「アベック失踪事件」のひとつで、この夏合わせて三組六人が失踪した。

七月三十一日午後六時、二人は柏崎市立図書館で待ち合わせをしていた。図書館は海岸から二百五十メートルしか離れておらず、蓮池さんが高校時代に市内のカレー店で知り合った二人は、よく散歩をするところだった。

当日も海岸で散歩をしていた二人に数人組の男らが近づき、そのうちの一人が「すいません、たばこの火を貸してくれませんか」と声をかけ、次の瞬間、蓮池さんの眉間を激しく殴ったため、顔が腫れあがった。その後、蓮池さんは男の一人に「静かにしろ」と言われ、頭から袋をかぶせられてボートに乗せられた。 やがて工作船に移されて薬を打たれ、意識が朦朧とする中で目隠しの隙間から柏崎の明かりが遠のいてゆくのを感じた。工作船が着いたところは北朝鮮北東の港町・清津だった。図書館の前には蓮池さんの乗って来た自転車が放置されていた。実家の机の上には大学に提出する書きかけのレポート、学生証と運転免許証が残されていた。拉致実行犯は北朝鮮工作員チェ・スンチョルら三人と判明している。

清津の港にも、のちに移送されたピョンヤン郊外の招待所にも祐木子さんの姿はなかった。暫くの間、蓮池さんは現実を受け入れることができなかったという。彼は「祐木子さんはどうしたのか」「日本へ帰せ」と何度も抗議した。係員は初め冷笑する程度の反応だったが、次第に「いつまで言っているんだ!」と険しい態度へと変化し、彼は生命の危険を感じたという。絶望のなかにあった蓮池さんは、まずは状況を正確に理解するため、朝鮮語を覚えることを決心した。北朝鮮では、日本で抱いていた弁護士の夢は諦めざるを得なかった。


希望の光がいくらか差し込んだのは、祐木子さんの生存を知った時だ。北朝鮮に連れて来られて約二年後、互いに日本にいると思い込まされていた二人が引き合わされた。「溺れていた人間が助けられたような気持ち」と蓮池さんはその時の心境を振り返る。一九八〇年(昭和五十六年)五月、蓮池さんは祐木子さんと所帯を持ち、その後、二人は一年半後に長女、三年後に長男を儲けた。

拉致されてから三年間は、日本から助けが来ると信じていた。

しかし、動かぬ事態に、その後は「プラス思考に転じた」と蓮池さんは語る。彼が言う「プラス思考」とは、「日本に帰りたいなんて考えないこと」であった。出来もしないことを毎日考え、望んでいても、狂死するしかない。それなら、日本人としての人生を捨てるしかなかろう。その時支えになるのは、子どもへの愛情であり、子どもの成長の喜びと将来への期待だけだ。

北朝鮮での生活における新しい夢、それは子どもの成長だった。二人は話し合い、反日国家の北朝鮮で人びとから差別されずに生きていくには「日本人」であることは不利だと考え、子どもたちには自分たちを「帰還事業で北朝鮮に来た在日朝鮮人」と思い込ませることにした。そして、将来子どもが北朝鮮工作員に召喚されるリスクを減らそうとして、日本語は敢えて教えないと決めたのである。


一九九〇年代後半、蓮池さんが日本の新聞を翻訳させられていた時、一九九七年(平成九年)結成の家族会すなわち「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」に関する新聞記事が目にとまり、写真に写った年老いた両親の姿を見た彼は「特に父は年齢以上に老けていたように見えた。それも自分のせいかと、ぎゅっと締め付けられる思いがし、酸っぱい胃液が込み上げてきた。いつしか望郷の念で胸がいっぱいになった」と述懐する。それに対し、一九九七年以降の朝鮮労働党の機関紙「労働新聞」での拉致関連記事の論調は「拉致はねつ造」「日本反動勢力の策動」というものであり、いつしか蓮池さんらの所に「労働新聞」が届けられなくなることがあった。その理由を配達人に尋ねると「拉致関連記事掲載の日は配るなとの上からの指示があった」ということだった。この頃になると、日本でも拉致問題に対する関心が高まっており、一九九八年(平成十年)新潟県・柏崎市では蓮池さんの高校時代の同級生らによって「再会をめざす会」が発足し、中央大学でも「中大生を救う会」が結成された。

二〇〇二年(平成十四年)六月、山あいの招待所に住まわされていた蓮池夫妻は、ピョンヤン市内の高層アパートへの転居を命じられた。当時北朝鮮は拉致犯罪をごまかすために、「ボートで漂流し、日本海で救助された後、共和国の革命の首都・ピョンヤンで幸せに暮らしている」という虚偽の筋書きを立てて、蓮池夫妻の安否を公表し、両親を面会のため北朝鮮に呼び寄せるという計画を水面下で進めていた。ソビエト連邦崩壊やキム・イルスン主席死後の大飢饉で困窮し、経済的に追い込まれた北朝鮮は、日本との関係修復を狙って蓮池さんらの存在を認め、偽りのシナリオを蓮池さんに覚えさせたのである。彼は当時の心境を「正直、両親と再会できる喜びより、子どもの将来の不安の方が大きかった」と振り返っている。その年の九月十七日開かれた日朝首脳会談で、北朝鮮はそれまで否定し続けていた拉致の事実を認め、「蓮池薫さん生存」を公表した。その際、北朝鮮当局が提示した報告書によれば、彼の朝鮮名は「パク・スンチョル」、肩書は「現職、朝鮮社会科学院民俗研究所 資料室翻訳員」となっていた。偽名・スンチョルは何と、蓮池さんを拉致した北朝鮮工作員チェ・スンチョルと同名である。

二〇〇四年(平成十六年)五月二十二日、小泉首相が再訪朝して第二回日朝首脳会談が開かれ、蓮池夫婦の二人の子どもが日本に到着した。蓮池さんは「北は経済援助を焦っていたので、われわれが粘れば子どもを返すはずだ」と考え、一年半耐えて子どもを取り戻したと当時を振り返っている。蓮池夫妻は、実は北朝鮮での監禁生活のなかで子どもが出生した際、朝鮮名と同時に内密に日本名もつけていた。自然にその名を受け入れた子どもたちに彼は言う。「日本には未来の目標を追う自由がある」と。

蓮池薫さんは、二〇〇三年(平成十五年)四月から柏崎市役所の非常勤職(広報担当)として働き始め、二〇〇五年(平成十七年)から新潟産業大学で韓国語の教育に従事する傍ら、除籍されていた中央大学法学部に復学し、卒業した。彼はその後も学問の道をあゆみ、新潟大学大学院修士課程に進み、現在は新潟産業大学経済学部教授である。彼は各地で講演し、生々しい拉致体験や帰国後の出来事を語りながら「拉致によって人生の夢、家族の絆と命以外の全てを奪われた」と訴えている。


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