第2話


【北朝鮮に渡った日本人妻は……】


 一九八四年(昭和五十九年)、わたしの北朝鮮取材の項目として、日本人妻の問題があった。取材団はピョンヤンでひとりの日本人妻に会った。長野県出身の近藤美代子さんだ。東京で看護師をしていた頃知り合った在日朝鮮人の李一善さんと結婚し、一九六二年(昭和三十七年)夫の祖国・北朝鮮に渡った。この問題の背景には在日朝鮮人とその家族が祖国・北朝鮮へ永住帰国あるいは移住する帰還事業があり、主として一九六〇年(昭和三十五年)あたりをピークに八年間で凡そ九万三千人が永住帰国した。

 それ以来二十二年の星霜が流れた当時、4DKのアパートで、美代子さんは三男一女の母親として、一善さんと一緒にひっそりと暮らしていた。国交がないため、帰国は出来ないが、北朝鮮に来てから辛いことはなかったと言う。

「日本が祖国の統一に協力してくれるのが一番の願いです」と話した美代子さん。日本語を話している最中にいつの間にか朝鮮語になってしまうような話しぶりだ。

 二○一四年(平成二十六年)現在、日本人妻は北朝鮮に千八百人余り居ると推定されているが、美代子さんのように「革命の首都」に住み、マスメディアに取材をさせるような日本人妻はおそらく稀であり、大半は地方に住み、脱北者の証言によれば、余りの貧しさから自殺したり、中国側に逃げようとして国境の川で溺れたりと、悲惨な状況が次第に明らかになって来ている。

 『朝鮮に渡った「日本人妻」60年の記憶』(岩波新書)の著者でフォトジャーナリストの林典子さんによれば、一九九七年(平成九年)から二〇〇〇年(平成十二年)の間に日本人妻四十三名が、日朝赤十字事業で帰国したという。

 

【南北軍事対立最前線・パンマンジョム(板門店)】

 いつまで経っても取材リクエストの必須事項になっている南北軍事対立最前線・パンムンジョム(板門店)に行こうと北当局が言い出さないのに取材団はイラついていた。もうそろそろ取材期間も終わり、帰途につく日が近づいている。そう思っていたある夜、取材団で酒盛りをしているところに、ドアを叩く音が響いた。

「さあ、皆さん、待望のパンムンジョムに行きましょうか」

 寝込みを襲われた格好で、しかし、われわれは黙々と取材の準備を始めた。

 ピョンヤン駅に着いた頃、駅の正面にある大時計は午前零時を少し回っていた。深夜にも拘わらず、駅には乗客以外にも警官や兵士、それに集団で列を組んでいる小学生ほどの団体がいる。何かがあって帰宅が遅くなったのか、あるいはわれわれと同じように、これから目的地に出発するのか。

 車両はかなり長かったが、殆どが空車で、途中の駅で小学生の団体が降車した後は、われわれ取材団だけではないかと思うほど車内は閑散としていた。

 北朝鮮は全てを映し出すカメラを意識して、マスコミは真っ暗な時間帯に移動させる。これがその実践だろう。それでも、二人のカメラマンは何かを撮ってやろうと「ぬばたまの夜」に席を立って、カメラを回している。

 ガタゴト進む「特別列車」に揺られながら、酒を飲み、寝込んで目を覚ますと、いつの間にか辺りは明るくなっていた。間もなく列車はケソン(開城)に到着した。

 ガランとした駅舎を出て、休憩をとる近くのホテルに立ち寄る。個人部屋で寝転んでテレビのスウィッチをひねったら、いきなりキム・イルスン主席の後頭部の大きな瘤が画面一杯に晒されている。韓国KBS放送の朝のワイドショーだ。放送を観ていると、何かの話題をスタジオから伝えて、コマーシャルが入り、そのあとジングルのようにキム主席の瘤が映る。敵対する北の首領は悪性の瘤に悩まされているというのを見せつけている感じだ。

 北朝鮮では主席の瘤は良性で、全く問題はないとしている。但し、主席の瘤は絶対に映すなという厳命があるのも皆知っているのだ。日本で出回っている朝鮮画報の写真にも主席を後方から映したものは一枚もない。

 われわれは簡単な朝食を摂って、最前線に向かった。

 朝鮮半島の南北軍事対立最前線・パンムンジョム(板門店)では、一九七〇年(昭和四十五年)二度にわたり南北スポーツ会談が開かれ、注目を集めていた。

 その会議場から車で四十分ほどの所にある北朝鮮側の高地から双眼鏡で韓国側を眺めてみた。双方二キロずつの非武装地帯をはさみ、山が広がっている。はるかに望む大韓民国旗と国連旗がたなびく韓国の監視塔からは、北側言うところの「自由と平和を装うデマ宣伝放送とアメリカ帝国主義の歌」が流れて来る。

 山の間には青い水を湛えたリムジンガン(臨津江)が見え隠れしていた。

 さる昔、フォーククルセダーズが発表し、東芝レコードから発売直前に北朝鮮からクレームが付き、要注意歌謡曲となったいわくつきの《イムジン河》のモデルになった川である。

 その時の北朝鮮側の言い分は、諸説あるかも知れないが、わたしが覚えているのは、原曲を作詞した北朝鮮の国民的詩人・パク・セヨン(朴世永)の名をジャケットなどに明示しなかったり、北朝鮮の正式名称・朝鮮民主主義人民共和国の曲だと明示するように正式に朝鮮総連がレコード化を進めていた東芝音楽工業に求めたりというクレームだった。東芝側がそれを拒否し、結局レコード化は中止されたが、何年も経ってから、徐々にこの歌が放送されるようになり「正式な解禁」はBS放送で日本でも活躍する韓国の歌手・キムヨンジャの歌唱によってと記憶する。

 わたしはリムジンガンから分断された民族同士が睨み合う軍事境界線に目を移し、風に吹かれ、身を置いているうちに、無風の幻想空間に入り込んだような不思議な気分に襲われた。一瞬全ての音が止まったような……。

 その「真空空間」を破ったのは、鳥の甲高い囀りだった。朝鮮カササギだ。何羽かが軍事境界線上を北へ南へと自由に飛び回っている。

 わたしは幻想的な空間から現実に戻り、改めて同じ民族が分断されていることの悲劇と矛盾を強く感じていた。

 南北軍事境界線取材の際、わたしは意識的に北朝鮮出発前に、祖母に買ってもらった米軍海兵隊仕立ての防寒ジャケットを身に纏っていた。

 そのジャケットは祖母がいつも誂えの背広を作ってくれるテーラーで販売されていたものを祖母にねだり、買ってもらったものである。

 金日成主席の誕生日は四月十五日。現地でも柳が青めき、桃の花が咲く季節だが、イメージ的にも彼の地は寒いだろうし、軍隊仕様なのでポケットが非常に多く、取材にはもってこいと思い、旅先に持って行ったのだ。

 そんなことより、ジャケットについてわたしの念頭にあったのは、北朝鮮の人々が敵国と見做す米軍の防寒ジャケットに果たしてどんな反応を見せるのか、また北朝鮮軍兵士がどんなリアクションをするのかという、いたずらっぽい興味だった。

 板門店の会議場は南北首脳会談が行われるなど今や有名なスポットになったが、当時も南北スポーツ会談などが断続的に開かれ、韓国と北朝鮮の政治的な対話の場となっていた。軍事境界線上にそうしようと思えば簡単に飛び越えられる南北境界の低い「壁」が続いているだけで、背後には非武装地帯が広がっている。

 会議場室内には双方のマイクがあり、マイクコードが南北境界を示している。北朝鮮軍兵士が取材団を護衛するという名目で一緒に境界に近づくと、向こうから韓国軍と国連軍に属する米兵が軍事境界線に接近する者をチェックしに近づいて来る。果たして米兵らはわたしの着た米軍ジャケットに何らかの反応を示すのかどうか見守った。

(お前は米軍の服を着て、北朝鮮側にいる。一体そちらで何をしているんだ?) などと声を掛けて来るのを微かに期待したりしたが、全くの空振りに終わった。今から思えば、軍事境界線を挟んだ無用な会話は厳禁だったのであろう。

 われわれが境界線から引っ込むと、向こう側も去ってゆく。今度は北朝鮮軍兵士の反応はどうかと探ってみたが、こちらの方も何の反応もない。

 米軍と言っても、マリーン(海兵隊)のジャケットだから陸軍兵に通じないのでは、などと詮索してみたのだが、幼い頃からいたずら好きなわたしが考えついた軍事境界線での「企み」が何も引き起こさなかったのは単に幸運だったのだと今では思っている。

 ここは後に北朝鮮のエリート将校がジープに乗って軍事境界線を越え、韓国側に亡命を求めた事件で、激しい銃撃戦まで起きている普段でも極度に緊迫した地域なのだ。

 如何に些細なことであれ、わたし独りで考えついた米軍ジャケットの「いたずら」はその地域の特殊性を無視し、弄んだことになろう。


 ここで北朝鮮滞在中、非常に印象的だった出来ごとを幾つかご紹介しよう。


【万寿台(マンスデ)芸術劇場の出来事】

 当時のキム・イルスン主席の画像をカメラに収めたいという希望を取材団は世話役の対外文化協会にリクエストしていた。丁度キム主席と盟友関係にあるカンボジアのシアヌーク殿下が訪朝し、主席と一緒に革命劇を万寿台(マンスデ)芸術劇場で鑑賞するという機会があり、取材団一行が会場に到着すると、カメラ撮影は一切まかりならぬというお達しが出た。但し、朝鮮中央テレビが撮影する画像を後程差し上げると言われ、引き下がったのだが、それは結局実現されずに終わった。

 丸腰になった取材団だが、入場は許可されたので会場に入った。観客はエリートの朝鮮労働党員で、暫くすると、満場の拍手が起こり、参加者全員が起立した。その中をキム主席とシアヌーク殿下が登場。拍手は一層高く、大きく会場内に響き渡った。

 ところが、うちの取材団の中で、一人だけ起立しなかった団員がいて、その団員は周りにいた労働党員に両腕を掴まれて、起立させられてしまった。着席した二人は背後から見て左手に大柄なキム・イルスン主席、右手に小柄なシアヌーク殿下が座り、見た感じは親子のようだったのを覚えている。二人は熱心に革命劇に見入っていた。

【呆れたエリートのおねだり】

 わたしは取材団の中で唯一ラジオ報道部員だった。取材の先々で、テープレコーダーで音声を録音取材するため、特別な機材を北朝鮮に持参していた。

 ある日、団長部屋に呼ばれた。団長は、

「君が持って来ているレコーダーをキムさんに差し上げることは出来ないか」と言う。わたしは何を言うかと即反論した。

「あの機材はわたしの取材に絶対欠かせないものです。だから差し上げる訳には参りません」

 団長は「(やはり)そうか」という感じで、直ぐに引き下がった。おねだりをした人物は朝鮮労働党のキム指導員で、取材団に同行していたので、取材中のわたしのテープレコーダーに目を付け、団長を通じて入手しようとしたのだろう。

 日本ではまず考えられない事柄だ。エリートでさえこれだから、後は推して知るべし。北朝鮮が如何に貧しい国なのかを垣間見た瞬間だった。

【町取材での出来事】

 取材時は丁度春たけなわの頃。北朝鮮で有名な川沿いの柳も緑の葉を広げ、桃の花もたわわに咲いている。取材団がキム指導員と町中を取材して回っている時、ピョンヤンの街中の樹下で酒を飲み、春の宴を開いて踊っている民族服を着た高齢者の一団がいた。北朝鮮当局の許可範囲内でカメラを向けたら、高齢者の一人が、いきなり拳を振り上げて激しく怒り始めた。キム指導員が割って入り、事なきを得たが、その高齢者の怒る理由は「映すな」なのか、高齢者なりに日本に対し悪い印象を持っていたせいなのか、あるいはわたしが北朝鮮で着用していた米軍ジャケットが引き起こしたことなのか、判別がつかない出来事だった。

【ピョンヤンの地下鉄】

 当時のピョンヤン市内の地下鉄は各車両の天井接続部付近にキム・イルスン主席の肖像が掲げられ、乗客の人民を見下ろしていた。

 地下鉄駅の名称は、例えば勝利駅、統一駅、凱旋駅、革新駅、戦勝駅のように地名ではなく、革命・政治用語から採られた名称が付けられていた。

 降り立った黄金原駅では、天井からシャンデリア風の照明がぶら下がり、プラットホームでは秋の収穫を祝うかのように、駅の壁面には、黄金色に実り、収穫を待つ水田の絵が描かれていた。

 地下鉄は旅客営業線以外に、政府高官だけが利用できる秘密路線があるとされている。何にも増して驚いたのは、駅の改札から乗り場まで百五十メートルほど一気に地下に降りるエスカレータの存在で、世界で一番深いところを走る地下鉄である。大深度地下鉄のプラットホームは紛れもなく有事の際、核シェルターに変身すると想像される。

【喫茶店での会話は禁止?】

 取材中に宿泊した外国人専用のポトンガン(普通江)ホテルは、安全を強調する意味からなのか、部屋の鍵を掛けなくても大丈夫だと説明されていた。我が国に泥棒などいないとでも言いたいのだろう。その一階に喫茶カウンターがあり、従業員の若い女の子に取材がてら話しかけてみたことがある。勿論英語だが、女の子も英語で応対しようとした途端、上司のような男性が、こちらには分からない朝鮮語で女の子に叫んだ。直ぐに女の子は会話を止めて、わたしを置き去りにしてカウンターから走り去った。果たしてこれは一体何を意味するのか。みだりに外国人に北朝鮮の情報を与えるなとでも言いたいのかと勘ぐった。

【ピョンヤン産院にて】

 保育室に繋がる産院の個室に生まれたばかりの赤ん坊を抱くお母さんにインタビューした。壁に掛けられているキム・イルスン主席の肖像写真以外は、日本の産院風景と殆ど変わらない個室の中で、驚いたのは、わたしが「どんなお子様に育てたいですか?」と尋ねた時だった。

 お母さんは赤ん坊に目をやりながら、はっきりと、こう言った。

「偉大なる首領キム・イルスン主席を支える立派な行軍兵士に育て上げたいと思います」

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