第3話

 第2章 歴史を取り戻す~在日コリアンの闘い~


 序説

 北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国を朝鮮人民は「共和国」と呼ぶのを知ったのは一九八四年(昭和五十九年)初めて北朝鮮の地を踏んだ時だった。

 その翌年、一九八五年(昭和六十年)は当時在日外国人が常時携帯を義務付けられていた外国人登録証(略称・外登証)の大量更新の年になった。その年を迎えるにあたり、前年の北朝鮮取材を経てわたしの問題意識は『民族とは一体何なのか。中でも少数民族の存在意義とは?』へと移って行った。

 就中、登録証の大量更新を契機にクローズアップされた指紋押捺問題を探るため、わたしは韓国・ソウルから母を訪ねてやって来て、大阪の在日韓国青年会に所属した韓国人青年に密着し、彼らの運動を通じて問題点を追うことになった。

 在日問題は、煎じ詰めれば法治国家を標榜する国家権力、あるいは多数を占める民族・種族による偏見と差別に対する少数民族の生存を賭けた戦いの歴史である。

 世界の各民族は異なる民族の文化的・歴史的背景と民族的個性を尊重し、お互いの立場を理解して共存すべきところを、ある時は多数を頼み、またある時は偏見から生じる差別的な行為に及び、さらには少数民族の歴史や文化を破壊し、生命さえ奪い去るという暴挙を繰り返して来た。

 また少数民族の存在自体を否定あるいは無視しようとする国家権力も存在した。卑近な実例を挙げれば、総理大臣として「日本列島を不沈空母に」と発言し、物議をかもした中曽根康弘氏がわたしには直ぐ浮ぶ。

 彼は一九八六年(昭和六十一年)、国会で「日本は単一民族国家だ」と発言し、先住民族のアイヌや在日コリアンから「われわれの存在を認めないのか」と、猛反発を受けた。

 外国人登録法・指紋押捺の廃止を求める運動に先んじて、一九八二年(昭和五十七年)在日韓国人の青年組織が、日本で最初に定住し、差別と偏見による辛酸をなめ尽くして来た在日一世の父親(アボジ)と母親(オモニ)を面談調査して、「在日韓国人一世」の歩みを永遠に記録しようという「歴史を取り戻す運動」が展開された。

 その成果は一九八八年(昭和六十三年)、ソウル・オリンピックが開催された年の二月に、『アボジ聞かせて あの日のことを』という報告書にまとめられ、発行されている。

「歴史を取り戻す運動」には朝鮮通信史の研究で知られた故辛基秀(シン・ギス)氏の在日朝鮮人たちの証言を集めた長編記録映画による貢献も特筆に値する。

 ところで、日本政府が国際人権規約に基づいて国際連合に対し、同規約第二十七条に該当する少数民族として挙げているのは先住民族のアイヌのみだが、国民国家を限定的に捉えず、ここでは在日コリアンも少数民族とした。

 彼らを少数民族と位置付ける理由としては、五世が誕生している現状で、生まれ育ちが日本という世代が大半を占め、言語こそ日本語になっているが、絶対多数の日本人とは異なる法事などの慣習や文化を、在日の団体や家庭が中心となり、世代を継いで伝えて来たか、あるいは伝えようと努めていること。さらに、他国民と言っても、本国には生活基盤がなく、外国籍のまま定住し、納税義務を果たしながら地域社会の構成員として暮らしている事実などを勘案した。

 国際法上の通説では、韓国民であり、日本国籍を持っていない場合は、少数民族とはみなさないとされる。

 二○一四年(平成二十六年)三月四日、わたしは大阪市北区にある在日本大韓民国民団大阪府地方本部を訪れ、朴鍾寛生活部部長にこの点を質した。在日三世の朴部長からは次のような答えが返って来た。

「われわれはマイノリティです。少数民族ですね。言葉、文化、風習は世代が新しくなるにつれて日本と同化し、確かに風化する傾向が顕著ですが、それでは最後に残る韓国人のアイデンティティは何かと問えば、国籍すなわち韓国籍です。これがなくなれば、存在自体が消えてしまいます。特に若い世代は進学、就職、結婚という人生の節目ごとに必ず「国籍問題」にぶち当たります。その結果、国籍を変える人が多いんです。一世の時代は、殆どが韓国籍でしたが、今や五世が誕生しています。その間、帰化や国際結婚で日本国籍の同胞が増えており、在日の中身が大きく変わって来ました。問題は色々ありますが、マイノリティ、すなわち少数民族という立場から、国民国家の多数派社会に対して声を出してゆく所存です」

 なお、在日コリアンを少数民族とする代表的な資料には『平凡社世界大百科事典』があり、アイヌ民族、在日華僑などもその例として挙げられている。

 また、二○一二年(平成二十四年)の在留外国人統計によれば、同年十二月現在の在日コリアンの人口は五十三万四十六人である。

 

 第1節 来日したオモニと息子、その「在日」体験


 外国人登録法第十四条

 十六歳以上の外国人は登録原票、登録証明書及び指紋原紙に指紋を押さなければならない。

 同第十八条

 第十四条の規定に違反して指紋の押捺(おうなつ)をしなかった者は一年以下の懲役もしくは禁固または二十万円以下の罰金に処する。

 同第十三条

 外国人は登録証明書を常に携帯していなければならない。


 一九八五年(昭和六十年)は、外国人登録証の大量更新の年にあたり、指紋押捺の是非をめぐって在日外国人、とりわけ当時日本列島に居住していた約七十万人の在日コリアンの団体では、指紋の押捺を拒否する青年が中心となり、日本社会や国際世論に対し「在日外国人の指紋押捺を強制し、外国人を犯罪者扱いにする」外国人登録法の廃止を求めて活発な運動が繰り広げられた。

 なお、この章では韓国籍なら在日韓国人、朝鮮籍なら在日朝鮮人とし、在日コリアンと言えば、在日韓国・朝鮮人両方を指しているものとする。

 焦点を当てたのは、民団系在日韓国青年会の大阪本部で闘争の中心にいた青年のひとり、金亮秀(キム・ヤンス)氏である。(以下敬称略)

 十九歳の時、オモニ(母)の後を追い、来日した。

 ヤンスはその日、一九七九年(昭和五十四年)七月九日を鮮明に覚えている。海を隔てた異国の地に降り立ち、空港を出て初めて乗ったタクシーの窓から彼の目をとらえたのは、初代東京オリンピックや大阪万国博などを契機に経済発展を遂げたニッポンを象徴してそびえ立つビル群ではなかった。それは、ビルが並ぶ通りを歩く男女の学生が手をつないで歩いている姿だった。

「スゲェ!」思わず声が出た。男女の学生が恋人のように寄り添って、手を結んで黄昏の街を歩くという光景は、当時の韓国では考えられないことだったからである。それがヤンスの日本最初の強烈な印象だった。

 韓国では義務である兵役訓練を受けていないことで、結果的にオモニの李貞順(イ・チョンスン)よりも半年遅れで来日したヤンスは、果たしてこの国でどんなことが待ちかまえているのだろうと、頭を巡らしてみたが、容易には浮かばなかった。当然であろう。

 ただ、韓国の学生時代に受けた教育では、例えば豊臣秀吉の時代から明治時代の日韓併合以降の歴史を少し振り返れば、日本は紛れもない「侵略国」であり、朝鮮半島を蹂躙し、異民族に日本の神を押し付け、軍人らが女性を凌辱した「敵国」である。そんな国に何故自分が来なければならないのか。よりにもよって……。

 ヤンスはオモニが来日することになった経緯を知らない。オモニは夫、すなわちヤンスのアボジ(父)と、随分と昔に離別し、ヤンスには頑なにアボジのことについては口を閉ざしていた。

「アボジのことは何も聞くな!」そう言ったきり、時が流れた。

 オモニの頑なさに少々抵抗を感じながらも、きっと息子にも話せないような辛い過去があったのだろうと、敢えてそれ以上聞こうとはしなかった。

 だから、ヤンスには父なる人物のイメージが結べない。

 アボジは、社会的に地位が高い人物であったらしいが、既に他界し、ヤンスが命日を知ったのは、五十歳を過ぎた最近のことである。ヤンスによれば、オモニはアボジの母親との間に確執があったと言う。

          

 同じ関東ながら、埼玉の秩父に住むオモニと離れて暮らしていた日本で、ヤンスは朝鮮半島の「南北問題」に絡んだトラブルに巻き込まれた。来日して、まだ間もない頃のことである。

 女子学生のスポーツ大会が行われた会場で、在日朝鮮人の学生と口論になった。乱闘騒ぎが通報されてヤンスは警察署に連行され、そこで外国人登録証を携帯していなかったことが発覚する。

 ヤンスが警察に捕まった! その時のことを、オモニは「異国に来て、初めての試練」と事件を述懐した。

「それこそヤンスが何か犯罪を起こしたでしょ。これはどうにかなるんじゃないかと、本当に心配でね。何とも言えなかったんですよ。警察問題まで起きるんじゃないかと。ことばが通じるから一言二言言ったのが揉めて、巻きこまれたというか、そういう状態だったんです。でもふたりが一緒にいたから、警察から見ると共犯にされてしまって。あれを経験した時に、本当に情けなかったんですよ。同じ民族でありながら、何故こんなにいがみ合わなくちゃならないのか。十七、八の子どもたちがいがみ合いながら、ああいう小さなものですけれども凶器を出して。出すほどの激憤、怒りを感じなくちゃならなかったか。それを思うと本当に情けないんですよ。彼らが見たら、わたしたちが悪いし、わたしたちが見たら、あっちが悪いしね。わたしみたいな人が政治的な、思想的な話をするわけにもいかないけど、ただ小さいような問題でも、何故こんなにひとつの国が分かれて、ちゃんと同じことばを使っているのに、それこそ敵みたいな立場なんでしょ? だけど、ヤンスにはいい勉強になったと思います。あれ以来トラブルというものは一度もなかったし」

 オモニは首を傾げて、下を向いた。

「その時まで、息子にはずっと連絡出来なかったんです。だいぶ前に指紋押捺反対の問題に関わるからと、ぽつんと言って来たきりでね。あれほど、そういう問題に参加するなって言ったのにね。でも、息子はわたしに反対されるからというよりも、心配かけたくなかったから、詳しいことは言ってくれなかったんだと思います。わたしたちは犯罪者じゃないから、堂々と生きていくためにも押捺したらダメだと言ってね。この押捺反対の意味を知らない人もいっぱいいるでしょうよ。そんなに自分のことばかり我を張ったら、和が持てないし。大体自分が住みにくいし、苦しいでしょう。何でも反対的な行動をとってね。還暦近いわたしの歳くらいの人は皆こうじゃないですか。静かに暮らしたい。何の違反もしないで」

 オモニは静かに続けた。

「大体わたしたちは誓約書を書いて入国するんです。入国審査の書類に全部それが入りますの。絶対に日本国の法律を遵守しますという誓約をちゃんと書きますから。それはただ書いて、はんこ押すだけの簡単な問題じゃないですもの。だからそういうこと書いた以上は、やはり反対したくないし。法律は無限的に広く、深い問題ですから。静かに住んでいきたい。住んでいく以上はたとえ国にでも、隣の日本人にも迷惑をかけたくない。そういう気持ちなんです。だからそれを、わたしはヤンスに何回も言い聞かせたんです。絶対日本人や北の人間とトラブル起こしたらダメだと言ったはずですけど、やっぱりこんな大きな問題に参加しちゃってね」

 日本での今後の生き方を考えようと、ヤンスは新宿にある韓国系の学校で学び始めた。日本語さえまだ満足に話せなかった。日本語を覚えないと、同胞の人間とも意思の疎通も出来ない。在日同胞と言っても、その大部分は日本で生まれ育った世代である。へたをすれば、孤立してしまう。学校以外でも日本語の勉強をしなくては。麻布にある在日韓国青年会にも足繁く通うようになった。日本語の勉強のため、文章のレジメを書く特訓を受け、並行して同胞とも日本語で会話した。

 学校を卒業する頃には、ヤンスの日本語は相当な実力に達していた。青年会の仲間ともようやく溶け合い、来日して四年目の一九八三年(昭和五十八年)には北海道から沖縄まで約七十日間の在日韓国青年会自転車隊に参加するまでになった。

 自転車隊は在日の立場から指紋押捺を強制する外国人登録法を勉強し、その廃止を求める運動を進めるための、いわば準備活動的な意味もあった。

 来日した当初は在日同胞が日本に七十万人も居住していることも、指紋押捺という問題を抱えていることも知らなかったヤンスは、自転車隊参加により、二年後に迫った外国人登録証大量更新に対処するためのノウハウを身につけた。



 第2節 指紋押捺拒否行脚1985


 一九八五年(昭和六十年)、外国人登録証の大量更新の年が明けた。在日韓国青年会は自転車隊の経験をもとに二年間企画を練り、今度は行脚隊を組織し、外国人登録法の指紋押捺反対を訴えることになった。

 行脚隊は東海道の大都市を徒歩で結び、各地で在日同胞に指紋押捺の不当性を訴える集会をリレーで開いていこうというのである。名付けて「指紋押捺拒否東海道人権行脚」。神戸から東京まで距離約五百八十キロを三週間かけて歩き抜こうという、無謀ともとれる運動計画であった。

 わたしは取材の挨拶も兼ねて、大阪市北区中崎町にあった民団大阪府地方本部を訪ね、ヤンスと初めて顔を合わせた。くせ毛かパーマが当たったような長髪。鋭いが、秘められた柔和さを持つ一重の目。意志の強さを表しているような筋の通った鼻。きっと結んだ薄い唇にほほ笑み。少し痩せた体躯に感じる機敏さ。それがヤンスから受けた最初の印象である。

「これから色々と取材させてもらいます」

 わたしはそう言って、彼と握手し、名刺を交換した。長期間の取材が幕を切った。

 ヤンスは二月八日、神戸からの行脚隊出発の前日に、指紋押捺問題について職員と議論をしようと大阪市生野区役所を訪れた。生野区は現在でも総区民数のうち在日コリアンをトップに外国人登録者数が約五分の一と、大阪市で最多である。

 わたしも先日初めて出会ったヤンスを取材するため、区役所に出かけていた。

「大阪市として言えることは国の機関委任事務として、法を守るというのがわれわれの立場ですので、指紋を押していただきたいということしか言えません」

 市の担当課長が言い終わると、それまで無言で耳を傾けていたヤンスが、堰を切ったように声を荒げた。

「生野に住んでいる一市民としてね、何で指紋を押さなあかんかと尋ねているんです! 法に定めてあるからと、それしか言えないんですか! そしたら、しょうがないですね。ボクは押捺を拒否します」

「そしたら、それは法に違反になります。そして罰則があります。それはご存じですね?」

「はい、知っています」

「では、後ほど通知させていただきます」

 運動体の幹部として初めから拒否することを前提に区役所に足を運んだヤンスだったが、それにしても今後に不安はないのだろうか。何しろ、最も不安定な在留資格での拒否である。逮捕される恐れはないのか。国外追放などは起こらないのか。彼にマイクを向けてみた。

「ボクは犯罪者じゃない。ボクは人間であり続けたいと。自分の将来のこと。将来の子どものことを考えたらたまらないと。ボクの子どもも、もし大きくなって指紋を押さなければならない歳になって、もし法が変わっていなければ、その子も同じような気持ちで拒否するだろうとボクは信じています。もし裁判になっても、ボクは最後の最後まで裁判闘争やるつもりでいます。この問題なくすまで闘います!」

 ヤンスの決意の弁に耳を傾けているうちに、わたしはある外国人登録法反対の集会で、在日朝鮮人の女子高校生が次のように訴えたのを思い出していた。

「わたしは一度外国人登録証を失ったことがありました。幸い友達が拾ってくれ、わたしの手に戻って来たのですが、登録証のない間、何らかの形で警官によって登録証の提示を求められたらどうしようかと思ったことがありました。登録証が手に戻るまで、非常に憂うつでしたし、全く勉強が手につきませんでした。いつの間にか、道を歩いていても、警官に遭遇しないように祈りながら歩いていることに気付きました。その時わたしはまるで罪を犯した犯人が、警官の手から必死に逃げているような錯覚に陥ったことを覚えています」

 当時の外国人登録法では、十六歳以上、すなわち高校生になった段階で、外国人登録証に指紋を押捺することが義務付けられていた。

 日本で生まれ育った在日の少年少女にとって、十六歳になった途端に突然、外国人登録証を常時携帯し、その登録証に指紋を押捺させられるというのは、想像するだけでも、強い違和感を覚えるのは充分理解出来よう。

 その日はヤンスにとって、本格的に闘いが始まった日だった。

       

 行脚隊出発の二月九日、壮行式で青年代表が訴えた。

「この寒い季節に三週間、五百八十キロを歩きます。何故そんなことをするのか。歩いてわれわれ自身の人間としての苦痛、人間として抑圧される悲しみを、直接われわれ自身が痛みを持って伝えないと、誰もわからんということです! 何故われわれがそこまでして訴えたいかということを、何よりも在日同胞自身に、日本社会に、そして国際世論に訴えるために、この行動を組んでいる訳です。聞くところによると、関が原は今吹雪いているそうです。箱根の峠は零下何十度にもなっているそうです。多分耳たぶも真っ白になってしまうでしょう。しかし、それを越えて何としてでもこの外登法反対の声を伝えなければならない! 外登法廃止を勝ち取ることを祈念し、マンセイ(万歳)! マンセイ! マンセイ!」

 神戸から大阪へ。行脚隊は青年男女十五名で歩みを開始した。大阪府高槻市の駅前でヤンスは日本人の主婦に話しかけた。

「指紋を採るのは犯罪捜査のためにあるんです」

「そら、そうや」

「指紋は拇印(ぼいん)とは全く違います。指紋押捺は外国人を犯罪者扱いにしています。人権無視で、五年に一回、死ぬまで押すんです」

「あら、その時だけとちゃいますの?」

「ちがうんです。それで外国人の指紋押捺制度をなくそうという運動をしています。ここに詳しいことが書いてありますので、一度読んでみてください。そして色んな問題があるということを知ってもらえば、それでいいですから。お願いします」

 ヤンスは主婦にパンフレットを手渡した。


 息子らを案ずるオモニの心配は的中していた。行脚隊が歩を進めるのと並行して、指紋押捺を拒否した青年たちの元に、心無い人間から脅迫めいた手紙が届き始めていたのである。

「ここは日本だ。そんなに押捺が嫌ならば、国に帰ってしまえ!」ある娘さんの元に届いた手紙には剃刀(かみそり)の刃が添えられていたという。


 行脚隊は出発して三日目に京都に入った。当時の国鉄高槻駅から京都・四条大宮まで約二十三キロをヤンスと歩いてみた。ほぼ国道一七一号に沿って街宣活動が行われた。指紋押捺反対の幟(のぼり)を掲げ、街宣車のスピーカーで歩行者や通りかかる車に向けて呼びかけるという、選挙運動のスタイルである。北摂の連山が道路とほぼ並行してそびえているが、同じ二十三キロほどの山道を歩いても、足に響くことはまずない。自然の道は人間の足には優しいのだ。

 ところが、国道の舗装道路は非人間的なこと甚だしい。京都に着く頃には、両脚はガタガタになり、足の裏には大きな水ぶくれが出来上がっている。街宣活動だから、まさか山道を通るわけには参らない。二十キロ少しで、わたしの足はこの様(ざま)だった。彼らは、その二十五倍以上を歩き通すというのである。

 夜に京都で開かれた集会に足を運んだ人も少なく、ヤンスは思わずため息を漏らした。行脚隊を迎えた京都の青年は壇上に立ち、押捺拒否をしたことで起こったことを率直にぶちまけた。

「指紋の押捺を拒否して家に帰りました。何が待っていたんですか。電話ですよ。しょうもないね。嫌がらせの電話が待ってたんですよ。朝鮮に帰れ! 何を言うんだ! こんな屈辱的なことを黙って許すことが出来ますか! 本当に電話の向こうにいる奴を殺してやりたいような気持ちでした。われわれは伊達酔狂で拒否したんじゃない。ある人が言いました。あんたらがやってることは麻疹(はしか)みたいなもんや。バカなことは言わんといてください。麻疹で自分の生活を、仕事を放ったらかしにして、こんなことが出来るはずないでしょ!」

 京都から滋賀へ。そして愛知へと、行脚隊は冬の寒さを堪(こら)えながら歩き続けた。ヤンスに行脚の前半を中間総括してもらった。

「朝から晩までずっと雪でした。寒くて、寒くて。早く目的地に着きたい。それだけでした。惨めの最たるものです。行脚の集会で一番盛り上がったのは名古屋ですね。自分も燃えたし。ここに座っている皆は協定永住や一般永住持っていると。俺よりもずっと安定した在留資格持っていると。しかし、俺は最も不安定な在留資格しかないのに指紋を拒否したと。もう汚したくない、自分の指は。皆も迷わないで拒否して欲しい。拒否するか、しないか、はっきり言えたんですよね」


 外国人登録法は、勿論在日コリアンだけを対象とした法律ではない。他の外国籍保有者も対象になる。

 指紋押捺を拒否したため、再入国許可を取り消され、裁判を起こしたイタリアの新聞特派員もそのひとりだった。

 イタリアの日刊紙「メッサジェロ」の極東特派員、ピオ・デミリア記者を、東京の取材先でインタビューし、指紋押捺を拒否した真意を尋ねてみた。

「去年の六月、来日した時、出国のたびに再入国許可を受ける必要のない数次再入国許可をもらいました。でも、去年九月に外国人登録の窓口で指紋の押捺を拒否したんです。そしたら、先月二十日、アキノ事件取材が終わって日本に戻った時に、日本法務省から成田空港で数次再入国許可を取り消す通知を渡されました。だから、指紋を押捺しなかったことを理由に数次再入国許可を取り消したのは違法な処分だと訴えたんです。大事な理由はふたつあって、国連人権条約違反と日本国憲法違反であると。もし最高裁で憲法違反じゃないという判決が出たら、ちゃんと従います」

 大阪市生野区にあるカトリック教会で、カナダ国籍のマッキントッシュ宣教師は次のように話した。

「区役所の職員がわたしの手を掴んで、ちゃんと押さえて、百八十度回転ちゃんとするように手を回すんです。ああ、あの気持ちはもう……。黒いインキがもう二日ぐらいついたままなのです。わたしはカナダ政府の保証するパスポートを持って、日本の法律にしたがって日本に入って、日本で住むように許可されて、ちゃんと登録しているのに、また指を押さされるのは不愉快でたまらない! 自分がガイジン、ガイジンと言われなければ自覚しないと思っているのか。娘が大きくなって十回レイプされることは良くないでしょ。一回でも犯されるのは親として許すこと出来ないでしょ。指紋押捺も根本的に同じです。毎日採られても、一回だけ採られても、結果は同じです。その人の人格と人間性を犯すことは全く同じです」

 アメリカ国籍を持つ弁護士のケント・ギルバート氏はどう思っているのか。テレビ出演のため放送局を訪れた彼をつかまえて話を聞いてみた。

「指紋を採られるのは何も抵抗ありません。ただね、指がちょっと汚れるけどね。なぜわたしが抵抗を感じないかというと、すでに自分の指紋がFBIのコンピュータに入っているからね。アメリカ政府の仕事してたから。うちの家内はすごく嫌がってますよ。(何だ、こんな犯罪人扱いは!)って言うんです。でも、ボク自身はそんなに感じてないです。ドライにね、こんな法律があるのは当たり前だと思う。憲法というのはこの国にいる人全部に関わるものなんですけど、外国人は日本国籍を持っていないことで、何かの差があるはずですね。でないと、国籍をとる必要は何もないです。区別されることは何もおかしくないですよ。日本国籍を持っている日本国民の権利と外人として持っている権利とは範囲が違うと思います。ボクたちが持っている権利の範囲はもう少し狭いです。どんなに狭くするかというのが問題なんですけれども、そんなに狭くされていないと思うの。これだけでは軽い程度ですから。これくらいの法律は認めざるを得ないと思って。自分の国じゃないですからね。ただね、他の人と全く同じ税金を払ってますよ。だから、余りにも別扱いされるのは困りますよ。指紋の押捺を拒否しようと思えば出来るんだけど、それで大きな問題になるでしょ。別にボクにとって拒否するメリットは何もありません」


 ヤンスが、オモニから手紙を受け取ったのは雨の川崎だった。その雨に打たれながら黙々と歩き続けて、もう東京は目の前だった。ぐっしょりと濡れた身体を宿の部屋に横たえて、ヤンスは翌日の東京での集会、国会請願デモに思いを募らせていた。二十日間足を痛めて精一杯訴えたことが、一応の終止符を打つ。

 でも、ヤンスの行脚はひょっとしたらその後も続くんではなかろうか。わたしにはそんな気がしていた。

 

 ヤンス。親子の間でも久しく手紙のやり取りをしなかったので、こんなにペンを走らせていると、何とも言えない思いが胸一杯にこみ上げ、鼻がジーンとして熱く、熱くなる気がします。でも、ヤンス。あなたは在日外国人登録指紋押捺問題には随分悩んでいましたね。これだけは、母は心配でたまりません。日本に住んでいる以上、この国の法律を守り、韓国人としての矜持(きょうじ)を持ち、誇らしくいつも頭に刻みつつ暮らしていくことが、母の信条です。これはヤンスには何度も何度も言ったはずです。日本の国法に従い、迷惑をかけず居住したかったのです。東海道人権行脚が終わる頃、一度大阪に行き、ヤンスと詳しく話し合いたいと思います。母はヤンスがわが国のため、日本のため、いつまでも頑張ってくれることを祈ります。


 手紙を読み終えたヤンスの目から涙の粒が落ちたような気がしたが、顔や身体がまだ濡れたままなので、はっきりはしなかった。おそらくヤンスの頭の中には、これまで二十日間の無謀とも言える行脚のひとコマひとコマが、走馬灯のように巡っているのであろう。

 各地で涙を流しながらヤンスを迎えたオモニたち。ヤンスの精一杯の訴えを鼻で笑った青年。さまざまな顔が頭を巡っているのであろう。ひょっとしたら行脚は夢だったのだろうか。これだけ苦労して歩いたのに、何がどう変わったのだろう。疲れ切った自分が残っただけではなかったのか。そんな想いを振り切るように、ヤンスはギターを手に取った。そして頭を激しく振って想いを打ち消して韓国の唄を歌うのだった。


 一晩降り続けた雨も、ようやく小降りになった日比谷公園音楽堂。全国から在日韓国人のオモニ、アボジが集まっていた。大韓民国国歌が流れる中、東海道人権行脚隊の到着がアナウンスされ、拍手が起こり、ヤンスたちは人波をかき分けながら壇上に整列した。

 行脚隊は最後の声を振り絞って在日同胞に呼びかけた。

「皆さん、立ち上がってください! 指紋を拒否してください! 拒否するしかないんだ、もう!」

「わたしは人間として生きたいがために指紋の押捺を拒否します! この薄汚い外国人登録証を破り捨てて……破り捨てた瞬間……ボクは人間として、民族の魂を蘇らせたのです!」

「同胞よ! 血を引く同胞よ! お願いだ! 拒否してください!」

 わたしは民族の若い世代が、厳しい民族差別や偏見に晒されて来た在日一世世代に対して、絞り出すような声で呼びかける姿を確認しながら、ヤンスの言葉を思い出していた。

「ボクの外国人登録法との出会いは八十三年の自転車隊。北海道から沖縄まで七十日間かけて十二人ほどの若者が自転車で全国を回った。外国人登録法を真剣に勉強して、自転車隊が終わった時点で、ああ、俺は拒否するぞというね、確信は自分なりにありました。不安定な在留資格を持っているだけで、色々自分自身悩んで、二月八日何とか拒否出来たけど、自転車隊で署名集めて、今度は人権行脚隊。それで全然変わらなかったら、次何しようかと皆で真剣に考え、話し合ったんです。そしたら、後はもうハンガーストライキしかないんじゃないかって。それもただのハンストじゃない。仲間ひとり死ぬまでやろうじゃないかと。そこまで言ったんです。この行脚隊で学んだことを、今度は大阪へ戻って、拒否者を募る運動やりたいしね」


 第3節 木槿(ムクゲ)の花咲く頃~オモニと息子の対話~


 ヤンスは再び大阪に戻った。しばらくは大きな虚脱感に襲われていたが、追い打ちをかけるように手元に届いたもの。それは区役所からの催告状だった。ヤンスは疲れた足を引きずりながら区役所を訪れた。

「指紋押捺についての催告状ですか。この文章そのものも納得出来ないし、何か怖いですよ。法律違反としての手続きをとらざるを得なくなりますっていうのは、どういうことですか。速やかに当課にお越しになり、指紋押捺されるよう催告しますとはどういうことですか。告発するということですか」

 これに対して担当課長は次のように答えた。

「実務の担当者として指紋を押捺することについて、外国人の持っておられる不快感とか屈辱感とか、そういうことはわかりますし。また人権上の問題もありまして、国に対してわれわれも要望して来ましたし」

「何で指紋拒否して、何で時間を使いながらそこまでやらなければならないのかを考えて欲しいんですよ」

「われわれも粘り強くお話をさせていただきたいと、こういうことなんですね」


 ヤンスのオモニ・李貞順(イ・チョンスン)が手紙で約束した通り、大阪にやって来た。ヤンスと会うのは実に五年ぶりとなる。空港はゴールデンウィークの賑わいを見せていた。

 オモニの目に、息子は一段とたくましく、まぶしく見えたという。その息子と一緒に在日コリアンの台所と言われる鶴橋の市場を歩きながら、オモニは今までの出来事を息子の口から直接聞いて確かめたい、自分なりに考えて来たことを二人だけで話し合いたいという思いを胸に秘めていた。

 オモニはヤンスの下宿先で息子と対面し、静かに話し始めた。お互いの空白を埋めようと。

「こうして顔を見ると安心するしね。電話では心配で、心配で。本当かな、嘘かな。眠れない夜も幾日か続いたし……」

「押捺義務という日本の法律を破ってまで、行動したのでね。オモニは、不安に思うのは当たり前だしね」

「もう本当に警察から電話が行くと聞いた時は、二、三日電話のベルのノイローゼになった。目の前に居ないから、余計に神経がイラ立つ」

「自分の将来は自分で決める。自分で解決する問題。だけど、この人権問題に関しては、ボクは一生ね、やって行きたいなあと。日本に来て五年間の体験で感じていることだし。オモニはどう思う?」

「自分のことをはっきりとプランを立てているということかなあ。ヤンスの行きたい道は後ろで押してあげるというか。ただ、人の道に余り背かないでねぇ、日本に住んでいる以上は日本の法律、たとえアメリカに行っても、あちらの法律を守り、とにかく相手の国に迷惑をかけないという精神で暮らしていけば、それでいいと思うよ」

「だけど、法律そのものは誰のためにあるのかを考えなければいけないし」とヤンスは反駁した。

「でも、そんな押捺問題なんか、日本に来て初めて知ったことだし。だから日本の法律が如何に厳しくて、その審査があって、わたしたちが入国してから、まだ更にそんな大きな問題があるなんて、ちっとも思わなかったじゃない? でもヤンスが先頭に立って、それを何とか解決しようとして頑張っているのは頼もしいけどね。とにかく頑張りなさいという言葉しかないよ」

 ヤンスの顔がほころんだ。

「ヤンス一個人は頼りないし、不安だということでしょ?」

 オモニもほほ笑んだ。

「オモニ、ボクももう二十四ですよ。やらなくちゃならないという気持ちを持って今もやっている段階だし」

「それでいいじゃないの。人間は自分の信念で生きていくんだから」

「今までもオモニは相談相手として、ずっとこれからも無理なこというかも知れんけど、自分も考えているし。いつもケンカしているけど、オモニと」

 笑い顔になったヤンス。

「ケンカというよりも意見が合わないこともありますよね」

 オモニは同意を得ようと、わたしに矛先を向けた。

「お母さんも普通のお母さんよりは理解力があるの」

 ヤンスの顔をはっきり見ながらほほ笑むオモニ。

「それは信じてますから」

 ヤンスは嬉しそう。

「何年くらい日本に居るかわからないけど、居る間、自分は勉強するつもりでいるし、見守って欲しいなあと。今よりもっと」

「何とも言えませんね。いくら自分の息子でも、母のいうことを中々聞いてくれないし。今はもうやめて欲しいと思わないよ。何とか頑張ってちょうだいと言いたくなる」

「もう少しでひとつのケジメをつけるから、そこまで見守って欲しい」

「身体に気をつけて頑張るんだよ。あんまり無理はしないでね」

 ヤンスが席を外した隙に、オモニに本音を聞いてみた。

「息子と会って、警察沙汰にもなりかねない怖れは、少しは薄らぎましたが、これだけでこの大阪を安心して去れるかどうか、まだ確信が持てません。指紋を拒否してますから、まだあの子に降りかかることがあるでしょう。あの子もきっともう気づいていると思いますよ」

 オモニの心配は再び的中する。間もなくヤンスの元に届けられた通知書。果たして、その中身は?


 数次再入国許可取り消し通知書

 金亮秀殿

 一九六一年六月二十九日生まれ。国籍 韓国。

 出入国管理及び難民認定法第二十六条第六項の規定に基づき、貴殿に対する数次再入国の許可を以下の理由により取り消したので通知する。

 理由

 貴殿は外国人登録法第十四条第一項の規定に違反している者である

 法務大臣命により大阪入国管理局長


 ヤンスの煩悶が続く。

「入管そのものに対してはね、この通知をもらった人間として怒っている。びっくりしている。五月八日に韓国へ行く予定があって、たかだかこんな紙一枚で渡航の自由を奪われてしまった。怖いなあと。自分のやりたいことも何にも出来ないと。たまらないですよ。何もやってないんだよ! 腹立つなあ、しかし。俺、そんな悪いことしたんかなあ? 日本にしか生活圏がない人間はどうしたらいいのか。そのまま死ねということか。外国人はどうでもいいということですか」 ヤンスは大きな嘆息を漏らした。

 行脚隊の京都集会でヤンスが参加者を前に、めったに見せない涙を流しながら訴えたシーンがわたしの胸に蘇った。

「拒否することで色んな不安を持ってました。色んな専門家の先生にも相談しました。不安定な在留資格で指紋を拒否しても大丈夫だとは誰も言ってくれなかったです。でも、在日外国人のために、指紋押捺拒否したことは絶対に間違っていないと!」

 今回の取り消し通知書で悩む息子を、オモニはやさしく見守っていた。

「ヤンス、あなたが生まれ育った祖国とこの地はそんなに遠くはありません。しかし、この国で固い信条を持って生きてゆくことは中々難しい。でも、ヤンス。やはり明日への希望を持って生きてゆくことが、わたしたちの道だと信じています。あなたが生まれ育ったあの祖国の野に咲く木槿(むくげ)の花のように……」

 韓国の国花である木槿(ムクゲ)。夏から秋にかけて白、赤、紫色の美しい花をつける。日本でも庭木として、ポピュラーな花である。オモニの国では「ムグンファ」と発音されるが、オモニはこの花にまつわるエピソードを紹介してくれた。

「半年くらい、わたしといがみ合った近所の日本人の奥さんがいましたの。何かしら道端で会っても、わざと顔をそむけて、知らんふりして。きっと軽蔑した目で見てたんですよね。だから、何とかして近づくというよりも、ああいう方たちにわたしの存在をわからせてあげたいという気持ちが強くなりましたの。でも、月日が流れて、その奥さんはわたしを遠くから見て、自分が聞いたそんな人じゃなかったと言ってね。ごめんなさいねって、ある時うちに訪ねて来たんです。そして、ああこんないい人だったのって、ふたりで長いこと話し合いました。向こうから、木槿は韓国の国花だってねって、自分の家の庭にあるからって、いただきました。このぐらい小さかったんですよ。それがよく成長しましてね。植えて三年目かな、だんだん大きくなって、花がいっぱい咲いて、毎年咲くんです。いいプレゼントもらいました。若い者たちが指紋押捺反対のために、あれほど皆努力しているんですから、この木槿の花みたいにね、早く問題が解決して欲しいと思いますことでしょうね。それがわたしの本当の気持ちです。問題が解決されて、花が咲くのを見たら、やっぱり気持ちがいいんじゃないかと思いますね。こういう指紋押捺とか、他の差別問題がなければ、どんなにいいでしょうかね。けっこう日本が世界の中でも、住みよい国だと思ってますけど、こういう差別問題がなければ、もっとわたしたちは親近感を持つようになるんじゃないでしょうかね」


 第4節 テロ対策の「指紋情報」問題


 外国人登録法の対象当事者である在日コリアンにより一九八五年(昭和六十年)に展開された指紋押捺拒否運動。

 当時、拒否者はその多くが起訴され、刑事被告人として法廷に立つことになった。

 しかし、各地で闘われた「指紋裁判」では、指紋を押捺したかどうかが争われることはなく、外国人登録法の指紋押捺制度そのものが問われることになったのである。

 つまり、法廷は押捺を拒否した被告人が、逆に日本政府を「告発」し、その過ちを正そうとする場となった。そのことは、後に外国人登録法そのものが廃止されることになることを暗示していた。人権尊重の立場から、相次いで外国人登録法の改正を求める全国各地の自治体の後押しもあり、韓国との日韓法的地位協定に基づく協議の結果に関する覚書で、遂に二年以内の指紋押捺廃止が決定する。

 指紋押捺制度は一九九三年(平成五年)一月に廃止され、外国人登録法も二○一二年(平成二十四年)七月九日をもって廃止された。それ以降は「指紋情報」のないICチップ式の在留カードが発行されている。

 ところが、二○○一年(平成十三年)に発生したアメリカの同時多発テロを契機に、アメリカ合衆国に続いて、日本でも二○○七年(平成十九年)十一月二十日以降、十六歳未満や特別永住者らを除く、来日する外国人から、両手人差し指の指紋採取と顔写真の撮影を義務付ける新しい入国審査が行われている。

 現在の在留カード方式に対しても、今後テロ対策に万全を期すという名目のもとで、どのような水面下の議論が展開されようとしているのだろうか。ヒントとなりそうなポイントを幾つか挙げてみよう。

 ① 外国人が日本人になりすますなどの事例が数多くあり、本人特定に最も有効とされる「指紋情報」を在留カードに入力する必要がある。在日外国人に対して、再び指紋押捺を再び義務化したらどうかという議論。

 ② 不法滞在者などの最も近くにいると考えられる現場の警察官が、在留カードを読み取るICチップリーダーを持っていないのは問題である。日本に三カ月以上滞在すれば、国民健康保険の対象になることを悪用し、他人になりすまして受診するケースが急増しており、早急にICチップリーダーを各医療機関および現場の警察官に配布する必要があるという議論。

 ③ 例えば台湾は満十四歳以上の「中華民国国籍」を持つ者に対して、「中華民国国民身分証」を発給している。十四歳以上は指紋押捺が発給の必須事項である。テロリストなどのなりすましを防止するために、日本国民に「国民身分証明書」を携帯させる必要があろうという議論。

 今後これらのポイントについて果たしてどんな議論が行われるのか否か、注意深く見守ってゆく必要があろう。


 第5節 テロ対策の「指紋情報」問題


 指紋押捺拒否行脚の年から二十八年の星霜が過ぎ去った二○一三年(平成二十五年)九月十四日。わたしはかねてから希望していたキム・ヤンスとの再会を果たした。場所は東京・新宿歌舞伎町にある韓国家庭料理の店で、ヤンスは韓国人のスタッフと韓国語で会話している。

「本当に懐かしい」と、わたし。

「そうですね」と、ヤンス。

 ヤンスとわたしはお互いの顔を見つめながら、ほほ笑んだ。ヤンスが注文してくれた焼き肉などをつまみながら、二十八年前の話に花を咲かせた。

「ヤンスは十九歳の韓国出身だったから、同じ運動体の中でも、日本生まれの在日同胞とは随分スタンスが違ったよね」

 わたしが話を振った。ヤンスも今や五十二歳。若い頃の長髪も何処へやら、少し白髪の混じる髪を揃え、顔も少し丸くなったような印象だ。

「基本的に考え方そのものが日本生まれの連中と違いました。彼らは外国人に厳しい日本社会で生き抜いて来た。ボクもギャップを感じていたから、何とか彼らと同じようになろうともがきましたね。まあ、無理でしたけど」

 と言いながら、人懐っこい笑顔を見せた。

「あの行脚のことは今どう思っている?」

「子どもにだけは指紋を押す苦しみを与えない社会作りを目指していたから、外国人登録法が廃止されてよかった」

 彼は一九九三年(平成五年)、在日韓国人女性と結婚し、二女一男を儲けた。長女は現在ソウルの大学に留学し、次女も留学が決まっている。長男は高校一年生で、ふたりの姉と同じく、指紋押捺も関係なく高校生になった。

 ヤンス自身は大阪を離れ、東京の民団中央本部の職員として、青年会副会長まで務めたが、二○○四年(平成十六年)頃、長年在籍した民団を離れたという。その理由を尋ねた。

「色々理由は考えられるけど、組織の運動が活発でなくなったこと。問題提起するものが少なくなったんですね。韓国の伝統文化を在日として育てる活動もしたりして、地域に密着しようと努力はしたが、日本社会の方が変わらなかった。最近は在日として生きるのに疲れを感じるようになりました。何しろ未だに在日は背負うものが多すぎます」

 ヤンスの顔には疲労感がまとわりついているようだった。

 話題を転じて、オモニのことを聞いた。確か風の便りで、アメリカに引っ越されたということは知っていた。

「そうです。アメリカに住んでいるボクの姉一家とバーモント州で暮らしています。もう八十五歳になりました。八十歳の誕生日を祝うために、五年前一家でアメリカにオモニを訪ねたことがありました。今でも週一回くらい連絡を取り合っています」

「相変わらず仲がいいね。結構なことだ」

 わたしは二十八年前のオモニへのインタビュー、その時の内容や口調などを思い出していた。

 この場の話で印象に残ったことがある。それはお子さんのことだ。ヤンス夫婦は三人の子どもを本名で通学させていた。

 奥さんは結婚前、通名の「金光(かねみつ)」だったが、ヤンスと結ばれてからは本名の金(キム)に変更し、子どももキムで通わせたのである。ところが、長女が小学校三年生の時、こっそり「日本の名前の方がいい」と親に告げたのである。長女の名前が「チナ」だったので学校で「キムチ(ナ)」とからかわれたのを厭がったらしい。ヤンスはその時何と答えていいのか、戸惑ってしまったという。

 ヤンスは子どもの悩みを率直に担任の先生にぶつけてみた。

 対応次第によっては「民族差別のからかいだ」と善処を迫ろうとしていた。

 ところが、担任の先生は出来た人で、これを積極的に受け止めて、総合学習のテーマを「韓国の勉強」に当てた上、ヤンス一家にも韓国の楽器の演奏など生徒指導で協力してもらい、日本人生徒にその成果を発表してもらおうということになったという。奥さんが民族衣装のチマチョゴリを身につけたり、ヤンスが「日韓文化比較」の講座を開いたり、家族皆で小学校の総合学習に関わったという。

 しかし、このように努力が実を結ぶケースは少なく、別の機会に韓国語講座を開いても、在日同胞の参加は少なく、韓流ドラマや韓国観光ブームに乗ってか、参加者はそのほとんどが日本人という結果になったとか。いやはや。

 ヤンスは現在金融関係の仕事に就いて、一家を支えている。

「日本と韓国が本当のパートナーのような関係になること、それを追求することがボクのこれからのテーマです」

 ヤンスははっきりとそう言い切る。その顔には希望があふれていた。

 具体的には、子どもの頃から大好きなサッカーチームを自ら持ち、日本のJリーグなどで一チームあたりの在日コリアンの選手などを「準外国籍選手」として、人数を一人に制限している「在日枠」をなくすことにも精力を注ぎたいと話していた。

 二〇二四年(令和六年)。新宿でキム・ヤンスと再会して十一年の星霜が流れていた。その間、彼とは時々年賀状を交換する程度の付き合いだった。

 ある春の日、わたしはフェイスブックにあるキム・ヤンスのプロフィールのクレジットが何気なく目に留まった。

 ソウル、コリア在住。彼はいつの間にか祖国に戻っていたのだ。友達リクエストを貰っていたので、彼に問いかけた。

「ソウルに里帰りしたの? ご家族と? いつのことですか?」

 だが、返信はなかった。以後連絡を試みても、やはり無理だった。こちらのメッセージは届いているはずなので、何か事情があって返事を返してこないということだろう。新宿で再会した時、取材は受けてくれたのだが、彼はこうも言ったのを思い出す。

「在日として生きてゆくのに疲れました。余りに背負うものが多い」。

 在日として夢を語ったこともあったが、お子さんがソウルで勉強していることもあるだろうし、彼も今年六十三歳になる。そういうことなどが起因して家族と一緒に祖国に帰ったのかも知れない。これは飽くまでわたしの憶測に過ぎないが……。


 第6節 在日一世の歴史を取り戻す運動

 

 キム・ヤンスが長年所属していた在日本大韓民国青年会が指紋押捺拒否人権行脚に先んじて取り組んだのは、高齢化している在日一世世代の貴重な証言を、全国にいる会の青年を動員して面接し、記録するという「我々の歴史を取り戻す運動」を展開することであった。

 その成果は一九八八年(昭和六十三年)、ソウル・オリンピックが開催された年の二月に、『アボジ聞かせて あの日のことを』というタイトルで報告書にまとめられ、発行されたことは既に書いた。

 当時の青年会会長、権清志氏は報告書の発刊の辞に、次のように寄せている。

「調査活動で青年たちは訪問先の同胞に心暖かく迎えられ、マンツーマンで長時間にわたり聞き取り調査を行った。一世の口から語られる内容は決して書物や講演などでは知ることのできない、生きている歴史の証言であった。植民地支配の爪跡、戦争の恐怖、差別の不条理、異国で生きてゆくことの労苦。時代の厳しさや苦しさが増す程に、したたかでバイタリティにあふれた楽天的で天真爛漫な一世の実像が浮かび上がって来る」

 運動が提起された背景について報告書は、日本の社会教科書における一連の史実歪曲記述問題で、日本政府が日本帝国主義時代の体質を依然持ち続けていることを糾弾するだけではなく、言われなき偏見に苛まれながらも、血のにじむような労苦を重ねてこの地に暮して来た在日一世のアボジ、オモニたちの歴史を振り返り、われわれ自身が学び、取り戻すことこそわれわれの責務であり、その礎の上に在日の未来を築こうと記している。

 調査内容の概要として、主な質問と回答を、①から⑨まで順に示し、その要約と若干の説明の補足を試みた。

 尚、対象者の抽出は国民登録台帳をもとに、各地方に居住する在日朝鮮人の人数にほぼ比例するように四二○五票の調査票を割り当てて、調査票の回収目標数を一五○○にし、実際の回収数は一一○六となったという。

 ① 基本的属性(性と年齢、婚姻、家族構成、在留資格、出生地など)

 回収された調査票に答えた男女の比率は、大体七対四で、男性が多い。年齢構成で、六十歳台が半数以上を占める。女性は七十歳以上の高齢者が多い。

 ② 渡日の状況(いつ、何歳の時に日本に来たのか。その理由、来日前後の職業など)

 半数以上が日中戦争から太平洋戦争にかけての一九三六年(昭和十一年)から一九四五年(昭和二十年)に来日した。年齢は十代後半が最も多く、四割を超える。

 何故日本に来たのかの問いには、経済的な理由がトップで三九・六%と四割近くを占め、生活苦による来日が最も多い。次いで結婚・親族との同居のためというのが男女合わせると全体の十七・三%で、女性だけでは、三十七・七%に上る。第三位の理由は徴兵・徴用で十三・三%であり、うち徴兵のため来日したと答えたのはわずかに六人であるが、殆どが「強制的な徴兵」と回答している。また徴用によるものは百四十一人で、殆どが男性。「どちらかと言えば強制的に徴用を受けた」との回答を含めれば、六割近くが強制的だったと答えている。

 続いて留学が九・五%という結果であった。さらにこれらの範疇以外の理由が二十・二%もあり、来日事情の多様さがうかがえる。

 これらの結果から注目されることは、暮し、結婚と同居、留学で全体の六十六%以上が本人の意思で日本に移住していることである。

 ③ 日帝の朝鮮統治策について

 創氏改名を行った人は七十四・五%で、四人に三人は改名している。日帝により、韓国語が禁止され、日本語が強制された時、どのようにしたかの問いに「積極的に日本語を使った」と「相手によって日本語を使った」を合わせると、半数を超える。「日帝は神社参拝を強要しましたが、あなたはどうしましたか」の問いには、参拝したのは二十二・二%で、参拝しなかったのは六十九・九%であった。

 ④ 渡日当時の生活

 生活は七割以上の人が「苦しかった」と回答。日本で生活することについては「止むを得ないことだった」と諦めの気持ちだった人が五三・八%で過半数を占める。「何とも思わなかった」が次いで、女性に多い。男性には「止むを得ないこと」の他に「屈辱感を抱いた」が多い。

 ⑤ 解放後の生活

 一九四五年(昭和二十年)八月十五日、すなわち日本の終戦記念日が、韓国の解放の日である。解放後の帰国の意志を尋ねたところ、「意志あり」が六十七・五%で男性に多かった。一方帰国の意志がなかった人の理由は「経済的事情」が四三・○%で最多。解放後の生活水準の変化を尋ねたところ、「大変良くなった」は十五・七%。「少し良くなった」は三十三・七%で、「良くなった」の回答は合わせて半数近く。特に男性に多かった。

 ⑥ 民族運動への参加状況

 解放後、民族運動に参加した人は七十五・二%で、男性に多い。

 ⑦ 民族教育

「あなたはお子さんやお孫さんに民族教育を施しましたか」の問いに、「はい」と答えた人は六十八・九%。民族教育をしたという七百六十二人に「家庭内で具体的にどのような民族教育をされましたか」の質問に対し、「礼儀作法」「食べ物」「祭礼」がいずれも六割以上を占めた。次いで多いのが「言葉」「歴史」「着る物」「住まい」が続いている。「祭礼」は女性に多く、「歴史」は男性に多い。

 ⑧ 帰化と帰国の意志

 帰化を考えたことがある人は九・七%で、一割に満たない。性別による差はほとんどない。また帰国については、意志のある人が半数を超えている。学歴の高い人ほど帰国の意志は強い。

 ⑨ 青年会について

 在日韓国青年会を知っている人は七十四・四%を占める。知っている人は男性に多く、「聞いたことがある」を含めると九割近くになる。

 報告書は、全国に在住する在日一世の人々が「異邦人」としてこの地に降り立ってから受けた差別や苦悩の実例を、各人数行程度で数多く記録している。

 その数例を原文のまま挙げる。

 ① (五十九歳の男性)十六歳の時に日本に渡ってきた。弟が汽車に乗るとき見送りにきたことが記憶に残っている。本国の生活は苦しく、日本でお金を儲けるつもりできた。

 ② (六十五歳の男性)我々韓国人は昔、白い服を着る風習があり白い民族と呼ばれていた。だが日本人が来て私が白い服を着ていると、彼らは我々の民族性を消すという理由で白い服に墨を塗り付け、白い服を禁止した。

 ③ (六十二歳の男性)天皇の弟が汽車で通るのに、頭を下げなかったため怒られたことがある。

 ④ (六十三歳の女性)高等女学校当時、神社参拝問題を起こした。神社参拝を拒否し憲兵に囲まれた。また金品は全部、日本人が奪った。

 ⑤ (七十二歳の女性)貧乏人やから、けんかばっかり、暮していけなかったからこっちへ来た。一人の仕事をもらっても、ぬかやかぼちゃや大根の葉を入れた物しか食べられなかった。弟にやる分もなく、自分の分もない、こんなみじめな暮ししかできなかったから日本へ来た。

 ⑥ (六十四歳の女性) 当時の生活は非情なほど苦しかった。六畳一間で一家五人が生活していた。そんなわけで日本に来たが、日本に渡る船に乗る前に「君が代」を歌わされたが、私は学校へ行ったので知っていたが、知らない者はネクタイを噛んで四つん這いで乗れと言われていた。屈辱的だった。

 これに関連してもうひとり、わたしが一九八六年(昭和六十一年)に取材した大阪市大正区在住の在日一世、金東姫(キム・ドンヒ)さん(当時六十九歳)の場合を紹介する。

 ドンヒさんは二十歳を過ぎた一九四○年(昭和十五年)頃、結婚するために初めて日本の地を踏んだ。夫となったサイ・イルチュリさんは再婚で、三人の子どもを抱えていた。夫婦の間に二人目の子どもが宿って間もない頃だった。

 家族の疎開許可証をもらいに行った警察署で、イルチュリさんは拷問を受けた挙句、そのまま家にも戻れずに日本兵として出征させられてしまったのである。そして戦死したことがひょんなところからわかることになる。

 ドンヒさんが涙ながらに当時を振り返る。

「お父ちゃんが帰って来ない。一体どうしたんやろう。どうしたんやろう。本当に帰って来ないと悟った時には、もう何とも言われへん。でも、横井伍長さんもあんなにしてグアムから帰って来はったし、うちのお父ちゃんもきっと帰って来るやろと。未だにこの胸にはうちのお父ちゃんが居ります」

 嗚咽しながら話すドンヒさん。今では長男一家と金属やダンボールを扱う商売をしているが、夫の戦死はどうして知ったのだろうか。

 イルチュリさんは一九四四年(昭和十九年)、北太平洋上で船が魚雷攻撃を受けて沈没し、戦死したが、その知らせはドンヒさんには届かず、夫の名前を小さな墓標に見つけたのは、大阪市天王寺区にある無縁墓地だった。

 空襲も激しさが増し、途方に暮れたドンヒさんは死のうとしたが、背中で激しく泣く赤ん坊のことを思うと死ねなかったという。

「お腹に居った子が生まれてから、家も焼けてしもうたし。そんな子を連れて、お金もないしね。あっち歩き、こっち歩きして、周りの日本人は、ものすごく馬鹿にする人もいたし。かわいそうや言うて、おむつくれる人も居った。ゴザ敷いてくれて、寝え言うてくれる人も居るし。空襲があんまり怖いんで、他人の防空壕入ったら、朝鮮人は出て行け! 言うて、蹴飛ばす人も居るし。そんなしてずっと暮らしてな。毎日昼も夜も男みたいに働いてな」

 韓国人元日本兵とその家族に対する補償は、一九六五年(昭和四十年)の日韓基本条約で、日韓両政府の協定により「一括補償」という形で決着したため、個人への補償は一切行われなかった。

 ドンヒさんは、日本兵として出征し、戦死した夫について次のように訴えている。

「戦争行って死んだんやから、日本軍がうちのお父ちゃんの命取ったんやから、そら補償してくれるべきやと思います。わたしは死なんとここまで子どもと頑張って来て、子どもも学校で朝鮮人や言うていじめられて、十分食べさせることも出来なかったし。死んだお父ちゃん、かわいそうに骨もよう拾わんと、魚の餌になって! あんな墓標だけ書いてあっただけやから、その墓標だけわたしが韓国の田舎に持って帰って埋めてあります。長男が田舎に居るから。韓国に用事が出来たら、行ってお参りしてるけど、ほんまに猫を埋めたようなことしてあるから、やっぱし何らかの形で墓石を建ててやりたいです。お父ちゃんかわいそうやから、お墓建てたいですわ。日本の政府、お墓代でも出して欲しいですわ」

 在日一世の貴重な証言を、五世が誕生している今どう捉え、在日の将来に生かしてゆくのか、後継世代の真価が問われよう。

          

 大阪市天王寺区にあった在日コリアンの文化活動の拠点、青丘(せいきゅう)文化ホールの代表で、朝鮮通信使研究家として有名であった辛基秀(シン・ギス)氏も在日一世の歴史を取り戻す運動に、映像作品という形で貢献した方である。

 辛氏は自ら全国を歩き、一九一○年(明治四十三年)の日韓併合から、一九四五年(昭和二十年)の解放の日(日本の敗戦)までの闘争に参加した在日朝鮮人と、彼らを支援した日本人の証言を記録した。その映像証言をまとめ、六年がかりで制作したのが長編記録映画『解放の日まで』である。三時間二十分の映画は各地で上映運動が行われた。

 辛氏は記録映画制作について次のようにわたしに語った。

「声もなく、何の記録もなく、日本の土になってしまった人々の鎮魂のためにも、是非とも制作したかった。まず、何故一世が日本に来たのかですね。一般の外国人と違い、定住外国人として位置づけられるわたしたちが、日本でどのような生き方をすべきか、ということを考えると、過去の歴史を知ることが大切なんです」

 Q「日本人が記録映画を観る意義は如何でしょう?」

「明治の終わりから大正、昭和にかけて、日本が戦争のたびに発展する基礎には、在日朝鮮人の労働と知恵が最大限利用されて来ました。それが、今は必要ないから帰れ、なんてね。そんな存在じゃないですよ。在日朝鮮人の歴史を知ることは、もうひとつの日本の隠れた歴史を照らし出すものじゃないかと考えます」

 Q「今後の展望については、どうですか?」

「世界史の中でも稀な日本と朝鮮の友好的文化交流があった江戸時代の大らかさ。文化ホールでは、カラフルな絵巻物や屏風のような伝統的な絵画の形式の中に光り輝く絢爛豪華な絵図の展示も心がけています。そうすると、豊臣秀吉による朝鮮侵攻の七年間よりも前の室町時代の資料がもっとあるだろうと。近代日本が朝鮮を蹂躙した三十六年間よりも、それを十倍する四百年から五百年という日本と朝鮮の友好の歴史を若い人に知ってもらえるならば、もう少し人間の大らかさが出てくるのではないかと思います。地域社会の中で日本と朝鮮の民衆同士が織りなして来た色んな絵模様が、もっと多彩に発掘されてゆくならば、明治以降、上から作られた偏見と民族差別なんて吹っ飛んでしまうんではないかと思いますよ」

 辛氏から屈託のないほほ笑みが漏れた。

 辛氏は一九八六年当時、記録映画制作について次のように語っている。

「取材が終わったら、その二ヶ月後に亡くなったという証言者が数人おられた。今一世の貴重な声・証言を記録しておかないと、その機会は永遠に失われてしまう」と。

 当時の在日世代はその九割が二世と三世の時代となっており、高齢化が進む一世世代はすでに一割、全国で七万人しかいなかった。

 証言を記録し、後世の糧にするためには、時間という壁が近づいていたのである。

 報告書『アボジ聞かせて あの日のことを』に記載されている在日本大韓民国青年会の問題提起には「不条理な日本政府を糾弾するだけではなく、言われなき偏見に苛まれながらも、血のにじむような労苦を重ねてこの地に暮して来た在日一世のアボジ、オモニたちの歴史を自ら振り返り、われわれ自身が学び、その歴史を取り戻すことこそわれわれの責務である」と、日本で生まれ育った若い世代の未来に向けての覚悟といったものが示されている。

 報告書の作成にも深く関わった、当時の在日本大韓民国青年会大阪府地方本部のコ・テミン組織部長は次のように話したことがあった。「日本は単一民族国家だ」という中曽根発言があった頃だ。

「日本は単一民族国家という幻想は捨てていただきたい。韓国人だ、朝鮮人だと地域で皆知っているわけですから。われわれは大阪府や大阪市を構成する人間なんですし、仲間であるという意識を是非持っていただきたい。それが国際化と呼ばれていることでしょうし。近くに住んでいる外国人を仲間はずれにしておいて国際化というのはおかしい。ボクらは何も在日韓国人の権益を日本人より良くしようとは全く思っていない。日本人はわれわれに対し、懺悔の気持ちを持てとか、そんなことではさらさら無くて、お互いが助け合って生きていける社会を作っていく。日本にとっても、それはいいことであるはずだし、ボクらにとっても素晴らしいことであるし」

 今は亡きコ・テミン氏の呼びかけは、真に彼ら在日が共に暮らしている日本および日本人に向けられている。彼らの抱える問題は「日本ひいては日本人の問題」でもあるということを、もう一度われわれ自身に問い直す必要があるのではなかろうか。

 日本の巷では、現在もヘイト・スピーチ行為に見られるような根強い差別意識が存在している。二○一三年(平成二十五年)九月二十九日付けのジャパン・タイムズは「ヘイト・スピーチに反対するデモ」というタイトルの社説を掲げた。社説は、その一週間前の日曜日に東京・新宿で行われた二千人規模のヘイト・スピーチに反対する行進について、日本人の大部分が「多様性と差異を重んじる開かれた社会」を望んでいるという事実を象徴していると論評した。そして、日本という国が持つ価値には「寛容性」「平和主義」および「全ての偏見を消し去ろうという願望」が含まれていることを改めて確認しておきたいと結んでいた。その通りであろう。


 ところで、キム・ヤンス、コ・テミン両氏らが全廃を目指した指紋押捺制度は、一旦外国人登録法と共に廃止されたものの、テロ対策として復活している。

 同時多発テロに見舞われたアメリカに続き、日本でも二○○七年以降、十六歳未満や特別永住者らを除く、来日する外国人から、両手の人差し指の指紋採取と顔写真の撮影を義務付ける新しい入国審査が行われている。

 二ヶ国に続いて、韓国でも二○一一年七月から長期滞在者の外国人を対象に指紋を採取しており、中国も同じ方向である。マレーシアも入国に際し、外国人から指紋を採取するシステムを稼働させている。

 日本の「指紋押捺復活」について、ある在日韓国人の青年は「長い年月をかけて指紋押捺制度を全廃した歴史を忘れ、再び外国籍の人間を差別するのは許されない」と訴えるが、こうなれば、テロ対策について性善説をとるのか、性悪説をとるのかというようなことになってしまうのであろうか。

 テロ行為が続く限り、性善説はとりにくいのが実情であるとするならば、性悪説をとり、取り締まるということになる。

 しかし、このような姿勢は「テロ対策なら仕方がない」という声に寄りかかった事実上の「外国人管理」であり、問題のすり替えになってしまってはいないだろうか。

 特段問われるべきは、外国人登録法時代の指紋押捺制度と同じように、自国民は対象外にして、外国籍に対してだけ指紋押捺を義務付けるという世界でも稀な特異性である。

 これでは日本という国が外国人登録法を廃止し、指紋情報のない在留カードを採用したにも拘わらず、「外国人は管理し、取り締まるべき対象である」という外国人に対する偏見と差別を依然持ち続けていると思われても仕方ない。 

 テロ対策の中での国際化とは一体何なのかが、今後厳しく問われることになろう。

                                      

【二〇一六年(平成二十八年)は日本の軍備の意味が変質した年】


 第1章の「よど号」乗っ取り犯の会見を要約すると、おおよそ以下のようになるだろう。

 小西・若林両氏によれば、前年はリビアで開かれた青年フェスティバルに出かけ、アフリカの青年の生き生きした姿に触れ、感動したこと。それに象徴されるように、世界的な自主の潮流は滔々と流れており、「革命」は続行されていると強調したこと。帰国については、「対米従属と軍国化を進める日本政府」に頭を下げて帰ることは一切あり得ない。しかし、日本は祖国であり、帰国して活動することが本旨と語った。一方で、小西氏らは「使命」を遂行するためとはいえ、ハイジャックという非常手段をとったことについては、乗客の皆さんに非常な迷惑をかけたなどと、謝罪の言葉を口にした。しかし、自らに課した「革命」を目指して決起し、「反動勢力」を粉砕しようとした行動については一切引かない姿勢を鮮明にした。会見中に彼らは「自民党、敢えて言えば反動政府ですよね」という表現を使うなど、一歩も譲らぬ革命思想と行動を説く裏で、日本の話になると心の揺れも見せたのが印象的であった。


 あの会見からわずか一年しか経たない一九八五年(昭和六十年)。小西氏が口にした「軍国日本復活」を象徴する事柄が立て続けに出て来た。「対米従属と軍国化を進める日本政府」を証明するかのように、

 終戦の日、当時の中曽根首相が靖国神社を公式訪問した。戦争指導者のA級戦犯を合祀した特定の宗教法人を参拝することは、多くの専門家が指摘するように憲法違反であることは明らかである。

 しかも戦争指導者を参拝することは、政府による戦犯の復権を意味し、その復権は本音として「日本軍国主義はそんなに悪いものではなかった」ということを政府自らが認めているようなものだ。

 一方で、政府は「軍事予算GNP一%枠」にこだわらないと言い出した。日本がアメリカの軍事力を一部肩代わりし、「国際的責任」を果たそうという名目である。これで「自衛のための軍備」から「国際的責任のための軍備」という変質が起こり、軍備の意味が豹変した。その後、安倍政権下の安保法がらみで「集団的自衛権」が「合法化」されたのと同軸の動きが始まったのがこの年である。

 言論表現の自由が甚だしく脅かされる恐れがはっきり現れたのも、この年であった。機密保護法(スパイ防止法)案である。「国家機密」の内容は軍事・外交を対象とし、政府の発表以外のいかなる軍事・外交の報道も事実上禁じることが出来るというものである。運用次第で、いつでも憲法が保障する言論の自由は壊滅すると思われたが、それと同軸の法は「特定秘密保護法」と名前を変えて成立してしまっている。今直ぐでなくても、これからいつでも都合の良い局面で牙をむけるようになったのがミソである。

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