見たまま朝鮮半島と台湾そして中国~わたしの取材ノートから~元毎日放送報道・安江俊明
安江俊明
第1話
第1章 日航「よど号」事件
その航空機乗っ取り事件は今から五十四年前、一九七〇年春に発生した。
一九七〇年(昭和四十五年)と言えば、日米安保条約改正の年に当たり、全国の大学キャンパスでは学生運動が高まりを見せていた。十一月には、作家の三島由紀夫が自ら率いる「楯の会」会員・森田必勝らと東京の自衛隊市谷駐屯地に乱入し、自衛隊に蹶起を促した後、腹を切って介錯を受け、自決した年でもある。
その年の三月、大阪・千里丘陵で大阪万国博が開幕し、間もない三月三十一日早朝、赤軍派メンバー九人が羽田空港発板付空港(現福岡空港)行きの日航三五一便「よど号」(乗員七人、乗客百二十二人)を富士山上空で乗っ取り、日本刀のようなものを機長に突き付けて「北朝鮮に飛べ!」と脅した。
機内でリーダーの田宮高麿は乗客に対して要約以下のように演説した。
「我々は赤軍派です。我々はこれから国籍を捨て、肉親を捨て、国境を越えて北朝鮮のキム・イルスンの許に赴き、そこで本格的な武闘訓練を受けます。再度海を渡って日本に再上陸し、日本における前段階的武装蜂起を指揮する決意であります。それが我々の理想とするところの世界党の結党へ一歩押し進めることが出来ると信じます」
「世界党」なる奇怪な用語が使われている。「対反動勢力武装闘争による世界同時革命」とでも言った方が、当時としては分かり易かったのかもしれない。
それはさておき、「よど号」は北朝鮮まで飛ぶには燃料が足りないと、機長らは赤軍派グループを説得し、機は一旦福岡の板付空港に降り立ち、ここで乗客の女性や子ども、高齢者などが解放された。
代わりに人質となった当時の山村運輸省政務次官らを乗せた「よど号」はピョンヤンに向け飛び立った。韓国当局は北朝鮮行きを阻止しようと犯人たちにピョンヤン到着と見せかけて、密かに「よど号」をソウルのキンポ(金浦)空港に着陸させた。これに関して当時の韓国軍管制官が長い沈黙を破り、「閣下の指示に従った」と述べるとともに、閣下とはキム・ケウォンKCIA部長だったと証言している。
しかし、赤軍派はアメリカ軍のマークのある輸送車を目撃し、その偽装を見破り、機を離陸させ、今度はピョンヤン近郊にある朝鮮戦争当時に使用されていたミリム(美林)飛行場跡地に降り立ち、亡命の一歩を踏み出した。
当時大阪大学教養部学生だったわたしは、連日多くの客が押し寄せる大阪万博に二度足を運ぶなど、各国のパビリオンが立ち並ぶ会場を見て回り、ドイツ館で酢漬けキャベツを添えた肉料理を食べたり、多少とも外国語が飛び交う各国館を訪ねたりして、世界ってこんな感じなのかなとのんびりと過ごしていたのを覚えている。でも、大学キャンパスに足を踏み入れると、別世界が待っていた。
『国大協(国立大学協会)自主規制路線反対』『学生寮の民主化を!』など立て看板が並び立ち、校舎は封鎖が続いていた。
大学に入学した一九六九年にはアポロ十一号が人類初の月面着陸を成功させ、庄司薫の小説『赤頭巾ちゃん気をつけて』が芥川賞を受賞した。それにも増して、受験生を仰天させたのが古今未曽有の東京大学入学試験の中止だった。東大を希望していた受験生が大挙して関西に流れ込んで来ると考えただけで、受験に対する不安が増幅したものだが、封鎖を続行し、入学試験実施を妨害しようとするヘルメット学生に対して、一受験生としての怒りが燃え上がった。
お前らはもう大学にいる。わたしは取り敢えず大学に合格しないとお前らと同じ立場に立てない不安定な身分だ。その受験を阻止しようなんて、お前らは何と身勝手な奴らだ!
それでも、キャンパスの占拠・封鎖のため学外入試となった大学には何とか合格出来た。
しかし、入学したものの、キャンパスは封鎖されている。封鎖を続けているヘルメット学生に共感する学生らが、当時の大学当局の方針に反対する教授らを招いて「自主講座」なるものを開催していた。わたしもいつまでも家にくすぶっている訳にも参らない。「講座」という言葉の響きに誘われて、久しぶりにキャンパスへ足を運んだ。学生会館の喫茶室で久しぶりに学友と会おうと、彼と待ち合わせていた。
構内ではヘルメット学生がスクラムを組んで、ジュラルミンの楯を振りかざす機動隊と対峙している。
「われわれはー、大学当局のー、自主規制路線をー、粉砕するぞ!」
「マル機は帰れ! マル機粉砕! 闘争勝利!」
因みに「マル機」というのは丸の中に機動隊の「機」の字が表示された当時の機動隊の制服を指し、機動隊のことをそう呼んだ。
活動家の学生がシュプレヒコールを繰り返しながらついに、当局の要請で導入された機動隊と衝突した。鉄パイプや投石で襲いかかった学生に対して、機動隊は放水車で応戦し、激しい攻撃を受けた時には催涙弾を撃った。やって来た学友とわたしは好奇心に駆られて学生会館の芝生に出た。活動家が数人連行され、機動隊が撤収した後も、キャンパスの一角ではしばらく催涙弾の鋭い刺激臭が漂っていた。
その時、隣に座っていた学生が手にコーラ瓶を持って立ち上がり、辺りにわざと聞こえるような声で言った。
「コーラはベトナムを侵略しているアメリカ帝国主義の手先である多国籍企業の製品だけど、ボクは今人間として自然に喉が乾いているから飲むんだ」
そう言い放って、その学生はゴクゴクと美味そうにコーラで喉を潤した。学友はわたしを学生から遠ざけたところで言う。
「安江君、どう思う? コーラ一本飲むのに、いちいちそんな言い訳が要ると思う?」
「自分の正当性を主張するためなんだろ。そう言わないとコーラを飲めない奴も世の中にいるんだな。さあ何処かでもういっぺん休憩しよう。何だか疲れちゃった」
その日学友とキャンパス近くの飲食店で遅くまで紛争について話した。か、と言って、わたしは「自主講座」でも、授業再開を唱え続けていたので、スト賛成派の学生からは、いつも「ナンセンス」という言葉を浴びせられていた。
教養部から文学部に進学し、わたしは中学以来好きになった英語を語学的に研究する英語学を専攻することに決めた。大学を卒業し、大阪の民放局に入社が決まった。
それから十一年後の一九八四年(昭和五十九年)四月、ラジオ報道部記者になっていたわたしは、思いがけなく北朝鮮出張を命じられた。
同じ北東アジアの近隣の国であるにも拘わらず、その閉鎖的な体制で内情が殆ど知られずにいる社会主義の国。
しかもキム・イルスン(金日成)独裁体制を、まるで「貴族王朝」のように息子のキム・ジョンイル(金正日)に世継ぎしようとしている不可思議な国。
北朝鮮については、そんなイメージしかなかった。
しかし、実際に行くとなれば、徹底的に取材してやろうという思いが募り始め、それまで余り読む機会がなかった在日韓国紙「統一日報」に目を通したり、タイトルが気に入った『北朝鮮王朝成立秘史』などの書物に読み耽ったりした。
また北朝鮮の日本の出先である朝鮮総連には訪朝の挨拶に、それに敵対する韓国総領事館にも、取材で北朝鮮に渡航する旨の報告に赴いた。
国交のない北朝鮮に入国するには所有する数次旅券を一旦返納して、一回旅券を受け取る。当時の数次旅券の渡航先の欄にはThis passport is valid for all countries and areas except North Korea ( Democratic People’s Republic of Korea )(このパスポートは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)以外のすべての国と地域で有効)と明記されていたため、北朝鮮入国は出来なかったからである。
北朝鮮の首都ピョンヤンには、一九七○年(昭和四十五年)三月三十一日に発生した日航「よど号」乗っ取り犯である共産主義者同盟赤軍派のメンバーが暮らしていた。
取材企画をまとめるため、当時の全国紙に目を通したが、当時赤軍派のメンバーの特定には至らず、ピョンヤンにいる赤軍派について警察庁にも照会したが、担当者は一切ノーコメントで通した。
確たる情報も掴めないまま、わたしは取材団の一員として四月五日の夕刻、雨の新潟港から北朝鮮の客船・サムジヨン(三池淵)号で北朝鮮東海岸のウォンサン(元山)に向けて出港した。ところが、低気圧の接近を受けて客船は佐渡の港湾内にまる二日間錨を降ろしてしまったのである。
暇にまかせて船内を歩いてみたら、大部屋に大きな荷物が布でくるんであった。朝鮮総連などから本国に送られる貢物に違いないと思った。船内の部屋ではセピア色の革命映画が上映されており、キム・イルスンが現地指導する姿が映っていた。
ウォンサン着は九日の早朝になった。ウォンサンは二〇一六年(平成二十八年)五月三十一日早朝、北朝鮮が付近からミサイルの発射を試みたところである。ちょうど四十年前、わたしは初めてそのウォンサンから北朝鮮の地を踏んだ。
サムジヨン(三池淵)号の船上から港のすぐ近くに巨大な像が海上に向かって立っているのが見えた。港に近づくにつれて、それが当時の主席キム・イルスンの像であることが確認出来た。船着き場では特大のキム・イルスンの肖像画を取り囲むように、訪問者を歓迎する人民の輪が出来ていた。
わたしら取材団は報道局の副部長を団長に、記者二名、カメラマン二名の計五名であった。像の近くの食堂で粥の朝食を済ませ、団長が乗るベンツ車を先頭に、わたしら団員はヴォルヴォ車に分乗して、「革命の首都」ピョンヤンに向けて出発した。途中にあったトンネルの入り口では、われわれが乗った公用車の車列が通るのに気付いた少年兵が最敬礼する姿を目撃した。
当時の取材ノートから道路沿いの風景メモを拾ってみると、白壁の平家と冬枯れの畑。畑で焚火を囲んで憩う人々。茶色の牛を使った農耕。柴を背負ってトボトボと歩いているお婆さん。長い木のスコップを肩に担ぐ少年。リュックを背負った人民服の男性など。ピョンヤンの手前約三十キロ付近では、荷台に十数人の兵士が乗り込んだカーキ色の軍用トラックが走り、歩道では青年人民隊が行進し、赤シャツに紺のスカートを穿いた少女二十人ほどが隊列を組んで歩いていた。
春を迎えたピョンヤンに入ると、テドンガン(大同江)が市の中心部を貫き、薄緑の柳が至る所に見られ、桃の花が美しい。二年前キム・イルスン生誕七十周年を記念して建てられたという高さ百七十メートルのチュチェ(主体)思想塔や金日成広場、金日成競技場、人民大学習堂など大規模施設が目立つ中心街を抜けると、朝鮮中央歴史博物館やアパート群があった。何処か東ヨーロッパのイメージがする街に人影は少ない。交通量はさほど多くない市内の交差点に交通信号はなく、社会安全部(警察)の職員が手旗で交通整理をしていた。その傍らを労働者が乗るトロリーバスが、かなりのスピードで走り去って行った。
赤軍派との会見はわたしらが宿泊するピョンヤンの外国人専用のポトンガン(普通江)ホテルの部屋で行われた。わたしが企画の発案者だったので、ラジオ・テレビ用のインタビュー取材を仕切ることになった。
赤軍派は当時九人いたが、リーダーの田宮高麿氏は姿を見せなかった。(注・田宮氏はその後北京で客死)
田宮氏に代わり、赤軍派のスポークスマンをしていた小西隆裕氏(当時三十九歳)と若林盛亮氏(当時三十七歳)が姿を見せた。交換した名刺などから、彼らは「日本を考える編集委員会」という名称で、日本の左翼系書店から思想雑誌を発行したり、日本語の通訳をしたりするなどして生活していたことがわかった。
それから四時間あまり、雑談も交えながら彼らは北朝鮮での十四年間を「総括」した。
彼ら九人は当時ピョンヤンから車で約四十分の郊外にある居住地で生活し、北朝鮮のことを「朝鮮(チョソン)」と呼んでいた。
小西氏がまず居住地での日常生活を明かした。
「勉強には適したところです。朝は六時に起床し、当番制で朝飯を作ります。『日本を考える』という雑誌を出版しているので、昼間はその編集をしたり、日本語を教えたりですが、最近は単行本の執筆に忙しい毎日です。朝鮮では午睡の習慣がありますが、昼寝はしないことにしています。昼は仕事に集中し、夜は早く寝るようにしています。ここに来て十四年間同じパターンで生活して来ました」
若林氏は「ピョンヤン市内は単独行動も可能です。こちらの人民が必ず胸に付けている金日成(キム・イルスン)バッジは付けなくても、すぐ外国人とわかるので付けていません。意識は勿論日本人で、楽天的な生活を送っています。好きなことをやっているのですから」と付け加えた。
小西氏が話す。
「こちらに来るためにハイジャックという方法を取ったこと自体は、間違いやったと。全ての人々と一緒に闘うんじゃなくて、僕ら自身が大衆から離れて闘ったし。ハイジャック自身も乗客の方には迷惑かけたし、苦痛を与えたと思って。そういう意味で深く心から謝罪せなあかんと。そのうえで清算するのかと言えば、自民党、敢えて言えば『反動政府』ですよね。彼らは対米追従的な傾向、軍国化・ファッショ化を押し進めている。十四年前もそうやったし、今はますます強まっている。これに反対して闘ったこと自体に関しては、一切悪いとは思っていないし。『日本を考える』という雑誌もその方向で出版してるし、その姿勢だけは今でも堅持して正しいと思っている」
(Q)何故「北朝鮮に飛べ」だったのでしょうか。
(小西)「何も朝鮮のことわかってやったわけではないですね」
口を開くと同時に、小西氏は笑顔を見せた。
「正直言うて、余り知らなかったんですよ。ただ知っていたのは、当時の日本で最も悪く言われていた国やと。だから我々にとっては最もいい国やないかと。基本はそこですね。基本は」
(Q)キム・イルスン主席に尊敬の念があったとかではないということですか。
(小西)「プエブロ号事件とかね、知ってましたから。金日成主席は帝国主義に対しては非妥協的な方やと認識してましたから、われわれのことも理解してくれると思ったというのはあった」
プエブロ号事件は朝鮮人民軍のゲリラ部隊が当時の韓国のパク・チュンヒ大統領殺害を企てた青瓦台襲撃未遂事件から二日後の一九六八年(昭和四十三年)一月二十三日、北朝鮮東岸のウォンサン(元山)沖の洋上でアメリカ国家安全保障局の電波情報収集任務に就いていたプエブロ号が、領海侵犯を理由に北朝鮮警備艇などから攻撃を受け、乗員一名が死亡、残る乗員八十二名が身柄を拘束され、北朝鮮当局の取り調べを受けた事件である。
(Q)北朝鮮は世界の中で鎖国状態にあるという見方が日本ではあるが。
(小西)鎖国とおっしゃったが、日本がこの国に対して鎖国しているというのが正しい。日本とも国交を開こうとこの国は努力しているのがここに来てすぐわかった。その動きを日本政府の方が止めている。日本のパスポートは朝鮮だけには行けなくなっている。そんなパスポートは他にはない。第三世界では最も広く国家交流をしているのが朝鮮。そういう意味ではこの国は鎖国どころか自主独立をめざす国々とは最も親しく、友好的な広い付き合いをしていると思っているし、僕ら自身も日本にいる時には考えられなかった第三世界の人々の代表と付き合ったりしている。昨年はリビアに行って来たんですけどね。アフリカの青年フェスティバルに参加して広く青年らと交流し、日本の進むべき道を考えざるを得なかった。日本の新聞なんか見てますとね、そういう方向の志向が日本には余りにも少ないやないかと。目が全然そちらに向いていない。付き合う相手が欧米の従来の資本主義国に偏っている。朝鮮が中心的な位置を占めている新しい自主独立の勢力に対する視点、これに対して積極的にどう対応するのかという視点が欠けているのではないか。そういう意味で今の日本がアメリカに追従・隷属していくのではなくて、もっと非同盟自主の方向に大胆に踏み出してゆく時期に来ているんやないかと考えてるんです」
(Q)北朝鮮に骨を埋めるおつもりなんですか?
(小西)「僕らどこまでも日本人ですし、日本のために日本で活動していくのが最も良いと。したがって、何処までも日本に帰ることを追求していく。それを踏まえた上ですぐ帰国ということになりませんから、こういう雑誌を出したり、世界の進歩的な人たちと交流を深めたり、日本の志のある人たちと意見を交換し、僕らの考えを問題提起していきたい」
(Q)当初はこちらで軍事訓練を受けようとしていたと聞きましたが。
(小西)「あくまでここで軍事訓練を受けて、武装蜂起を目指していましたから。訓練を提起しましたが、当局からは未だに何の返事もありません」
そう言って、小西氏は大笑いをした。
(若林)「当局からは(軍事訓練は)検討しておきますというままで。僕ら自身も今はそんな必要も感じていない」
(Q)武装闘争は根本的に間違っていたということですか?
(小西)「たとえ革命戦争をやったとしても、果たして日本が変わるのかどうかと。どう見てもそうじゃないと思ってますけれどね」
二人は連合赤軍など他のグループの闘争については、真摯な態度は評価するし、一生懸命闘争していると信じていると語った。
(Q)帰国しての裁判闘争を考えていますか?
(小西)帰るということは進んで逮捕されるということですから、日本の反動化に反対して闘っている人々に申し訳ない。投降の勧めに応じることは一切出来ないと考えています」
(Q)日本に帰りたいという気持ちはありますか?
(小西)「我々は日本政府の対米従属的な、軍国主義的な、ファッショ的な政策と路線に反対する立場やし、そういう政府に対して頭を下げて逮捕されるために帰ることは一切有り得ない。その上で追求するのは、僕ら何処までも日本人やし、日本で活動し、それが最も日本のためになるんやという立場ですね。やっぱし日本は自分の祖国ですから帰りたいが、これは僕らだけの意志やない。日本との文通量も増えているし、僕らの祖国を思う気持ちを評価してくださって、もう日本に帰ってもええんと違うかという人もいるし。法律的に見ても、あれは理不尽な法律やし、事件の直後に国会に緊急上程されて、僕らにも遡って適用するとはね」
「よど号」ハイジャック事件を機に制定された『ハイジャック防止法』は、憲法第三十九条前段にある遡及処罰禁止規定により、この法律自体は「よど号」事件の犯人には適用されず、もし帰国して逮捕された場合に彼らは略取及び国外移送罪や強盗致傷罪に問われることになる。
(小西)「政府の反動化の政策に反対するという立場は、絶対多数の日本人共通の立場。そういう意味からしたら、甘ったれてるという人もいるかも知れないが、皆と利益が一致して一緒にやろうという輪が広がることを確信してるし、真の意味で日本人民の立場に立てば立つほど、輪を広げることは充分出来るし、またやらなくちゃならないと」
(Q)ハイジャック当時の支持者もその多くが転向し、学生運動も今や全く盛り上がらない状況です。日本が物質的に豊かになり過ぎたせいでしょうか?
(若林)「一方で矛盾が出て来て、教育問題とか、校内暴力とか、青少年問題。管理が厳しくなって、自由な発言が出来ない状態にある。管理に対する反発や潜在的な不満をどういう方向に持ってゆくのか。何とかしなくちゃと思う人々と共に考えてゆこうと思います。むしろそういう人は増えていると考えるし、だからわれわれも楽観的におられると思う」
(小西)「絶対多数の人々が差別・収奪され、抑圧されていることは紛れもない事実やし、人間である以上誰も人に従属して生きることは望まない。それはどんな時代でも、どんな情勢になろうが不変のものやと。我々の行動はそういう立場にいる人と利益が一致しているし、必ずいつかは大きな潮流になることができるんやという信念を持って今もやっている。すべての人がいつもそういう信念を持ってやらないかんのやと。もっと視野を広げて、何も日本の中だけで考えるんやなくてね。世界的に見て自主の流れ、支配と隷属に反対する自主の流れは滔々(とうとう)たる流れになって来てると、ここにいても切実に感じるし。リビアで見たアフリカの青年の生き生きとした姿にそれが現されているんやないかと。マスコミの人に向かって何だけど、日本のマスメディアに載るような、あれは極めて歪められた世界の像が表現されているんやないか。世界は決してそういう風に動いていないと。世界は自主独立の方向に進んでいるし、皆が自立した人間として生きる時代が確実に訪れて来てると。そういう中で、僕らの考えを共有する輪が必ず広がって来ると。大きな時代の流れは必ずそうなってゆくという信念を持っている。それが朝鮮に来て一番大きな収穫です。日本に居て見えなかった世界の現実が見えた。そして、それに基づいた信念を持って僕らやってるつもりです」
小西氏の言を受けて若林氏が語る。
「確かに望郷の念はあるが、我々は初志を貫く。やはり、日本を何とかしたいというところから出発してるし、それをやるのは日本でやるのが一番良いし、そのために帰ると。皆が一致して『帰って来いよ』というのが良い。こういう形で(注・カメラを通して)日本の皆さんに訴えるのも方法だし、黙ってちゃ進まない。切り開いてゆく! 今後も海外に出て、色んな日本の人とも会ってゆこうと。会いたいという手紙も届いているし、志ある人とやってゆくということ」
(Q)今後海外に出られる予定は?
(小西)「自主独立の道を進んでいる全ての国に対して共感を持っているし、学ぶものがあると思っています。リビアに行ったのも、偶々出会ったアフリカ代表団の人から青年フェスティバルというのがあると聞いて、面白そうやと申し込んで招待状をもらった。今後もそういう機会があれば、何処へでも出てゆく。僕らの意志としてね。日本の方々で我々に会いたいという人がいれば、ここでは難しいから海外に出て、会って話がしたいと思います」
お酒の話にもなった。一番強いのが小西氏らしい。
(小西)酒は弱い方がいいでっせ!(一同笑)
(若林)弱いのは田宮さんだ。酒と合うのは松茸。こちらは秋になったら松茸がうまい。
(Q)ところで、こちらに来て言葉の問題はどうでしたか?
(若林)「最初の頃は、日本に帰るつもりだったから朝鮮語には興味がなかったですね」
(小西)「その後、皆で一時期だけど、聞き覚えた朝鮮語で会話したことはある。朝鮮語は、来て二年目ぐらいでわかるようになった」
(若林)「今回の主席生誕祝賀会にも非同盟諸国中心に十四か国の訪朝団が来ているし、各国の言葉に全て若い朝鮮人の通訳がアテンドしているのは見事ですね」
(小西)「やっぱり国力ですね」
(若林)「若い世代が元気なのはいいことです」
ピョンヤンで四月十五日、キム・イルスン主席の七十二歳の誕生日を祝う『ピョンヤン国際音楽祭』なる催しが開かれ、世界十四か国から音楽関係の十八団体が招待されていた。国別ではフランス、イタリア、オーストリア、ギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラビアなどヨーロッパ各国。エジプト、アルジェリア、エチオピアなどアフリカ代表。さらにインド、パキスタン、メキシコ、ペルーが顔を揃えている。
日本からは「日朝音楽芸術交流会」という団体が訪朝した。交流会会長はテイチクレコード終身歌手だった声楽家の小笠原美津子さんを先頭に、大阪・豊中市のママさんコーラス、神戸の歌舞団などが訪朝し、わたしら取材団はその随行取材という名目で訪朝したのだったが、勿論この機会に「不可思議な国・北朝鮮」の諸相を可能な限り取材してやろうという心意気であった。そのひとつがこの会見である。
(Q)日本は一九六四年の東京オリンピック以降、経済成長が右肩上がりになって、ちょうどこちらに来られた頃、すなわち一九七〇年の大阪万博を越えて、さらに「経済大国」へとステップアップして行きました。物質的に豊かになれば、人間は保守化します。日本の労働者も十四年前に比べると保守化しているということを、こちらにいると中々実感がわかないのではありませんか?
(小西)「こちらで労働者代表と会って、その辺の空気は理解していますが、政治的意識はかなり低下して来ていると感じました。選挙も棄権が多く、低調だと聞き及んでいます。やはり主体的にモノを考える必要があると思うし、労組も自らの活動を見直す必要があります。議会制民主主義の中で、政党活動が庶民からかけ離れているが故に、庶民が無関心になっている。庶民の要求に答えられていないのが現状ではないか」
(Q)物質的に豊かになっており、庶民の要求も高くなっています。一方で守りの姿勢も出ている。『昼は社会党、夜は自民党』という言葉があります。昼間は革新的なことを言うが、夜になれば、自分が営々と稼いで作り上げたものを守り抜こうとするという意味です。
(小西)「しかし、ただ単純にそうだとは言い切れない部分がある。色んな面から見て行くべきでしょうな」
(Q)十把一絡げにするのも何ですが、今の日本のマスメディアをどう見ていますか。
(小西)「社会問題を扱っているにも拘わらず、疑問を投げかける報道が余りにも少ないような気がします。盗人猛々しいような事を目の前にして、もっと怒りがあって然るべきだと思う」
(若林)「無論、良心的な報道もありますよ」
会見当時、赤軍派九人はピョンヤン郊外で共同生活し、自炊しているとのことだったが、自ら漬けたという梅干を土産にと持参した。梅干を漬ける行為は、ピョンヤンで編集した日本語の出版物を日本で販売していることと同時に、せめて食べ物でも祖国・日本と直につながっていたいという想いが現れていたのかも知れない。九人のうち、今やリーダーの田宮高麿氏ら五人は既に鬼籍に入った。会見した小西隆裕氏と若林盛亮氏、それに魚本(安部)公康氏、赤木志郎氏はまだ北朝鮮に居る。
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