5.自由への船出
ああこれは夢だ。
陽だまりの中で眠るのが私は好きだった。
ボーヴォワール家の庭園で、母様と姉様と兄様とでランチをとる。
姉様が花冠を作ってくれて、兄様が図書室から引っ張り出してきた古い本を読み聞かせてくれる。そのあとどうしても眠くなって、母様の膝下で私は眠る。
そんな、幸せな昼下がりの夢。
——ほら、アンリエッタ起きなさい。今日は大切な日よ。
母様がそんなことを言っている。
ずっと眠っていたいと思うけど、私は起きなくっちゃいけない。
どうしてだっけ?
過去の微睡に後ろ髪を引かれながら、私は瞼を上げた。
「……夢、かぁ」
ギイギイと軋む室内。天井から吊り下げられた魔石ランタンがほのかな灯りを宿して狭い部屋を照らしている。
まだはっきりとしない頭の私を包み込むのは柔らかい寝台のマットレス。水鳥の羽毛を集めて詰めた掛け布団の温もりの中で、私は惰眠を享受する猫のように体を丸めていた。
微睡の中で思う。ここは図書室じゃないわね。えっと……、そうだ。
確か私は、えっと、そうだ、私、婚約したんだ。
——いけない、寝過ごしたわ!
全てを思い出して飛び起きると、私は寝台から降りた。
毛足の長いラグに素足を落とし、部屋の片隅に佇む鏡台の元に急ぐと、水差しから桶に水を張って、顔を洗って簡単な身支度を整える。それから着替え。普段着の簡易的なドレスに袖を通す。ベッドサイドの時計を見て愕然。
朝食の時間はもうとうに過ぎている。むしろ昼に近いくらい。
慌てて船室のドアに手をかけて、外に出てみれば春とは思えないほど凍てついた空気が私の頬を撫でていく。まだ甲板にも出ていない、狭い廊下に顔を出しただけだというのにこの寒さ。
「おや、アンリエッタ様。お目覚めですか? 昨晩は眠れましたか?」
ドア脇に立っていた軍服に身を包んだ女性が話しかけてくる。茶褐色の三角耳にふっくらとした尻尾が特徴的な、彼女の名前はミミーといったっけ。狐の獣人なのだとリュガ王子が側近の紹介の際に言っていた。
「ミミーさん。えっと、すみません、ベッドが心地よくて……つい、起きるのが遅くなってしまって」
「いえ。眠れたのであればそれで。初めての船で眠れないという方は多いのです。揺れが気になるのはもちろん、寝台の質もあまりよくないでしょうから」
「いえ、十分すぎるくらいいいベッドでした」
古い机にシーツを巻いたものと比べれば、月とスッポン。
あんなに柔らかい場所で寝たのは久しぶりだった。すっかり寝過ごしてしまったのは、初めての船旅という緊張もあっただろうけど、何よりベッドが心地良過ぎたせいだ。
「そうですか? 気に入っていただけたようでよかったです。それで、朝食はいかがしますか? すぐにでもお持ちできますよ」
「あ、後で自分で用意しますから大丈夫です」
「え?」
「え?」
ミミーさんの目が点になっている理由が一瞬理解できなかったけど、よくよく考えてみれば、普通の貴族は自分で食事を用意しないんだわ。
ここ七年は自分で準備していたからその常識がすっかり抜け落ちてしまっていた。
どう返答すべきか私が悩んでいると「おはようございます、アンリエッタ嬢」と耳をくすぐるテノールボイスが降りかかる。
ミミーさんの背後から姿を見せるのは雪のように白い髪の王子様。
「二人の話し声が聞こえてきたので。聞き耳を立てるつもりはありませんでしたが、よくお眠りになられたようで安心しました」
「お、おはようございます。リュガ王子、これから、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いいたします。顔合わせの席では大変でしたが、お体の方は?」
「ご心配をおかけしてしまい、すみません。大丈夫です」
私は深々と頭を下げた。
「そんな大仰な。頭を上げてください。体調に変わりなければそれ以上のことはありません」
そう言って、リュガ王子は周囲を見渡した。
船の中、船室が並ぶ狭い廊下を忙しなく船員が行き来していた。皆、厚手の上着を羽織っている。
「厳しい船旅も二日の辛抱です。クラムブロム王国の魔力船と船員たちのおかげで、航海にかかる日数がぐんと短くなりました。特に魔力船は新しい魔力機関のおかげで速度が五割り増しだ。風の影響も少なく、燃費もいい。雇う魔法使いの数が減って大助かりですよ」
そう言って静かに笑うと、彼は何かに気づいた様子で紅玉の瞳を細めた。
それから羽織っていたファーのついた上着を脱ぐと、私の肩に振りかける。
ふわりと香るのは僅かな獣の匂い。だけどもそれも兄様の部屋から漂うな血の臭いとは違った、温かみのある香りだった。
「えっと……」
「船内とはいえ、船室を出るなら上着を羽織った方が良いですよ。これからますます冷えていきます。エルマーダの春はまだ遠いので、今に雪も降ってくるでしょう。せっかくの輿入りなのです。風邪をひいて台無しにしては勿体無いでしょう?」
「……ありがとうございます」
リュガ様は私の体を気にかけてくれている。
顔合わせの日に倒れた私のイメージが先行してしまうのだろう。
あれはコルセットの締めすぎが原因だった。普段から社交界にも出ない私には、初めてのコルセットはあまりにキツすぎた。
リュガ王子とミミーさんたち側近の人たちが介抱してくれたおかげで、私はすぐに意識を取り戻した。姉様には根性がないと裏で毒を吐かれたけれども、そんなことはもうどうでもいいことだった。
あの後、私は署名したのである。
彼が持ち寄った二つの契約書のどちらにも。
彼との婚約を誓い、同時にお互いの自由を侵さない『自由不可侵』契約を結んだ。
それからはとんとん拍子に私の輿入りの話が進み(公爵家としても私を早々に追い出したかったのだろう)、顔合わせの日から半月もしないうちに私はエルマーダに向かう船に乗ることになったのだった。
「朝食はもう終わりましたか?」
「いえ、遅くに起きてしまったので、昼食時にいただこうかと」
「では昼時までまだ少し時間がありますね。何かご希望があれば、このミミーに言いつけてください。彼女が身の回りの世話をしてくれます。船の旅は退屈な時間が多いですからね。ご希望であれば、船に積み込んだ貴方の蔵書も持って来させますよ」
私がいなくなった図書室がどうなるかはわからないけれど、かつてあの部屋の住人だった兄様は今や狩の虜。ずっと暗い中で埃を被るだけならば、とお気に入りの蔵書をエルマーダ行きの船に積み込んだのだ。
「すみません、積荷を圧迫してしまって……」
「いえ、結構です。大陸の本はエルマーダでは貴重です。いつか私にも読ませてください」
「ええ、いくらでも読んでくださって構いません」
私の返答にリュガ王子は優しく頷いた。
その横からミミーさんが「昼食までの間、アンリエッタ様は船室で読書の時間ということでよろしいですか?」と訊ねてくる。
それに対して私は小さく首を左右させる。
「その、よければ、船を案内してもらいたくて……いいですか?」
「ええ、別に構いませんが」
驚いた様子のリュガ王子に、私は幼い頃から燻らせていた好奇心の炎を燃やしながら早口に言った。
「私、ずっと船に憧れていたんです。船から挑む海原の風景も、ずっと見てみたくって。私は城に篭りきりで滅多に外に出ませんでしたから。昔から船に乗りたいとせがんでは、両親を困らせてきました」
そこで一度言葉を区切ると、私は静かに続ける。
「ですので、母様は私に父様の船の設計図の複製を私に見せてくれたのです。それで船に乗った気分を味わいなさいと」
「それはそれは。であれば、ご希望であれば、ご案内しましょう。公爵どのが所有される豪華な商船や客船とは比べ物になりませんが」
それからリュガ王子は私に向かって手を差し伸べる。
「ではお手をどうぞ」
「……、は、はい」
白い手袋に覆われた大きな手をとれば、温もりが少し冷えた手に広がっていく。
私はそのままリュガ王子に連れられて、船内を案内してもらった。
機関室に、船長室、食堂に厨房、貨物室、一つ一つを丁寧に説明して貰う。
船については本で読んだことがあるけど、実際に見てみると想像と違って迫力がある。特に最新型の魔力機関は、魔獣の唸り声にもにた重い息を吐いて船を動かしていた。
船内を色々と案内してもらい、最後に出たのは甲板だ。
「濡れていて滑りやすいので、足元に注意してください」
リュガ王子の手に力が籠る。
万が一私が足を滑らせて転んだ時もすぐに受け止められるように気を配ってくれているのだろう。
彼の忠告を胸に、ゆっくりと一歩一歩、甲板に上がる階段を登り、そしてついに私は甲板へと足をかけた。
冷気が肺を満たすと同時に、私はひゅっと喉を鳴らした。
遠くまで広がる青い海の美しいこと!
「わあ、すごい。海って本当にどこまでも広がっているのね!」
欄干まで王子に案内してもらい、私は身を乗り出さんばかりにそこに手をついて声を張った。
その後も凄い凄いと心の中の幼い私の言葉をそのまま口に出しては、じっと広がる海を見つめていた。冷えた空気も気にならないくらいに、私の頬はかあっと熱くなっていた。
そんな子供っぽい仕草がおかしかったのかもしれない。
「ふふ」
リュガ王子が漏らす笑声に私は我に帰った。
しまった、子供っぽ過ぎただろうか。
仮初とはいえ妻として隣に立つ女がこんな子供っぽいのでは、と失望されては大変だ。
「す、すみません。はしゃぎ過ぎました……」
「どうして謝るのです? 私にはもう飽きるほどみた光景なので、アンリエッタ嬢の反応が新鮮で。私こそ失礼な反応をしてしまいました」
リュガ王子の大きな手がしっとりと濡れた欄干に触れる。
彼は私がそうしたように手をついては「ええ、本当に海はどこまでも広がり、世界のあらゆる場所へと繋がっています」と続けた。
「貴方の母国と東の果ての大陸と、そして私の国に続く果てしない道でもあります」
遮るものが何もない、真っ直ぐに降り注ぐ日差しを受けて力強く輝く紅玉の双眸が遠い海の果てを見つめている。光のカーテンの祝福を受けているかのように輝く横顔に落ちたわずかな翳りを前に、私は思う。
私がもし画家だったら、きっとこの光景をキャンバスに描いたことでしょうね、と。
ただ、残念なことに私に絵の才能はなかったし、絵の具もキャンバスもない。
「さて、そろそろ昼時ですね。いい匂いもしてきました。部屋に戻りましょうか」
すん、と鼻を鳴らしたリュガ王子は、私の方に向き直ると「さ、お手をアンリエッタ嬢」とまた白い手を差し出してくる。まるで社交界に誘う紳士のような仕草で。
そこで私は、ずっと思っていたことを言おうと口を開いた。
「……あの、リュガ王子」
「何か?」
続く言葉を口にしようとしたその時だ。
「うおおおおおおおおっ」
男の悲鳴にも似た呻き声がどこからともなく聞こえてきた。
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忌子令嬢と白狼王子の『自由不可侵』契約〜形だけの結婚と言ったのに獣人王子様が溺愛してきます〜 アズー @azyu51
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