第5章 兵法
第十三話 情報戦
―再び伊賀の国へ―
楠木正成率いる楠木軍は、下赤坂城を去り、幕府軍の目を逃れつつ、急ぎ足で伊賀を目指していた……。
*
そして、道中、夜叉丸、隼、疾風の的確な判断により、幕府の追撃を一度も受けることなく、無事に伊賀へとたどり着いた。
伊賀の地に足を踏み入れた正成は、まず服部景盛の元へ向かい深々と頭を下げた。
「お久しぶりでございます。このたびは、我が軍に、力をお貸しいただき心より感謝申し上げます」
礼を述べる正成に、景盛は微笑みながら応じた。
「お前も大きく成長したな。今回は幕府を相手に、なかなか派手に演じたようだな。下赤坂城を渡し自ら戦死したように見せかけるとは見事だ」
正成はその言葉を謙虚に受け止め、再び礼を述べた。
「とんでもないことです。すべては景盛様からご教示いただいたおかげです。これまでのご指導に深く感謝しております」
その言葉に景盛は頷き、さらに力強く続けた。
「正成、兵のことは気にするな。次の出陣までこちらで丁重に預かる。お前は、自らの宿命を全うしろ。腐敗しきった幕府を打ち倒し、新しい世を築くことに全力を尽くすのだ」
景盛の重みのある言葉が、正成の心に響いた。
彼は再び深く頭を下げ、心の中で決意を新たにする。
正成は、伊賀の国で景盛の支援を受けながら、次々と重要な情報を入手し、戦略を練り上げていた。
幕府との決戦に備え、一族を守りつつ国を平和に導く模索していたのだ。
そんな折、京の都で潜伏していたあやめと鈴音が、急ぎ伊賀に戻ってきた。
―隠岐島へ流罪―
二人は、正成の前にひざまずき、緊迫した表情で報告を始めた。
「正成様、後醍醐天皇に関する重大な情報を入手しました」
あやめが口を開いた。
「笠置山での戦いで、天皇は敗北され幕府の手に落ちました。すぐに京の六波羅探題へ送られた後、平等院に幽閉され、そこで厳しい尋問を受けたと聞いています。幕府は天皇に対して、反乱の責任を追及しましたが、天皇は引かず、自らの信念を貫かれたそうです」
正成はあやめの話を静かに聞いていたが、その目には焦りが見え隠れしていた。
「帝は、どのような主張をされていたのか」と正成が尋ねる。
「鈴音が詳しく調べました。鈴音、続きを」
鈴音は一歩前に進み、低い声で話を始めた。
「帝は、幕府に対して『私の行動は、民衆を救うためのものである』と断言されました。幕府の支配が民を苦しめ、正義を歪めていると主張し、反乱は正義のための行動であったと主張されました」
正成はその言葉に心を揺さぶられた。
後醍醐天皇の信念と強い意志は、正成が抱えている葛藤と重なる部分があった。
民衆を救うために戦うのか、混乱を最小限に抑えるのか。彼は再び、自らの選択に葛藤を抱き始めた。
「その後、幕府はどう動いたのか」正成は再び質問した。
あやめは答えた。
「幕府は、しばらくの間、帝の処遇を決めかねていました。執権、北条高時は、帝をどう扱うべきか迷い多くの重臣たちと議論を重ねていたようですが、最終的に、天皇を隠岐島へ流罪にすることが決定されました」
「隠岐島に……」正成は低く呟いた。
「はい、遠く離れた地に幽閉されることで、帝の影響力を削ごうとしたのでしょう。幕府は天皇の支持者たちが反乱を起こすことを恐れています」
鈴音が続けて言った。
「しかし、帝はそのような仕打ちを受けながらも、決して屈することはなく、むしろ信念をさらに強められているようです」
あやめはそう言いながら、正成の顔をじっと見つめた。
「あと、執権、北条高時は、隠岐島の警備については、伯耆の国周辺を縄張りにしている水軍に加え、念のため幕府と関係の深い九鬼水軍にも警備を依頼したようです」
正成はしばらくの間、考え込んでいた。
後醍醐天皇の覚悟と信念を聞き、心中にある決意が再び揺らいでいた。
天皇を救うためには、幕府との正面衝突は避けられない。だが、その戦いがもたらす民衆の苦しみも、無視できない現実であった。
「このままでは、民衆が再び犠牲になる。しかし帝の意志を無視することもできない。どうすれば良いのか」
正成は自問自答するように呟いた。
あやめと鈴音は、正成の苦悩を察して静かに立ち尽くしていた。
しばらくの沈黙の後、正成はゆっくりと立ち上がった。
「あやめ、鈴音、情報をありがとう。答えが見えてきたようだ。後醍醐天皇の信念に従い民衆を守りながら幕府と戦う道を探る。それが我らの使命だ」
正成の瞳には再び力が宿り、彼の決意が固まったことを示していた。
「後醍醐天皇を見捨てることはできない。しかし大きな犠牲をともなう戦いは避けねばならぬ。我らが選ぶべき道はただ一つ。戦いを最小に抑えつつ、帝を救出し、民を救うことだ」
あやめと鈴音は、正成の決意を理解し、深く頭を下げた。
「私たちも全力で支援いたします、正成様」
鈴音が静かに言った。
正成は彼女たちに微笑みを返し力強く頷いた。
そして、新たな戦略を胸に、再び動き出す時が来たことを悟った。
――京への潜入活動を終え、伊賀に戻ってきたあやめは、その夜、久々に正成と二人きりで話す機会を得た。
―あやめの存在と葛藤―
正成は、満月の光に照らされた庭で、あやめの背中を見つめていた。
その背中には、これまで数々の戦いを共に乗り越えてきた誇りと同時に自身が抱える重い心の葛藤が映し出されているようだった。
「すまない……」
正成は、静かに口を開いた。
「あやめ、お前にどう顔を向けていいか、わからない。
俺はお前の気持ちを考えず、正室を迎え入れてしまった。
それがどれほどお前に苦しみを与えたかと思うと申し訳なくてならない。」
あやめは、その言葉に一瞬驚いたように見えたがすぐに落ち着きを取り戻し、振り返って正成を見つめた。彼女の瞳には、優しさと強さが同時に宿っていた。
「正成様……」
あやめは穏やかな声で応えた。
「確かに最初は戸惑いもしました。けれど私はあなたと共にここまで戦ってきました。そして何度もあなたを支えられたこと心から感謝しています。それが私にとって何よりの誇りです」
正成は、あやめの言葉に一層の感謝とともに、どう応えてよいか悩んでいた。
彼は彼女が自分に尽くしてきたことを深く理解していたが、その感謝の気持ちをどう表現すればよいのか、思いあぐねていた。
「俺は、どうすれば、お前のこの献身に応えることができるのだろうか」
正成の声はどこか弱々しく、迷いが感じられた。
しかし、あやめは微笑みながら、静かに首を横に振った。
「私の望みは一つです。これからも、私は何があっても、正成様を支えていきます。あなたがどんな困難に直面しても、私はあなたの傍にいます。それが私の決意であり、私の生きる意味です」
その言葉を聞いた正成の胸の内に、温かな感情が広がった。
あやめの強さ、揺るぎない信念、そして彼への深い愛情が、彼をさらに惹きつけていた。
「お前は……本当に強いな。俺など、到底追いつけないほどに」
正成は、自然と笑みを浮かべながら、あやめに向けて言った。
あやめは軽く頭を下げた。
「私は、正成様が進むべき道を照らすために存在します。それだけで十分です」
正成は、彼女の言葉に再び心を打たれた。
そして彼女がこれからも自分と共に歩んでくれることに、強い決意を持って前を向くことを誓った。
「ありがとう、あやめ。お前がいてくれる限り、どんな試練でも乗り越えられる」
正成は、彼女の手をそっと取り、誓うように言葉を口にした。
満月の光の下、二人の絆は一層強くなり、正成は、あやめの存在にさらに深い感情を抱くようになった。
―下赤坂城の湯浅宗藤―
一方、河内に残り、情報収集を続けていた雷蔵は、正成が復活した後の次なる戦いに向けて、広範囲にわたるしかも詳細な情報を集めていた。
河内から離れた伊賀の地、静まり返った夜の帳が下りた薄暗い灯火の下で、正成は思索にふけり、集められた情報を頭の中で整理していた。
そこへ、軽やかな足音が聞こえ、雷蔵が姿を現した。
彼は慎重に跪き、正成に向かって深々と頭を下げた。
「正成様、河内、和泉、摂津三国の状況、すべて把握しました。各地の支配体制と敵の動向についても調査を済ませました」
正成は静かにうなずき、鋭い目で雷蔵を見つめた。
「話してくれ、雷蔵」
「まず、下赤坂城ですが、幕府は、元々この地域の地頭であった
正成は眉をひそめた。
「湯浅宗藤か。奴は腕の立つ武将だが……」
楠木正成は雷蔵の報告を黙って聞き入っていた。
重い空気が漂う一室で、彼の表情には深い思索が浮かんでいる。
「河内、和泉、摂津の三国においても幕府は次第に影響力を強めています」
と雷蔵は続けた。
「特に河内では、湯浅宗藤の影響力が強大です。しかし、民衆の支持を完全に得ているわけではありません。今ならまだ、我らの声を彼らに届けることができましょう」
正成は腕を組み、しばらくの間沈黙を保っていた。
目の前の床をじっと見つめる彼の瞳には、戦略を練る冷静な光が宿っている。
「民の支持か……。戦を左右する鍵だ。よし我らが動くべき時は、今だ」
その言葉に、雷蔵は深々と頭を下げ、力強く応えた。
「正成様。準備は万端です。すぐに行動を開始いたします」
―服部雷蔵の交渉術―
その後、正成が、穏やかながらも鋭い声で問いかけた。
「ところで雷蔵、今日は、他に何か話したいことがありそうだな」
雷蔵は、少し驚いた表情を浮かべながらも、すぐに微笑んだ。
「さすが、正成様にはお見通しですね」
「お前と長く行動を共にしているお陰で、お前の人の心を読む術が少しずつ身についたようだ」
正成の口元が、わずかに緩んでいた。
雷蔵はその言葉に甘え、一呼吸置いて話し始めた。
「では、お言葉に甘えて……。先日、姉上とついに再会を果たされましたが、その後は、いかがでしょうか」
「正室も迎え入れられて、どうなることやらと、傍らで私も少々気を揉んでおりましたが、最近、何か心境に変化があったようにお見受けしますが」
正成は、思わず天井を見上げながら心中で「やはりその話か」と呟いたが、表情を引き締めて答えた。
「あやめには感謝している。ただひたすらにな。戦の準備にも力を尽くしてくれているし、私にとって大きな支えだ。それ以上でも以下でもない」
その返答を聞くと、雷蔵は独特の微笑みを浮かべ、うなずいた。
「そうでしょうとも。姉は芯の強い女性ですから、誰にも弱音を吐きません。おそらく、正成様の前でもその気丈さを崩すことはないでしょう」
「まるで見てきたようなことを言う奴。まあ、その通りだが」
正成は内心そう思いつつ、さらりと受け流すように言葉を続けた。
「だが、それも確かに一理あるかもしれない」
やや沈黙が続いた後、正成は話題を切り替え鋭い眼差しを雷蔵に向けた。
「しかし今、俺に課せられた責任は、下赤坂城の奪還だ。お前のその得意の心を読む力で、河内や和泉の豪族たちを説き伏せ、倒幕勢力を一つにまとめることはできないのか」と試しに命じてみた。
雷蔵はその言葉を受けると、意外にも笑顔を含ませつつ真剣な表情で姿勢を正し、膝をついて答えた。
「それでは早速、近隣の豪族たちから協力を得るべく動きます」
そう言い切ると、雷蔵は音もなく立ち上がり、風のように室の外へ消えた。
部屋には再び静寂が訪れる。
正成は立ち上がり遠くの闇夜に浮かぶ山々を眺めた。
翌朝、雷蔵は迅速に行動を起こし、河内や和泉の有力豪族たちのもとを訪れて交渉を重ねた。
彼の巧みな話術と相手の心を見抜く洞察力が功を奏して、数日後には各地の勢力を一つにまとめ倒幕一大勢力をつくり上げていた。
――その報告を受けた正成は、喜びを隠せない表情でにんまり口元を緩ませた。
そして静かに一人呟いた。
「討幕は、奴一人で十分ではないか」――
その後、正成は、引き続き、隼、疾風、夜叉丸をはじめとする忍を下赤坂城の周囲に潜入させ、幕府軍の動きを細かく監視させた。
敵の兵力配置や補給路、指揮系統の情報は、すべて正成のもとに集められ、着実に戦の準備が進んでいった。
数日が経ち、ついにすべての準備が整った。
正成は静かに立ち上がり、夜空を見上げた。
星明かりが微かに照らす空に、風の音が聞こえてくる。
その風がまるで、これから始まる大きな戦いを予感させているようだった。
「勝利の道は、この手で切り開く」
正成の力強い言葉を聞いた雷蔵は、その言葉を心に刻み込んだ。
戦の火蓋が切って落とされるのは、もう時間の問題であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます