忌子令嬢と白狼王子の『自由不可侵』契約〜形だけの結婚と言ったのに獣人王子様が溺愛してきます〜

アズー

1.私、忌子ですけど大丈夫ですか?



「アンリエッタ嬢、此度の縁談を受け入れていただき、大変嬉しく思います」


 凛としたテノールの声が私の耳をくすぐった。

 ボーヴォワール城の庭園の小さなガゼボの下、穏やかな春の風を受けて煌めくのは彼の銀の髪。


 涼やかな切れ長の目を彩る虹彩は、さながら紅玉のように赤く燃えるように輝いていて。

 私は思わずため息をつかずにはいられなかった。


 ——こんな美貌の青年と私が婚約する? いったい誰が信じられるというの?


 私は長い前髪の下から、ゆっくりと彼を見上げた。


 ふわふわ癖毛の銀髪からぴんと伸びる三角形。銀の被毛に覆われた獣の耳は、風に乗って聞こえてくる小鳥の囀りにひくりと跳ねている。窮屈そうに椅子の足の合間を揺れる長い尾は、今にも触りたくなるほどふかふかでふさふさだ。


 亜人種の中でも蛮族と名高い獣人族の王子、リュガ様。

 私が想像していた蛮族とはまるで異なる威風堂々とした姿に、すっかり私は気圧されていた。


「た、確かに……」


 やだ、恥ずかしい。緊張からか、声が上擦って掠れている。

 私は咄嗟にティーカップに手を伸ばすと、乾き切った喉を潤そうと一気にそれを飲み干した。

 すっかり緩くなった紅茶の渋みに少し顔を顰めると、私は小さく咳払い。


「確かに、す、素晴らしい縁談だと思います。我がクラムブロム王国と、獣人族の国エルマーダ連合国の関係をより強固にする……同盟を結ぶための……とても先進的で、革新的な縁談だと思います」


 息が苦しい。

 胸が締め付けられているように感じるのは、このきつく絞められたコルセットのせいだけではないだろう。


「それに、リュガ様がおっしゃったような……」


 優雅なティーテーブルの上に広げられたニ枚の羊皮紙。

 一枚にはクラムブロム王国と紋章と、エルマーダ連合国の紋章が描かれた契約書。強力な魔力で結ばれる、血と血の契約書だ。

 ここに私が血の拇印を捺せば、晴れてこの婚約が結ばれる。


 そしてもう一枚は——


「ええ、これは契約結婚です。夫婦関係はただの仮初。アンリエッタ殿は、エルマーダで暮らすことにはなりますが——自由に暮らしてくださって構いません。何をするもあなたの自由……、まあ、王太子妃としての制限は付きまとうことでしょうが」


 この婚約の裏で交わされる『自由不可侵契約』に関する誓約書だった。

 なんと彼は、私にこう言ったのである。


『決して私を愛する必要はございません、誰を愛するかも、それはあなたの自由です』と。


 自由。

 何より自由を求めていた私にとって、これ以上の申し出はない。

 多分、この先の人生で、一度として訪れることがないであろう最大の好機。

 だからこそ、私は確認しなくちゃいけない。


「ですが、リュガ様……一つ、確認させてください」

「ええ、どうぞ。あなたの人生に関わることですから」


 そこで私は顔の右半分を隠す長い前髪を掻き上げる。

 すっかり明瞭になった視界で、真っ直ぐに獣人族の王子を見つめて口を開いた。


「私、〈魔眼の忌子〉ですけど大丈夫ですか?」


 紅玉の双眸に映るのは、緑と金の相反する二つの瞳。

 私、アンリエッタ・ボーヴォワールが憎んで仕方のない、魔眼の姿だった。


 ◇


 アンリエッタ・ボーヴォワール。

 それが私の名前。


 遠縁ながら王族の血筋に当たるボーヴォワール公爵家の令嬢——そんな肩書に憧れる者は、多分、少なくないだろう。


 王族の血を引く王族貴族であるだけでなく、あの貿易で巨万の富を築き上げた〈黄金卿〉ボーヴォワール公爵の娘なのだ。毎日のように社交界に出かけ、豪華絢爛なドレスと宝飾品を身に纏い、見た目麗しい令息たちを手玉にとる——そんな夢のようなお金持ちの生活を送っていると思うだろう。


 だけども今の私にとって、そんな生活は無縁のもの。

 公爵令嬢の肩書は冷たい手枷よりも重く忌まわしいものだった。


「あ〜ら、アンリエッタじゃない。道理で廊下がカビ臭いと思ったわ」


 月明かりが城の廊下に差し込む時間帯。厨房から盆を両手に自室へと戻ろうとしたところで、突き刺すような言葉が私の背中に投げかけられる。


「フランソワ姉様……随分と早いお帰りですね」


 私の姉、フランソワ姉様。

 綺麗に巻いた金の髪を苛立たしげに掻き上げた彼女は、酒で紅潮した頬を怒りでさらに赤く染めては「誰のせいで早くなったと思うのかしら?」と吐き捨てるように言った。


「早くわたくしの視界から消えてくださる? せっかくの社交会でしたのに興が冷めますわ」


 手の中の扇子を苛立たしげに打ち付けながら、フランソワ姉様は私を睨んでいる。


 最悪だ。


 今日もフランソワ姉様は機嫌が悪い。それもいつにも増してお怒りのご様子だ。

 きっと、社交界で散々な目にあったのだろう。


「あーあ。まったく……どうして、この美貌を持つわたくしが、社交界に脚繁く通う無駄な労力を使わなくてはならないの?」


 それは姉様の性格に難があるのでは?

 思わずちくりと言葉で刺したくなるが、すんでのところで耐えた。その扇子で殴られるのはこりごり。機嫌が悪い姉様とは距離を取るべきだ。


 私はそそくさと盆を両手に廊下を進んだ。早く夕食を食べないと。せっかく作った料理が冷めてしまうし、今の機嫌の悪いフランソワ姉様の機嫌を損ねては、この盆もひっくり返されかねない。


「アンリエッタ! お待ちなさい!」

「あ」


 がしゃん。


 フランソワ姉様が肩を押したせいで、手から盆が落ち、食器が倒れ、中のスープやパンがひっくり返ってしまった。


 だけども、それを拾い上げることは許されない。

 高圧的な碧玉の瞳が私に動くなと暗に伝えてくる。


「あなた、何か言うことがあるのではなくて?」

「……」

「あなたがそんな目になってしまったから、皆、魔族の呪いを恐れて、このわたくしと踊ることすらしようとしないのよ。あなたが〈魔眼の忌子〉だから!」


 ここ一〇年、毎日のように聞かされてきた罵詈に私は小さくため息をついた。

 落ちた盆に映り込む私の顔が忌々しい。


 姉様と同じ金の髪。長く伸ばした前髪の隙間から覗くのは、姉様と同じ緑柱石の瞳と、月のような金の瞳のオッドアイ。


 この国、いや、大陸全土においてオッドアイは忌み嫌われた。


 その理由は単純なもので『神話の魔王もオッドアイであったから』というもの。

 別にオッドアイだからといって、特に秀でた魔道の才を得るでもなく、何か特殊な力を得るというわけでもないのに、その神話の伝承のおかげで、魔王と同じ目=魔眼を持つ忌子としてオッドアイは嫌われるのだ。


「さあ! アンリエッタ! なんとか言いなさいよ!」


 これは朝までコースだな、と頭の片隅で思い、反論することもせずにじっと怒れる姉の顔を見上げたその時だった。


「——フランソワ。ああ、なんて臭いだ。また酒ばかり飲んできたのか? ここまで漂ってくるぞ」


 辟易とした男の声が人気のない廊下に響いた。


「し、シモンお兄様に」

「ユーゴ父様……」


 狼狽えるフランソワ姉様の横で、私はボソリと父の名を呟いた。

 彼女の肩越しに広がる廊下の果てには、従者を従える金の髪が二人分。

 シモン兄様とユーゴ父様だ。


「お父様、陛下にお呼ばれになられたのでは? 政に関するお話でしたとか。それにしては、随分とお早いご帰還で」


 先ほどまでの不機嫌さはどこに消えたのか、フランソワ姉様は私の側を離れると猫撫で声でユーゴ父様の元へと擦り寄った。父様は脱いだ薄手のコートを従者に渡すと、襟を正しながら廊下を進む。


「ああ、すぐに話が纏まってな。陛下のお悩みを解決できるのは、我がボーヴォワール家だけであると進言したところ、ではすぐにでもと、とんとん拍子にな」

「まあ、どういったお話でしたの? このフランソワにも聞かせて下さりません? 今日も気分が最悪ですの。お父様のお話をお聞かせくださいませ」


 そろそろいいかな。

 フランソワ姉様の機嫌も父様と兄様のおかげで少しは良くなったみたいだし、部屋に帰ろう。


 そう思って踵を返した時「アンリエッタ、どこに行く?」威圧的な声と共に、父の緑柱石の瞳が私を射抜く。

 途端に私の体は錆びたブリキの人形みたいに動かなくなり、心臓が早鐘を打つように脈打ち始める。


「し、寝所でございますが」

「お前にも関係がある話だ。こっちに来い」

「……わ、私にも?」


 父様の言葉はボーヴォワール家において絶対だ。

 私の足は私の心に反して勝手に動き、あっという間に父様たちの目の前にまで移動していた。


「まあ、お父様。どう言った風の吹き回しですの? あのアンリエッタが陛下の政にどう関係しますの?」

「フランソワ、淑女は囀るものじゃないぞ。男の言葉を黙って聞くものだ」

「まあ、シモンお兄様。失礼しますわ」


 フランソワ姉様が兄様の言葉に不満げに口を尖らせる。

 その横で、ユーゴ父様が淡々と言った。


「アンリエッタ、お前に縁談だ」


 そんな爆弾発言を。


「——えええええええええ? アンリエッタが? なぜ? どうしてですの?!」

「だから黙れと言っているだろ、フランソワ」


 驚愕からかヒステリックに叫ぶフランソワ姉様と彼女を諌めるシモン兄様。

 対して私は唖然とするばかりで言葉が出てこない。


「アンリエッタ。この縁談は、お前しか受けることができない」

「わ、私に、しか……?」

「此度、陛下は大陸各国の情勢を鑑み、新たに同盟を組むことを決断なされた。その同盟の証として、王家の血筋の者を嫁として出すことになった」


 確かに私も王族貴族ボーヴォワール公爵家の一員。

 血筋だけ見れば、政略結婚の駒には相応しいだろう。


 だけども、私は大陸間でも忌み嫌われる〈魔眼の忌子〉だ。政略結婚の駒にするにも、相手に失礼な存在ではないか。


 それなのに、あえてフランソワ姉様ではなく私を指名した理由とは……?

 父様は精巧な陶器人形のように感情の見えない目で私を見下ろしながら、ゆっくりと言葉を続けた。


「相手はエルマーダ連合国第二王子、リュガ・ウル・ダ・エルマーダ」

「エルマーダですって? まあ! まあまあまあ! なんてことですの!」


 先ほどまで愕然としていたフランソワ姉様が、息を吹き返したように上機嫌に叫ぶ。


「え、エルマーダといえば、あの……獣人族の国ですよね? 蛮族と名高い、あの獣の頭と体を持ち、人さえ食うと言われる、亞人の……」


 父様に尋ねる私の声は、ひどく震えている。

 そんな私を見て、フランソワ姉様は嬉々としてこう言った。


「蛮族の花嫁だなんて、アンリエッタにお似合いじゃありませんの!」

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