4.王子様が提案するは『自由不可侵』契約


 胸が忙しなく鳴っている。

 過度な緊張のせいか、口の中がすっかり乾いている。

 私たちは今、ボーヴォワール城前、荘厳な環状囲壁に囲まれる中庭にて待機していた。


 父様が自ら来賓を出迎えることは、陛下や王家血筋の人々を除くとこれが初めてのような気がする。あれだけ畜生だの蛮族だのと口汚く罵ってはいたけれど、やはり〈黄金卿〉と称えられるだけのことはあって、体裁を取り繕うことだけは秀でている。


 私の隣には父様が、そしてその後ろにフランソワ姉様とシモン兄様が並んでいる。皆、社交界に赴く時のような優雅さと優美さを携えていた。


「そろそろだな」


 父様が懐中時計を確認すると、間も無く、古く、重い軋む音を立てて城門が開く。


 軽快な馬蹄の音と共に城へと姿を見せるのは、二頭の馬が引く豪奢な馬車だ。ボーヴォワール家の紋章があしらわれた豪奢な馬車を引く馬たちは、豪華な庭園にふさわしい美しい足取りで私たちの元へと近寄ってくる。


「時間通りだな」


 襟を正しながら、父様はポツリとこぼす。


「アンリエッタ気をつけろよ。頭から噛まれるかもしれないぞ」


 兄様の言葉にくすりと笑う姉様。


「シモン、無駄口を叩くなよ。お前たちは人形のように黙って飾りに徹していろ」


 父様の厳しい声が広がった後、馬車のドアが開いた。


 まず、馬車を降りたのは赤銅色の肌をした大柄な大男だった。縦にも横にも分厚く、筋骨隆々という言葉がぴったりの巨漢。


 次に馬車から降りたのは薄い茶褐色の髪をした女性。


 二人は馬車から降りるとすぐに地面に片足をつき傅いて、最後に降りてくる人物に向かって深々と頭を下げた。


 そして私は言葉を失った。

 最後に降りてきたのは、美貌の貴公子。

 遠目からでもはっきりと良くわかる。


 美しい銀の髪は、さながら冬の朝日に照らし出される新雪のように光り輝き、こちらを一瞥する真紅の瞳はさながら紅玉のように透き通っている。


 最後に降りた彼がリュガ王子に違いない。


「あれが、獣人族……?」

「噂と違いますわね」

「もっと毛深いと思っていたんだが」


 困惑した姉様と兄様の声が背後から聞こえる。


 私も驚いていた。

 あの三人は私たちが思うような獣人族の姿をしていない。


 獣人族といえば、獣の頭と体を持ちながら、人語を解し、人と似た営みを送る亜人種だ。


 それなのにどうだろう。


 遠目に見る彼らは、どう見ても人に近い姿をしている。

 唯一違うところがあるとすれば、その耳と尻尾だろう。


 大男には丸っこい耳と丸っこい尻尾が。

 女性にはツンと尖った三角形の耳と長く太い尻尾が。

 そして白銀の髪の貴公子には同じく三角形の耳とふさふさの尻尾が。

 それぞれついていた。


 彼らは馬車から降り切ると、御者と従者たちの案内に従って庭園の中をまっすぐに進んでくる。


「……こ、これはこれは、遠路はるばるようこそお越しいただきました」


 父様も驚いていたのだろう。ハッとした様子で声を張ると、父様は来賓である彼らに向かって小さく会釈をした。私もそれに倣って会釈をする。背後で兄様たちが慌ててそれに続く気配を感じる。


 ボーヴォワール家の誰もが、彼らの姿に唖然とし、呆気に取られていたのだ。


「ようこそボーヴォワール城へ。私がこの城の主、ユーゴ・ボーヴォワールと申します」

「ご家族総出での丁重なお出迎え、誠に痛み入ります公爵どの」


 心地よいテノールの声が私の耳元をくすぐっていく。


 はう、とフランソワ姉様が感嘆のため息をつくのが聞こえた。


 父様に小さく頭を下げた後、リュガ王子は赤い瞳に私たち一族を一人ずつ収めていった。


「ボーヴォワール家の皆様方、お初にお目にかかります。エルマーダ連合国第二王子、リュガ・ウル・ダ・エルマーダと申します。此度、わが国の申し出を受け入れて頂き、誠にありがたく存じます」


 そして再び深々と彼は頭を下げた。


 海を隔てた東方の大陸の人々も良く頭を下げる風習のある人たちだったけれど、エルマーダ人もそういう風習があるのかしら。本には最近の獣人族について書いてあるものが少なかったから。


 父様はいつもの商談スマイルを浮かべると「長旅でお疲れでしょう」と猫撫で声で言った。


「さ、一度城の中に。会食まで時間がありますが、大道芸人を呼んでいます。クラムブロム王お気に入りの一座でございます。王子殿下もお楽しみになれるかと」

「公爵どの申し出は大変ありがたいのですが」

「何か?」


 父様の顔が険しくなる。

 途端に場の空気が鉛みたいに重くなる。

 しかしリュガ王子の目元は涼やかで、父様も持つ負のオーラなんてまるで気にしていない。


「いえ、此度、私がボーヴォワール領に赴いたのは、私の婚約者となるアンリエッタ嬢に会うためです」

「はあ」

「ですので、会食の時間まではぜひ、アンリエッタ嬢と二人きりで話をしたいのですが」


 そこで彼がまっすぐに私を見た。


 心臓がノミみたいにびくりと跳ねて、不躾にも私は視線を逸さずにはいられなかった。前髪で隠しているとはいえ、不吉な金の目を彼に見られたくなかったのだ。


「それは構いませんが……よろしいのですか?」

「私の未来の妻となるお方です。二人きりで話すことに問題はないでしょう?」


 未来の妻、という言葉に父様は安堵したのだろう。


 先ほどほんの一瞬見せた素の父様を商談スマイルで隠すと「ええもちろんですとも」と快諾した。


「ぜひ我が娘、アンリエッタと歓談をお楽しみください。あちらにガゼボがありますので、歓談にはあの場がうってつけでしょう」

「無理を言って申し訳ありません」


 父様に向かって恭しく頭を下げた後、彼は私に向かって手を差し伸べた。


「さあアンリエッタ嬢、ぜひこの私とお話を」


 白い手袋を嵌めたその手は、父様や兄様のものよりも大きい。

 彼の手を取らないわけにもいかず、私は震える手をそのまま彼の手に向かって伸ばした。


 ……あったかい。


 大きい手が私の手を優しく包み込み、柔和に微笑む彼に「では、案内していただけますか? アンリエッタ嬢」とその低いテノールで囁かれて、もう私は混乱状態。今まで社交界に憧れたことは一度もなかったけれど、今日ばかりは出られなかった過去を後悔した。


「は、はひ……」


 緊張のあまり、私は蚊の羽音よりも弱々しい声を絞り出すので精一杯だった。


 父様が「……アンリエッタ、下手なことは言うなよ。いいな」と鋭い緑の目で訴えていたけれど、私は反応することもできない。


 ただ促されるままにこのボーヴォワール城が誇る庭園のガゼボへと王子様を案内することしかできなかった。


「さて、アンリエッタ嬢。本題に入りましょうか」

「はい……はい?」


 ガゼボに到着し、美しい花々に囲まれながら、従者が運んできた紅茶に口をつけたところで、リュガ王子が切り出した。


 はて、本題とは?


 私の疑問符に答えるように、リュガ王子は二枚の羊皮紙をティーテーブルの上に広げた。


 一枚は今回の縁談に関係する婚姻証明書。

 もう一枚は……契約書?


「この婚姻は両国が決めたもの。あなたにとっては実に不本意な話だと思います。ですが、両国のためにこの婚姻は避けて通れぬもの……」

「は、はあ」

「ですので、提案します。『夫婦であって、夫婦でない。お互いの自由を尊重し、決して侵すことはしない』という『自由不可侵契約』を結ぶというのは?」

「じ、じゆう、ふかしん?」


 疑問符がキノコみたいにポコポコと私の頭の中で増殖している。


「つまり、私を愛する必要はないということです。同盟を維持できる形さえ維持できればそれで良い……そうでしょう? ですので、お互いの自由を尊重し合う関係というのはいかがかと」

「見せかけの夫婦関係、と言うことですか?」

「ええ。夫婦という肩書きを守っていただければ、愛人をお作りになっても結構です。あまり派手にされては困りますが、まあ、国民にバレない程度であれば。どうでしょう?」


 ——あ、あ、ああああ、愛人?


 ◇


 リュガ王子の提案は、私にとってもとても魅力的なものだった。


 あらゆる束縛はなく、王太子妃としての立ち振る舞いさえあれば、あとは自由。愛人さえ作っても良いというのだ。


 だけども、だからこそ、私は彼に確かめたかった。

 こんな私でも良いかどうかを。


 右目を覆っていた髪を掻き上げたまま、私は肩を震わせていた。


 この先の反応が恐ろしくて仕方なかった。これで縁談が破談となれば、父様にどうされるか容易に想像がついたから。


「〈魔眼の忌子〉……」

「はい、このオッドアイは実に忌むべき瞳です。神話の悪しき王と同じ、不吉の象徴です。王家の方々がこのような忌まわしい目の持ち主と縁を持つというのは……」

「聞いたことがあります。左右で目の色が異なることは、大陸の人にとってとても忌まわしい凶兆であると。そう言った迷信はエルマーダでも見られます」

「で、では……」

「ですが、ボーヴォワール領はとても栄えているように見えますが。実際に、あなたの目が凶兆であるというのであれば、言葉は悪いですが——ボーヴォワール家は没落しているのでは?」

「え、ま、まあ、そう、かもしれませんが……」


 確かに、そう言われれば、私の目がこの色に変わってから七年。

 姉様や兄様に不幸は訪れたものの、ボーヴォワール家自体が傾くような不幸は起きていない。


「であれば、何も問題はありません。エルマーダではオッドアイは決して悪い兆しでもありませんしね」


 それからリュガ王子は優美な手つきでティーカップに指を添えると、紅茶を一つ口に含んだ。


「むしろ、私にはとても素敵な瞳に見えますよ。偉大なる月と同じ色をした目に、母なる大地の恵みと同じ新緑の瞳なのですから」


 私は何も言えなかった。

 まさか、本当に、こんな夢のような話が私の元に舞い込んでくるだなんて、一体誰が信じられるというの?


 自由。


 私が憧れた自由な生活が、誰からも虐げられない生活が、私の元に?

 体が震えている。それは歓喜によるもの? それとも大きく空いた胸元のせい?


「顔色が悪いですね。アンリエッタ嬢、……寒いのではありませんか? 大陸の季節は春といえど、被毛も持たないヒト族がそのような薄着では肌寒いことでしょう」

「い、いえ……」


 どうしてだろう。


「その、私……」


 安心したからかな。


「アンリエッタ嬢?」


 なんだか意識が遠くなってきて。

 ぐらりと世界が歪んで傾いている。

 あ、傾いているのは私の体みたい。


「すみません、私、息が、できなくて……」


 このまま倒れたらきっと痛いだろうな、なんて思いながらも、私はどうすることもできなくて。

 ただ新鮮な空気を求めて喘いでいるだけだった。


 ああ、だめ。

 もう無理。


 椅子から崩れ落ちたその時、端が黒く沈んだ視界に飛び込んでくるのは白銀の王子様。


「——大変だ! 誰か! 早く来てくれ!」


 あ、王子様の腕の中にいるのね。

 ……あったかい。

 私はそこで意識を手放した。

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