第十五話 鬼武将
―鬼武将 宇都宮公綱との駆け引き―
楠木正成が河内、和泉、摂津を制圧し、京への圧力を強める中、鎌倉幕府の六波羅探題は焦燥に駆られていた。
正成は、渡部橋の戦いで圧倒的な勝利を収め、彼の名声は全国に轟いていた。
これ以上、正成に敗北すれば、幕府の威信は揺らぎ、鎌倉の支配は崩壊する危機に瀕する。
「楠木正成を止めるには、もはや並の武将では太刀打ちできない。ここは
と、六波羅探題は新たな討伐軍の編成を決定した。
宇都宮公綱は「坂東一の弓取り」と称され、「鬼武将」の異名を持ち、関東武士の中でも卓越した武勇を誇っていた。特に、弓の名手としてその技量は全国に知られ、どんな激戦でも必ず勝利を収めてきた人物である。
「宇都宮公綱公が出陣するとは、幕府もいよいよ本気か」
と、正成は報せを受け冷静に思案した。
宇都宮公綱の強さを知る正成は、一筋縄ではいかないことを理解していた。
元弘二年(1332年)夏、焼け付くような陽が天王寺の地を照らしていた。
宇都宮公綱の率いる軍勢は、整然と布陣し、静かな緊張感が辺りに漂っていた。
当初、彼が率いた軍はわずか200。
公綱は精鋭だけで、十分に勝利を掴むという信念を持っていたが、六波羅探題の命により、急遽700にまで増強されていた。
公綱のそばに寄り添う一人の側近が、思わず声を漏らした。
「公綱様、これほど兵を増やしたのは、幕府の威厳を示すためとはいえ、本当に必要なのでしょうか」
その問いに公綱は微笑し、静かに答えた。
「200で十分だ。数ではなく、心だ。戦は、武士の覚悟が問われるのだ」
彼の言葉に、兵士たちは自らの立場を再確認し、さらに士気を高めた。その姿勢は、まさに一糸乱れぬものであった。彼らの弓の構え、その一人一人の動作には無駄がなく、全軍が一つの生き物のように統率されていた。公綱は静かに全軍を見渡しながら、再び口を開く。
「我々はただ勝つために戦うのではない。正成を討つこと、それが幕府への忠義だ。そして、命をかけてそれを果たすのだ」
彼の冷静な口調に、兵たちはさらに緊張感を持ち、心を引き締めた。
一人の若い兵士が小さく頷き、前に出て声を上げた。
「公綱様、我らは命を惜しみません。どんな敵が相手であろうと、正成を討ち果たすために戦います」
その声に他の兵士たちも賛同し、一斉に勇ましい声を上げた。
「そうだ! 我らの矢は、正成を貫くためにある!」
公綱はその光景を見て、静かに頷いた。
彼は手元の弓を握りしめ、その感触を確かめるように軽く動かす。
「よし、時が来た。敵は恐るべき強者だが、怯むな。我らの心が強ければ、必ず勝機が訪れる」
いよいよ宇都宮軍の全員が命を懸ける覚悟をし、結束を固めたのである。
そして、その三日後……。
宇都宮公綱は、配下に言い放った。
「いったい奴は何を企んでいるのか。今、楠木正成と戦うことは得策ではない」
あっさり撤退の命を下し、六波羅探題に戻っていった。
坂東一の弓取り、鬼武将の異名を持つ宇都宮公綱は、名将、楠木正成の手のひらで見事に踊らされ、退陣を決めたのである。
――そのはじまりは、宇都宮公綱が、退陣を決める三日前のことであった。
楠木軍では、軍議が行われていた。
正成の弟の楠木正季は、強気な進言した。
「兄上、我が楠木軍は、5000の幕府軍を撃退したところで勢いがあります。今回の宇都宮公綱軍は、700にも満たないというこです。今の勢いで一気に撃退すべきです」
正成は少し黙り込み、目を閉じて深く考えた後、一言、静かに口を開いた。
「退却だ」
軍議に参加していた側近は、正成の判断に驚きを隠せなかった。
「勝って兜の緒を締めよだ。宇都宮氏はその名に違わぬ強者だ。彼らと正面から戦えば、多くの犠牲を払うことになる。たとえ勝てたとしても、それでは意味がない」
「宇都宮とまともに戦うのは危険だが、戦わずに勝つ道もある」
と、微笑みながら、正成は正季を含めた側近たちに語った。
―夜の松明作戦―
正成は、兵たちに命じた。
「手筈が整う最大限の数の船を用意し、無数の松明を灯し、大阪湾へ航行するのだ」
正成自身も、自らが営む海運事業の人脈を通じ、大量に船を準備した。
そして夕刻、河内の大和川の河口から、大阪湾に向けて、二百隻を超える船を航行させ、南方向の河内、東方向の生駒山の麓、北方向の渡辺橋周辺、そして西の大阪湾から松明の火を大量に灯した。
あたりを包む暗闇の中、航行する大量の船が、まるで宇都宮軍を四方向から囲い込んでいるように仕向けた。
「敵に我らがどれだけの兵力を持っているか、読めないようにせよ」
と、正成はさらに命じた。
三日三晩、山の麓周辺、橋や津の周辺、そして海岸線には絶え間なく松明が灯され続けた。
これを見た宇都宮軍の兵たちは次第に不安に陥っていった。敵の動きが見えず、彼らがどこに潜んでいるのか、どの方角から、いつ攻撃を仕掛けてくるのかを全く予測することができない上、三日目の晩には、ほら貝と太鼓の音が辺りに響き始めた。
「我らの前に正成は姿を現さぬ……いったい何を企んでいるのか」
宇都宮公綱は眉をひそめた。自分たちの眼前に広がる松明の光景に不安を覚えながらも、焦らないよう兵たちに冷静さを保つよう命じた。
しかし、時間が経つにつれ、兵たちの緊張は徐々に高まっていった。
「もしかしたら我々は、敵の中に深入りしているのではないか」
「無理に戦うことは得策ではない」
と公綱は配下に言い放ち、あっさり撤退の命を下した。
正成の狙いが見えないまま宇都宮公綱の判断によって戦闘は、見送られた。
「これで河内での決戦までは、少しは時間を稼げる」
と、正成はつぶやいた。
翌朝、宇都宮軍が天王寺周辺から撤退したことを確認した楠木正成は、すぐに行動を起こした。
正成は、無駄な戦闘を避け、戦わずして勝利を収めたことを確信し、天王寺に進出した。
正成は勝利の後も慎重であり、住民や庶民に迷惑をかけぬよう、臣たちに厳しく命じていた。戦の勝利が新たな民衆の支持を得るためのものでなければ、長期的な勝利には繋がらないと考えていた。
彼は全ての将兵に対しても礼を持って接し、彼らの士気をさらに高めた。
その後、楠木正成は住吉神社に馬三頭を献上し、戦勝を祈願し、翌日には、正季、雷蔵をはじめとする側近、十数名とともに、四天王寺を訪れ、太刀と鎧一領、さらに馬を奉納し、感謝を捧げた。
―聖徳太子の「未来記」―
四天王寺の本堂では、厳かな鐘の音が響き渡っていた。
香煙の中、祈願を終えた高僧が静かに歩み寄り、楠木正成に深く礼をした。
「この度の多大なるご奉納、誠にありがとうございます。感謝の念に堪えません」
正成は、品々を運び入れる兵士たちを振り返りながら、一礼した。
そして僧に向き直り、低く抑えた声で尋ねた。
「僧正殿、かねてより噂を耳にする。聖徳太子様が日本の未来を記した『未来記』という書物。四天王寺に秘蔵されていると聞き及ぶところですが、拝見することは叶いませぬかな?」
その言葉に僧は一瞬表情を硬くした。だがすぐに微笑みを取り戻し慎重に答えた。
「さすが正成様、よくご存じで。しかし『未来記』は、極めて秘匿すべき宝物。管主に確認せねばなりません。しばしお待ちを」
僧が奥へ下がると、正成は兵たちに視線を送った。
彼らは一糸乱れぬ態度で控えていたが、その目には緊張が走っていた。
やがて、僧が戻り管主の到着を告げた。
管主が現れたのはその数刻後だった。
彼は黒い法衣に身を包み、布に厳重に包まれた書物を両手で抱えていた。
その姿からは、重みある責務を背負う者の威厳が感じられた。
「楠木正成様。こちらが『未来記』でございます。ただしこの書物の内容は聖徳太子様のみがその真意を知るもの。我々はその解釈を控え、書物そのものを守るに留めております。どうぞご覧ください」
管主の手から慎重に書物を受け取ると、正成はその場に腰を下ろし書物を開いた。古びた書物は、数百年の時が経ってなお威厳に満ちていた。
正成の目が一文に留まる。
彼の呼吸が静かに変わり、低い声でつぶやいた。
「……この記述、まさしく……。」
緊張した空気が場を満たした。そして、彼はその文章を読み上げた。
「人王九十五代に当たりて、天下一たび乱れて主安からず。この時、東魚来たりて、四海を呑む。日、西天に没すること三百七十余箇日、西鳥来たりて、東魚を食す。その後、海内一に帰すること三年。獼猴のごとき者、天下を掠むること三十余年。大凶変じて一元に帰す」
その場に居合わせた兵たちは息を呑んだ。
正成は、その文章を指差し、呟くように言葉を続けた。
「『人王九十五代』は、すなわち後醍醐天皇に相違ない。『東魚』とは鎌倉幕府、『四海』はこの国だ。そして『日、西天に没する』とは、後醍醐天皇が隠岐に流されたことを指しておろう……。だが、ここを見よ。『西鳥来たりて、東魚を食す』これは幕府を討つ新たな勢力が現れるということだ!」
その声に、弟の正季が書物を覗き込み、顔を上げた。
「兄上、確かにこの記述が示しているのは、我らの戦いそのもの。聖徳太子様の予言に我らの軍が刻まれているも同然です」
その言葉に、側近たちの間から押し殺した歓声が漏れた。
やがて、この出来事はひそかに広まった。
『未来記』の存在とその内容を知った畿内の民は、やがてこう噂し始める。
「鎌倉幕府が倒れる日も近い……。聖徳太子様がそう予言していると……。」
正成が、後醍醐天皇から綸旨を受ける際に、機転を利かせたにわか仕立ての計略が、功を奏し、今回、極めて大きな効果を発揮するに至った。
―「未来記」の真実と秘密―
天王寺の戦いの勝利に沸く楠木軍。
しかし、その熱狂に浸る間もなく、正成は、次なる作戦に意識を切り替えていた。
勝利は一時的なものでしかない。
この先、幕府との決戦が待ち受け、後醍醐天皇の救出こそが戦局を覆す鍵である
と、正成は確信していた。
薄暗い夜明け前、正成は河内の国に向かっていた。
河内の国に到着した正成は、まず、雷蔵を呼び伝えた
「雷蔵、この書状を毛利時親殿に届けてほしい。後醍醐天皇の救出には時親殿の知略が必要だ。これはこれからの戦いの全てを左右する作戦だ」
雷蔵はひざまずき、深々と頭を下げた。
「はい。直ちに。ところで、正成様……先日の四天王寺での『未来記』の一件について、いまだ気になることがあります。「人王95代」のところですが、後醍醐天皇は、第96代です。本当に後醍醐天皇のことを指しているのでしょうか」
正成は、淡々と冷静な口調で答えた。
「さすがだ、よく気が付いた。あれは間違いだ」
雷蔵が、納得したような表情で話を続けた。
「そうでしょう。聖徳太子様の記述に、わずかな
正成は、さらに表情を変えず話を続けた。
「違う、間違えたのは俺だ。あれを書いたときは何せ急いでいたが、後で気づいた」
雷蔵が、目を丸くし、驚いた様子で、確認をした。
「正成様が書いた。それは、どういうことですか」
「まさか、あの未来記は、全部、正成様の捏造なのですか」
正成は、さらに淡々と続けた。
「捏造ではない。「未来記」は、平家物語にも登場し、確かに存在している。今は、その書物の所在が不明だから、俺が、書いて差し上げただけだ。しかも、それを読んだ二条師基殿は、俺に文才があると褒めてくれた」
雷蔵は絶句し、言葉を探すようにしばらく沈黙した後、声を上げた。
「それをあっさりと明かされても、私としては、返答に困ります」
正成は余裕の笑みを浮かべ続けた。
「『
雷蔵は、苦笑いを浮かべ答えた。
「とにかくこんなことが人に知れたら、我ら一族は世間から袋叩きです。戦どころではなくなります。私は、この話、聞かなかったことにいたします」
「確かに、正成様がおっしゃるように、素晴らしい戦略と言えば、その通りですが……。しかし大胆不敵すぎる行動です……。」
さらに正成は淡々と話を続けた。
「いずれにしても、我々が勝てば、末代まで未来記は本物として語られれ、負ければ聖徳太子様の名に傷がつかないよう未来記はそもそも存在しないということになる。雷蔵、後は自然の成り行きに任すのが一番平和だな」
「それが肝要かと存じます」
雷蔵は、一言付け加えた。
間もなく、雷蔵は、時親のところに向かうため去っていった。
以降、二人の間での「未来記」の話は、これが最後となった。
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