3.コルセット狂騒曲


「おい、もっと胸の空いたドレスはないのか? もっと本能的に雄を刺激するようなドレスに変えてくれ。これでは畜生どもの気を引くには不十分だ」


 父の苛立った声が室内に広がった。

 新緑のドレスを投げつけられた使用人が「はい、ただいまお召し物を探してまいります!」と慌てた様子で部屋を出ていく。


「ここで王子の気が変わっては面倒だ」


 父様は完璧主義者で現場主義だ。


 国と国が取り決めた同盟の証であるこの結婚が、万が一にも王子の気まぐれで反故にされるのを恐れている。それだけ今回の政略結婚はボーヴォワール家にとって旨みがあるのだろう。


 蛮族と見下げている獣人族の王子をもてなすために、王国一の料理人はもちろんのこと、王家お抱えの道化師まで呼びつけたというのだから驚きだ。何もかも、この顔合わせをつつがなく終わらせ、私と王子の婚姻を確実のものにするためだ。


 だからドレス一つをとっても、父様は神経質に吟味する。


 あの投げつけられた新緑のドレスも、有名な服飾デザイナーがデザインしたものだと聞いたけれど、それでもまだ父様は満足していないらしい。


 私が目を覚ました時は、太陽もまだ水平線の向こうに沈んでいたけれど、気づけばもう、窓に差し込む朝日が輝きを強めている。父様があんな調子だから、私はまだ着付けの最中。


 山のようなドレスが散乱するこの部屋の中央で、メイドたちが不機嫌そうな父様にビクつきながら私のコルセットの紐を締めている。


「アンリエッタ様、失礼します」


 メイドがそう言って紐を引き絞る。

 う、苦しい。


 一つ紐が締まるたびに肺の容量が少しずつ減っていくような気がする。

 社交界に出かける淑女の皆様は、よくこの拷問器具を身につけられるものね。


 私は羨望の眼差しを隣でつんと澄まし顔をしているフランソワ姉様に向けた。すでに身支度を終えた姉様は優雅な姿で、姉様は扇子を広げて口元を隠す。


 あ、これはいけない。

 姉様は悪いことを考えるといつもそうやって口元を隠すのだ。


「ちょっとあなたたち。まだまだスタイルが悪いわ。これじゃあ胸が小さく見えますの。もっとコルセットを締めなさいよ。ほら、もっと締めて! お父様がお選びになったドレスを着るのよ? こんな酷いスタイルで着こなせると思って?」


 姉様はメイドたちに発破をかける。

 これ以上締める?


 嘘でしょ、今でも十分苦しくて仕方ないのにさらに締めたら一体どうなることか……。

 だけどもメイドにとってフランソワ姉様の言葉は絶対。彼女たちは顔を見合わせると、私のコルセットの紐を握る手に力を込めた。


「はい、お嬢様。アンリエッタ様、失礼します!」


 ぎゅ、と紐を引き締めるメイドたち。


「うぐっ……!」


 たまらず、カエルのような醜い嗚咽が漏れる。

 愉快そうに姉様は喉を鳴らして笑っていた。


「あら、もうアンリエッタに様なんてつけなくてよろしくてよ。もうすぐ獣のところに行くんだもの。ほらもっと締めて」

「は、はい……かしこまりました、フランソワ様」


 メイドたちはひどく困惑した様子で、さらに私のコルセットの紐を強く締めた。

 肺の空気が唇から抜けていく。


 く、苦しい!


 社交界になんて出たことは一度としてないし、ドレスだってまともなものは着たことがない。だけども、こんなにもコルセットというものは強く締めるものだとは思えない。


 これじゃあ息ができなくて失神してしまうわ!


「姉様、い、息が、く、く、……苦しいです」

「あら、みんな耐えているのよ? 男を魅了するにはコルセットの締め付けくらい我慢しなくては……ねえ?」


 そう言って彼女は口元を扇子で隠しながら私の側へと歩み寄ってくる。

 それから私の顎を指先で撫でると目を細める。


「あなたは良いわよね。社交界に行かなくて良かったんですもの。あの穴倉で本だけを読んで、ああ羨ましいこと!」

「フランソワ、これ以上はやめとけ。ああ、あと、アンリエッタ、目元は隠せよ。その不吉な目を見て、王子殿が気を損なうかもしれんからな」


 ヒートアップする姉様を諌める声は、シモン兄様のものだ。


「あら、シモンお兄様。いけませんわ。淑女の着替えを覗くだなんて。兄妹とはいえはしたないわ」

「いいだろ。妹の祝いの席だ。俺からもプレゼントを持ってきたんだ」

「まあ、なんですの? お兄様はなんと心優しいのかしら!」


 よかった、この調子だと白熱した姉様にぶたれるところだった。

 姉様はいつもそう。姉様は怒りが抑えきれなくなって、私に手をあげる。


 兄様のことは苦手だけれども、今日ばかりは彼の登場にホッとした。青あざを作ってそのまま顔合わせなんて失礼なことしたくないものね……と、安心したのも束の間、兄様はその美しい口元を歪に歪めて笑うと、私に向かって何かを投げやった。


 それはふわふわの毛で覆われた——


「兎の足だ」

「きゃあっ!」


 ころんと床に落ちる切り取られた兎の足に、メイドたちが悲鳴をあげる。

 私も悲鳴の一つくらいあげたかったけれど、コルセットがキツすぎて悲鳴をあげることだって難しい。


「なんだ、アンリエッタ。日も上らないうちに俺が狩ってきてやった兎だぞ? お前のために狩ってやったんだ。礼の一つくらい言えないのか?」


 そう言って床に転がる兎の足を拾い上げると、それを見せびらかすように掲げてみせた。


「獣人は肉を生で食う野蛮人だと聞いたぞ。お前から同じ獣の匂いがすれば、王子殿もお前に夢中になるかと思ってな」


 そう言って、メイドたちを押し退けて私の首元に兎の足を押し付けてくる。


 うう、気味が悪い。


 シモン兄様は昔は大人しくて優しい人だったのに、今は毎日のように狩猟に出掛けては動物を殺して回っている。狩りは貴族の嗜みというけれど、それにしても兄様は異常なほどに狩りに夢中になっている。


 狩った鹿の首や角を飾ったり、魔獣の鞣した革を自室のラグにしたり、まるでトロフィーのように動物の死骸を飾っている。


「……や、やめて、ください、兄様……」


 コルセットの締め付けですっかり潰れた肺からなんとか息を押し出して、私が必死の哀願をしても、兄様は聞く耳を持たない。


「まあ、兄様、兎の匂いが移ってはアンリエッタが獣人に食われてしまいますわ!」


 ケラケラと口元を隠して笑うフランソワ姉様。


 彼女に私を助ける気が起きるはずも無く。そもそも私に興味のない父様が兄様を止めることもない。


 私は逃げることもできず、ただ耐えるだけだった。


「——公爵様。こちらのお召し物はいかがでございましょうか?」


 苦しい時間を切り裂く声は、慌ただしく部屋に戻ってきた従者のものだった。

 彼の手には血のように真っ赤なドレスが抱えられている。


 父様はそのドレスを受け取ると、その豪奢な召物に「おお、いいな」と感嘆の息をつく。芳しい反応に従者が安堵の息を漏らした。父様のお眼鏡にかなったのだ。


「これくらい華美で下品なのが畜生どもにちょうどいい。シモン、フランソワ、いい加減にしろ。ドレスに畜生の血がついては面倒だ」


 異常な空気に呑まれていたメイドたちにドレスを渡すと「早く着せろ」と彼は命令する。

 間も無くなれた手つきでメイドたちが私にその真紅のドレスを着せて行った。


 サイズはぴったり。私のために誂えられたのかと思うくらいに体にフィットしている。

 悔しいけど、姉様が言った通り。コルセットをぎゅうぎゅうに締めてちょうど腰回りが入るくらいのタイトさだった。


「と、父様……これでは、しょ、娼婦のようです」


 サイズの問題はもはやどうでも良く、私は鏡に映る自分を見てゾッとしていた。


 このドレス、あまりにも胸元が大きくはだけている。不健康そうな生白い私のデコルテ部分がひどく目立っていた。


 しかし私の抗議の声など父様に届くはずもなく。


「その吃音もどうにかしろ。いったい何時からまともに会話もできなくなったんだ?」


 父様が私を図書室に閉じ込めた日からですよ、と心の中で返し、私は諦めの息をついた。


 彼の命令は絶対で、彼の意思がまず第一に尊重される。仮に父様が裸で王子の元に行けと言われたら、私は裸で行かなくてはならないのだ。


「ふむ、いいだろう。直情的なくらいが獣人どもにはちょうどいい」


 父様は私のドレス姿に満足した様子で、従者に追加の指示を出した。


「宝飾品には大粒の魔石をあしらったネックレスを。我が家の財力を誇示するんだ」


 間も無く慌ただしく部屋に戻ってきた従者が重厚な箱を抱えて部屋へと戻ってきた。

 父様は満足げに箱からネックレスを取り出すと、それを私の首に飾った。


 まるで胸元に大きな穴が空いたみたい。巨大な魔石が私の胸元で怪しく光り輝いている。


 ……ひどい見た目。


 華美で、派手で、豪奢で、下品。


 コルセットで寄せてあげた胸は今にもこぼれ落ちそうなほどに露わになっていたし、その谷間の上には大粒の魔石のネックレス。魔石の周りには小さな宝石がこれでもかと言わんばかりに自己主張している。


 地味な私には全く似合わない。

 化粧も、ドレスも。何もかも。


 なんだかとても惨めな気持ちになった。

 父様たちの考えにも、私の見窄らしさにも。

 無骨な父様の節くれだった手が、私の肩に触れる。


「アンリエッタ。お前を娘に持って俺は誇らしく思う。この婚姻はボーヴォワール家に富をもたらすだろう」


 誇らしい?

 捨てるに十分すぎる駒だったと褒められて嬉しい人間がどこにいるというのかしら。


 でもいいわ。


 これでうまく縁談が纏まれば、私は晴れてこの家を出ていくことができるのだから。


 私は鏡の中の私に向かって強く頷いた。


 約束の時刻まであと少し。すっかり日も上りきり、外は春の麗らかな陽光で満たされている。


「公爵様、エルマーダ連合国第二王子……リュガ様がお見えです」


 さあ、決戦の時。

 最悪の気分だけれども、父様とは意見が一致している。


 どれだけ恥ずかしい格好であろうとも、必ずこの顔合わせをつつがなく終わらせて、この城を出て行ってみせるわ!

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