2.そうと決まればまずは勉強あるのみ


「……どうしようかしら」


 自室に戻るとたまらず私は呟いた。


 縁談。

 婚約。

 相手が王子様?


 〈魔眼の忌子〉である性質上、絶対にありえないと思っていた話が、こんなにも突然にやってくるだなんて。

 胸がまだドキドキしているし、手だって震えてる。


 それもただの縁談なんかじゃない。お相手はあの蛮族と名高い獣人族の王子様。

 どうしよう、と今度は胸中で独りごちて、私は自嘲する。


「どうしようって、私に拒否権はないものね」


 父様の命令は絶対だ。父様の子供は、父様の駒。差し詰めチェスのポーンといったところ。ただの兵卒に拒否権はどこにもない。


 金の亡者である父様のこと、この縁談にも何か金の匂いを嗅ぎつけたのだろう。大方、この同盟に伴う縁談を受けた家には報奨金を支払うだとか、商売に関係するあれやこれやを優遇してもらうとかそんな辺り。ついでに家の評判を下げる〈魔眼の忌子〉も都合よく追い出せるといった算段かしら。


 まあ、もう決まったことだもの、できることは一つだけね。

 私は頷くと、自室代わりに使っている図書室を見渡した。


 暗く闇が溶けた室内には、古く堆積した歴史の臭いが充満している。フランソワ姉様はこれをカビ臭いと形容するけれど。私にとってはとても馴染み深い、心休まるお香のようなもの。


 図書室の入り口付近の木箱の上に置いてあった魔石ランタンを手に取った。オイルや芯の代わりに、カバーの中に魔力で反応して光る魔石を入れた代物で、万が一に落としても燃え広がる心配がないという文明の利器。


 燃えやすいものばかりが集まる図書室にぴったりの光源だった。


 私の魔力を流し、ほのかに光り始めたランタンを掲げ、広大で薄暗い図書室の中を進んでいく。


 寝所として使っている、古い机にシーツを敷いただけの簡易的なベッドを跨いで進み、見上げることも億劫なくらいに巨大な書架の前にたどり着いた。


「確か、この書架のどこかに、獣人族に関係する本があったはずね」


 嫁ぐことはもう決まったようなものだ。獣人族の王子様は、一度顔合わせをしたいと言っているけど、このクラムブロム王国で獣人族に我が子を嫁がせようだなんて思う王族貴族はいないだろう。だから、大陸中で蛇や蜥蜴よりも忌み嫌われる私みたいな〈魔眼の忌子〉のところにまでお鉢が回ってきたのだ。


 だったら、獣人族のことを勉強するべきよね。


 こんな私の夫になる人だもの、忌み嫌われる見た目はどうしようにもないけれど、立ち振る舞いや言葉遣いはもちろんのこと、無知を晒して恥をかかせてはいけないわ。


「あった!」


 埃を被った分厚い本を手に取ると、私はそれを脇に抱えながら書架にかかる梯子を慎重に降りていった。


 その途中で、視界の端に月明かりがちらついて、私は降りる足を止めた。


 それから窓を見た。この図書室と同じく、埃の積もった薄汚れた窓の向こう側には、まん丸に太った銀の月が輝いている。

 その下では、父様の領地である港町が夜の帷の中で寝息を立てていた。


 ボーヴォワール領はクラムブロム王国北西の海沿いに位置していて、ここは王国の貿易の要でもあった。毎日のように大型の商船がこの港町を訪れ、領地と王国に富の潤いを落としていく。父様は貿易会社を設立し、さらに巨万の富をこのボーヴォワール領にもたらした。


 だけども、今、私の目を奪って離さないのは栄える父様の港ではなくて、黒い水平線。


 この大海原の北の果てを超えた先に、彼ら獣人族が住むエルマーダ諸島があるという。

 北の厳しく、険しく、氷塊が漂う海の先に。


「……いけない、また悪い癖が出たわ」


 ハッとして私は慌てて梯子を降り切った。

 それから、シーツを広げただけの硬い寝台のもとに戻ると、その上に魔石ランタンと本を置き、私は埃っぽい表紙を開いた。


 これは大昔の大陸出身の探検家が長い船旅の中で、エルマーダ諸島に訪れた際の記録をまとめた冒険記だ。今から二〇〇年も昔の話なので、今の獣人族の文化とは異なるかもしれないけれども。


 でも、何も知らないよりは良いわよね。

 私は掠れたインクのページを捲っていく。


 ——一年もの航海を続け、ついに私は〈神の流刑地〉エルマーダにたどり着いた!

 

 そんな文面から始まる冒険家の冒険記を目で追いながら、私は二〇〇年前の獣人族たちに関わる情報を頭の中に叩き込んでいく。


 エルマーダ諸島は北の果てに近い極寒地帯に位置する島群であり、そこで四つの部族が住んでいる。どうやら四つの部族は本島の霊峰を巡って対立しているらしく、滞在の間、大なり小なりの諍いが絶えなかったとある。冒険家はその部族の中でも最も勢力のある狼獣人の一派の元で半年ほど生活したらしい。


 ふむふむ。

 二〇〇年前はまだ国として成立していなかったのね。


 ページを一枚、また一枚と捲っていき、冒険家の目を通して伝えられる獣人族の生活や営みを頭に叩き込んでいく。


 ページを捲る指が震えている。

 胸のドキドキが激しくなっている。


 胸が高鳴っているのは、得体の知れない蛮族に嫁ぐことを恐れているだけではない。確かに獣人族には良い噂を聞かない。彼らは私たちとは違う独自の文化と宗教観を持っていて、他の種族に対して排他的だと父様が言っていた。


 さらに、こっちの伝説では魔王に使役されていた魔獣が人を食って、知恵と知識を奪い、そうして獣人になったというものまである。この本を執筆した冒険家も、ともに生活している狼獣人に食われることを恐れているくらいだ。


 文化の違いと悪い噂。この二つがあるから、ヒト族は獣人族を忌み嫌う。

 でも、今、確かに私の胸を強く打っているのは、絶望や恐怖といった負の感情とは真逆の——期待。


「やっと、この城の外に出られるのね」


 ずっとこの窓の向こうを見ては、このボーヴォワール城を出ることを夢見ていた。

 この忌々しいオッドアイが顕現する前まで幸せだった過去を見限って、私の、私だけの自由の日々を夢見ていた。


 無意識に私は自分の右目に手をやっていた。

 金色に怪しく光る魔眼。


 父様や姉様や兄様と同じ緑柱石の瞳がこの色に変わるその時まで、私の人生はまさしく薔薇色だった。あの頃はまだブリジット母様も健在で、みんなが私に優しかった時代。


 一〇歳の誕生日の朝、本当に何の予兆もなく、突然、私の目の色は変わってしまった。

 悪魔の目、魔王の目、忌まわしい魔獣の呪い。


 私の目を見た者は口々にそう言った。


 父様お抱えの医者も、呪い師も、高名な魔法使いも、東の果ての怪しい薬屋も、皆この目を治す手はないと匙を投げた。


 ——これは俺の娘に相応しくない。お前は決して外に出るな。


 父様は私の自室を取り上げると、図書室に封じ込めることにした。


 ——どうして、そんな目になったのよ!


 〈魔眼の忌子〉が出た家には災いが降りかかる。その伝説を信じた姉様の婚約者は姉様を口汚く罵っては、手ひどく振った。姉様が初めて私をぶったのはその日だ。


 ——全く、お前のせいで散々だ。


 いつも一緒に遊んで、私に本を読む楽しさを教えてくれた兄様は図書室に近寄ることさえしなくなった。

 何もかもがこの目のせいで変わってしまったけれど、母様だけは変わらずに優しくしてくれた。


 ——アンリエッタ、ごめんなさいね。私があなたをそんな風に産んでしまったから。


 記憶の中の母様はいつも悲しそうな顔をしている。泣かないで、と私はいつも母様の涙を拭っていた。

 娘が〈魔眼の忌子〉となったことがショックだったのか、母様はその年に流行病にかかって天国へと旅立ってしまった。


 どうして。


 そうは思っても仕方ない。皆の態度が変わったのも仕方ない。母様が旅立ったのも仕方ない。


 だって私の目が〈魔眼〉に変わってしまったから。


 だから私は諦めることにした。どうしようにもないどうしようにもないと、この図書室での軟禁生活も受け入れて。


 でも、少しだけ。


 希望を持つことが許されるならと、私は窓を見て夢想していた。

 この変わってしまった私の家を出る夢だ。


 獣人族に嫁ぐのは怖い。何が起きるかなんてわからない。エルマーダ諸島は極寒の島だという。


 体が耐え切れるかもわからないし、排他的な獣人族のこと、歓迎されるのかもわからないし、もしかしたら……大昔の話みたいに食べられたり……まあ、流石に同盟の相手を食べたりなんてことはしないだろうとは思うけど。


 父様の冷たい視線も、兄様の刃物みたいな言葉も、姉様の扇子の折檻も、従者たちの陰口とも離れられるのだから。


 私の目のせいで、幸せを奪われた人たちと離れることができる。

 本を閉じると、私は魔石ランタンを片手に立ち上がる。


「まだまだ勉強よ。失礼なことを言って、縁談がダメになるなんてことだけは避けないと」


 父様にとっては金のための縁談なのだろう。

 でも、これは私にとっても希望そのものだ。


 私は膨大な蔵書を見上げ、その中から獣人族にまつわる本を探して回り、夜通し本を読み続けた。


 毎日、毎日、毎日……寝る間も惜しんで情報を収集し、そして——




「起きろ、アンリエッタ!」


 日も上りきらない薄闇の朝方、ユーゴ父様の低い声が図書室に響き渡った。


「と、父様……」


 まだ糊ついた瞼を擦りながら、私は大量の本の海から顔を出した。

 昨日も夜遅くまで本を読み耽っていたからか、目がなかなか覚めてくれない。


 そんな私の姿を見た父様は、眉間に深い皺を作っては、緑柱石の目を吊り上げてがなりたてる。


「何を寝ぼけた声を出している? 急いで支度をしろ!」

「し、支度、ですか?」


 父様がこの図書室にやってきて、私を起こすなんてこと、この七年の中で一度としてあっただろうか。


「今日が顔合わせの日だ!」


 ——ついにこの日がやってきた。

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