第十四話 城奪還
―下赤坂城の奪還―
元弘二年(1332年)の春、河内の国の山々に強風が吹き抜ける中、楠木正成は、下赤坂城を見下ろしていた。
かつて自らが守っていた城が、今は幕府側の湯浅宗藤によって占拠され、支配下に置かれていた。正成にとって、この城を取り戻すことは単なる戦略的な目標ではなく、名誉と意地をかけた戦いでもあった。
「下赤坂城は我々の拠点だ。この城を奪還せねば、倒幕への道は遠のく」
正成は家臣たちにそう語りかけ、静かに作戦を練り始めた。
正攻法で城を攻め落とすのは難しい。
城内には多数の兵士がいる上、物資の供給が続いている限り、敵は籠城戦にも耐えることができるだろう。
だが正成はその状況に風穴を開ける機会をつかんだ。敵が兵糧を運び込もうとしている情報を忍が聞きつけた。
「これは好機だ。敵の兵糧の運び込みを存分に利用する」
正成の目は鋭く光り、その策略が動き出した。
彼は湯浅宗藤が、人夫を動員し兵糧を運び込もうとしていることを突き止め、その輸送経路を逆手に取る計画を立てた。
夜の帳が降りると、正成は少数の精鋭を連れて動き出した。
下赤坂城へと続く山道で、敵の兵糧隊が姿を現すのを待ち伏せる。
夜陰に紛れ、敵の警戒が薄れるその時を狙って、彼らは一気に襲撃を開始した。
兵糧を守る兵士たちは突然の攻撃に混乱し、抵抗する間もなく捕らえられた。
「すぐに我々の兵に入れ替えろ。空になった俵には武器を詰め込め」
正成は冷静に指示を出し、兵糧に見せかけた武器を仕込んだ俵を運ばせた。
これで、城内に無血で侵入し、城を内側から制圧する計画が整った。
順調に城内へと進入することに成功した楠木軍の兵士たちは、城の中で合図を待ちながら城の奥深くに待機していた。
「準備は整ったか?」
と、正成が小さな声で問いかけた。
「すべて整っています。あとは合図のみです」
疾風が即座に答える。
「よし、合図が出たら一斉に動くぞ。気を緩めるな」
正成は周囲に目を光らせ、緊張感を高めた。
その時、城の外から合図が送られた。
楠木軍の兵士たちは手際よくあらかじめ用意していた大量の松明に火を灯した。
城内外の兵たちもそれに合わせて動き出し、またたく間に城を包囲した。
松明の光が夜の闇を切り裂き、城を囲むように光の帯が浮かび上がった。
「さあ、始まったぞ」
忍の
楠木軍の兵たちも声を合わせ城内に響き渡るように戦の開始を告げる。
「何事だ」城内の見張り番たちは突然の光景に驚き、慌てて城主、湯浅宗藤のもとに走ったが、時すでに遅しであった。
正成の忍たちが俵に隠していた武器を手にし、攻撃の構えに入った。
幕府軍は何が起こっているのか理解する間もなく、混乱に陥っていた。
「夜叉丸、準備はできているぞ」先に城内に潜入していた疾風が叫んだ。
彼は、混乱に乗じて城主、湯浅宗藤の身柄を確保し正成のもとへ連行する準備をしていた。
一方、夜叉丸は隠し持っていた
そこに、隼があらかじめ用意していた巨大な
「何だ!? 爆発だ。銅鑼の音だ……」
幕府の兵士たちは恐怖に駆られ、松明の光、爆発音、銅鑼の音に圧倒されていた。
彼らは何千もの敵軍が襲撃してきたと錯覚、混乱し指揮命令系統が崩れ始めた。
闇夜の空に微かな月明かりが漂う中、楠木軍の攻勢は最終段階に達していた。
混乱した湯浅宗藤の軍勢は陣を破られ、城内には混乱の渦が広がっていた。
その混乱を巧みに突いた一隊が、楠木正成の指揮の下、城主、湯浅を捕らえたのは、嵐のような混乱の只中であった。
正成の幕営に引き出された湯浅宗藤は、捕縛されていたが武士としての矜持を失っていなかった。
その顔に浮かぶ苦渋の表情は、敗北の悔しさを物語っていたが、彼は声を振り絞るようにして言った。
「家臣たちは、俺の判断に従ったまでだ。俺の首を差し出す覚悟はできている。だが家臣たちの命だけは助けてくれ。それが俺の最後の願いだ」
しかし、一方、捕らえられた家臣は命乞いどころか、最後まで、湯浅に従うという主君への忠誠を示して声を揃えていた。
「我々は、誰に仕えることもない野武士暮らしであったが、湯浅様が我々の力を認めてくれたおかげで、今は、それなりの暮らしができている。我らはその恩に報いる。ついて行くのは湯浅様ただ一人!」
その毅然たる態度に、正成は少しだけ眉を動かしたが、静かに言葉を紡いだ。
「湯浅殿、これではおぬしの望む通りに、家臣たちの命を保証するのは、難しいぞ」
湯浅宗藤が答えた。
「分かりました。それでは、私が彼らを説得します」
そして、湯浅は、家臣を前に話を始めた。
「よく聞け、これは俺からの最後の命令だ。今回俺は、目先に振り回され誤って幕府と手を組んでしまったが、日本の将来を考えれば、正成殿のように勇気を出し、悪政を続ける幕府にたいして、刃を向けるべきであった」
「今回は、正成殿の温情にて俺の首を差し出すことでお前たちの命は、保証することが約束された。この恩に報いるためにも、これから後醍醐天皇のもとで幕府と戦え、それこそが武士としての大義であり誉である」
湯浅の側近の一人が答えた。
「湯浅様、只今のお言葉、胸に刻みます。必ずや湯浅様の意思を果たすことをお約束いたします」
その側近の頬には涙が光り、その周りにいた家臣も同感し、全員涙を流し、同意を示した。
湯浅氏の説得により、彼の家臣は、進んで楠木軍の軍門に降った。
――やがてその部隊は、従来の楠木軍の部隊を超える強力な部隊となり次々と幕府軍を打ち破っていく強靭な部隊になる。
それは正成がこの部隊の能力を最大限に生かす指揮官を選んだからである。
指揮官に選ばれたのは、「湯浅宗藤」。
家臣の命と引き換えに躊躇なく自らの首を差し出した、その人物であった――
こうして、楠木軍は犠牲者を一人も出さずに下赤坂城を奪還し、その上、城を占拠していた強力な湯浅の部隊と当面の食料さえも手に入れた。
夜が明けると、城の至る所に楠木軍を象徴する「
「戦わずして勝つ……それが正成様の信念だ」
雷蔵は、城壁の上から城下を見下ろし、誇らしげに呟いた。
その言葉を受けて、正成は微笑みながら答えた。
「力でねじ伏せるだけが戦ではない。策を練り、相手を錯覚に陥れることが大切だ。この勝利は単なる始まりにすぎぬ」
楠木軍の勝利により、正成の名声は再び広がり、その勢力は増していった。
死んだはずの楠木正成が生き返り、強力な軍を従え、瞬く間に城を奪還したという知らせは、すぐに鎌倉へと伝わった。
鎌倉幕府は、この報に大きく動揺し、さらなる行動を余儀なくされることになる。だが、その時はまだ、誰も楠木正成の真の力を理解していなかった。
下赤坂城を取り戻した楠木正成は、その勢いを止めることなく、次々と周辺の要地を制圧していった。
正成の軍は精鋭揃いであり、奇策を用いた戦いで幾度も勝利を収めた。
特に、湯浅氏を降伏させたことは、大きな転機となり彼の勢力に勢いを与えた。
下赤坂城の奪還からわずか数週間で、楠木勢は河内と和泉を支配下に置いた。
これにより幕府に対する一大勢力として急速に成長した楠木軍は、次第にその存在を無視できないものとなった。
京では、正成の動向に対する警戒が高まっていた。
正成の軍が勢力を拡大し、京へ攻め込む可能性があるという報告が次々と届く。
これにより、京の町は不安に包まれ、人々は楠木軍の侵攻を恐れて騒ぎ始めた。
京の幕府勢力は、正成の勢力拡大を食い止めるために、ついに動き出した。
「このままでは、楠木正成が京を制圧するのも時間の問題だ。すぐに討伐の軍を送らねばならない」
と、六波羅探題の首脳たちは緊急に会議を開いた。
「奴は少数の兵であっても我らに大きな損害を与えてきた。油断はできない」
と、探題評定衆のひとりが焦燥感をにじませながら言った。
―渡辺橋―
「正成の軍勢は今や住吉・天王寺周辺にまで展開している。我らも五千の大軍の兵をもって進軍し、討ち果たすべきだ」
と、別の探題評定衆が力強く言い、討伐軍の編成が決定された。
こうして五千の兵の六波羅軍は京の都を発し、楠木正成の軍勢が目ざす渡部橋へと進軍していった。
一方、正成は既にその動きを察知していた。
彼は六波羅軍を迎え撃つべく渡辺橋に到着し、周到に準備を整えていた。
だが彼が取った戦術は、単に戦を仕掛けるものではなく、むしろ罠を用意し攻撃を仕掛ける大胆な策略であった。
「数で勝る敵を侮らせ、彼らを罠に引き込む」
と、正成は冷静に策を練り、家臣に指示を与えた。
「この橋の中腹あたり十尺の間、床板が外れるように細工をしろ」
十数名の大工が正成からの指示を受け、橋の中腹で移動し作業を始めた。
大工の作業が終了した後、正成は、渡辺橋からさらに南に三千の兵を密かに潜伏させ、渡辺橋の前面に、わずか三百の兵だけを配置して敵の六波羅軍を待ち構えた。
前衛には夜叉丸、隼、疾風の三人の忍を送り込み、あえて六波羅軍に油断を誘うような布陣を敷いていた。
翌朝、六波羅軍は渡辺橋の北側に到達し、橋の向こうにいるわずか三百の兵を見つけると相手を侮るような笑みを浮かべていた。
一方、六波羅軍の対岸から対峙する忍の夜叉丸、隼、疾風の三人は、突然、橋を渡り六波羅軍の目の前に接近したかと思うと、馬上から不敵な笑みを浮かべ、
「我ら三百の兵で貴様らを
と挑発しつつ矢を放って敵の注意を引き、その場から
「小癪な……あの者ども、我らを侮るとは!」
六波羅軍の指揮官は猛烈に怒りをみせ、
「追え、奴らを逃がすな!」
と大声で命じると、橋を渡って正成の兵を追撃するように命じた。
正成は冷静にその様子を見守っていた。
橋を渡り続ける六波羅軍を静かな瞳で観察し、彼らが渡りはじめるのを待った。
逃げる楠木軍三百が大きな辻に差し掛かった瞬間、六波羅軍が背後も警戒せずに、突き進むのを確認すると、密かに待機していた正成の三千の主力部隊が左右の両側から一気に姿を現し、六波羅軍を横から攻撃した。
「罠だ!」
六波羅軍の兵たちは動揺の声をあげたが、逃げ道を見つけられず、次々に討たれていった。
逃れようと橋へ戻ろうとした者たちも、後ろから続々と橋を渡ってくる兵士たちと狭い橋の上でぶつかり合い、混乱がさらに広がっていった。
橋の北側では、南側の事態を把握できず、いまだ六波羅軍五千の兵が次々と渡辺橋を渡り進軍を続けていた。
楠木正成はその瞬間を待っていた。
およそ半数の兵が橋を渡り切った頃、川沿いの丘から鋭い声を響かせた。
「今だ! 仕掛けを動かせ!」
用意された仕掛けが稼働し、橋の中腹が音を立てて崩れ落ちた。
足元を失った兵たちは、川の流れに次々と呑み込まれていく。
「さがれ、さがれ」
しかし、六波羅軍の進軍は、急には止められない。
後ろから続いてくる。
橋の上で、行き場を失った六波羅軍の兵たちは、次々に川へに転落し、さらに川の流れに呑み込まれていった。
橋の崩壊による混乱に巻き込まれ、五千の兵は、川を挟んで半分に分断されたが、
既に橋を渡っていた兵は、次々と三千の正成軍の兵から攻撃を受け、次々倒れていった。
さらに、川上から、船団が見え始めた。その先頭には、雷蔵の姿があった。
正成の要請に応じ伊賀を拠点に活動している二千の忍が、大和から船に乗り込み、大和川を経由して、渡辺橋に到着し始めていた。
「雷蔵、待っていたぞ」
忍を乗せた船団は、南側川岸に船を寄せ、そこから次々と忍が船から降り始めたが、岸へ上がってきたのは、
そこには、服部一族の忍もいたが、全くどこにも属さない一匹狼も多くいた。
彼らは、普段から二重、三重の間者(スパイ)を平然とこなし、日々死の淵を歩いている忍や、特定の住居をもつことを好まず自由に野山に住み、襲い掛かる熊や猪などを素手で捕獲するような野生生活をしている野武士なども多く含まれていた。
彼らが船から岸に降り立つと、周囲が殺伐とした空気に変わり、六波羅の兵に対し、野獣のように襲い掛かった。
六波羅の強者も、野獣のような彼らには、全く歯が立たない。
南側の川岸にいた六波羅の兵は、逃げ
北側の対岸で見ていた兵が、恐怖でざわつき始めた。
だが川の反対側で修羅場を見ていた兵にとっては、所詮「対岸の火事」であった。
しかし、このような南側の川岸の修羅場惨劇も終焉に近づいたころ、橋の周辺に、十数名の大工が現れ、破壊された橋の修繕を始めた。
北側の対岸で、それを見ていた六波羅軍は、最初は、なぜ修理をはじめたのかが、よくわからなかったが、途中から気づき始めた。
「修理が終われば、あの野獣どもがこちらに来るぞ!」
「ば、馬鹿な……!」
次の標的が自分たちだと悟った瞬間、北岸の兵たちは雪崩のように退却を始めた。指揮官がいくら叫ぼうと無駄だった。
もはや恐怖が六波羅軍を飲み込み、戦意は完全に崩壊していた。
正成の巧妙な戦術が見事に成功したその瞬間、戦場は一変して静寂に包まれた。
「正成様! 敵は総崩れです!」
家臣の一人が興奮気味に声を上げた。
正成は静かにうなずき、冷徹な眼差しで戦場の余韻を見つめていた。
正成は冷静に頷いた。
「これで終わりではない。我々は、まだ次の敵と対峙しなければならぬ」
と彼は家臣に告げ、勝利に浮かれることなく、次の戦いに備えた。
六波羅軍の敗北は、幕府にとって痛手だった。
残された者たちは命からがら京へ逃げ帰り、正成の名声はさらに高まった。
この勝利により、正成の軍勢は和泉、河内から摂津に至るまで勢力を拡大し、幕府に対する重大な脅威となったのである。
六波羅探題の首脳たちは、この敗北の報告を受け、再び京で会議を開いた。
「正成の戦術は、まるで鬼神の如し。今後、どうやって奴を討つのだ……」
と、ひとりが打ちひしがれたように言った。
「我々にはまだ兵力が十分ある。奴の策に乗らぬよう、今度は慎重に計画を立てねばならぬ」
と、別の探題評定衆が言い、再び討伐の策を練るべく討議を続けた。
こうして、楠木正成と幕府の戦いは次なる段階へと進んだ。
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