第十二話 城の罠
―幕府軍の苦境―
幕府軍の本陣にて、金沢貞冬は苛立った様子で地図を睨んでいた。
「どうして、たかが急造の城がここまで抵抗できるのだ」
金沢貞冬は、部下に苛立ちをぶつけた。
部下たちは答えに窮し、ただ黙って彼の怒りが過ぎ去るのを待っていた。
金沢貞冬にとって、これほどの大軍を動員しながらも、数百の兵士しかいない城を落とせないという現状は、恥以外の何物でもなかった。
「楠木正成の戦術が、ここまで巧妙だとは」
彼は、静かに呟いた。
正成がただの反乱者ではないことは既に明白だった。
正成は兵力では敵わないことを理解し、その分、城の構造と地形を最大限に活かしている。
そして、それが幕府軍をここまで苦しめていた。
「金沢貞冬殿、次の策を講じる必要があるでしょう」
幕府軍の参謀である一人の武将が進み出て進言した。
「楠木正成は、数で我々に勝てぬことを知っており、そのため時間を稼ぎ、我々の士気を削ぐつもりです。ここで焦れば、我々の損失はさらに増大します。じっくりと彼を追い詰めるべきです」
金沢貞冬は、再び地図を睨みつけながら考えを巡らせていた。
彼はこれまでの戦いで学んだ教訓を活かし、次なる攻撃で確実に勝利を収めるための策を練っていた。
「正面からの攻撃は奴らの思う壺だ。側面からの攻撃を試みる」
金沢貞冬は、城の周囲の地形を再度確認し、側面から攻撃を仕掛ける新たな作戦を思案した。
下赤坂城の周囲は山と川に囲まれ、正面攻撃が難航するのは明らかだった。
だが金沢貞冬はその地形の複雑さを逆手に取り、敵を裏から打ち崩すことができると確信し始めていた。
「南の山道を利用すれば、城の背後に潜り込むことができる。その道は険しいが正面を引きつけることで背後の守備が手薄になるはずだ」
と、金沢貞冬は冷静に語った。
参謀たちは顔を見合わせ、同意の意を示した。
幕府軍は数に勝る。その強みを活かして正面からの攻撃を偽装し兵力の一部を背後から回り込ませるという二重作戦が展開されようとしていた。
「今度こそ、楠木正成を討つ」
と、金沢貞冬は力強く宣言し、軍を再び鼓舞した。
一方、下赤坂城では、楠木正成が新たな防御策を練っていた。一度の幕府軍の攻撃を退けたものの、彼は決して油断していなかった。敵は次にどのような手を打ってくるか、彼は常に先を見据えていた。
「敵は一時的に攻撃を止めたようだが、しかし、それは次の策を講じている証拠だ」
楠木正成は、冷静な声で側近たちに語りかけた。
城内の一角に広げられた地図には、南北の山々と東を流れる川が描かれている。
この自然の要害が、正成の頭脳と結びついて強固な防御線を形作ろうとしていた。
「幕府軍は正面からだけではなく側面や背後を突こうとしてくるだろう。それを読んで、我らが先手を打つ」
正成は、鋭い指で山道を示した。
「南の山道だ。険しい地形だ。守りが手薄だと睨んでいる。そこに罠を張り巡らせ、敵を迎え撃つ」
彼は冷静に側近に指示を出し、さらに疾風、夜叉丸、あやめ、の三人の忍を南の山の各地に配置した。
正成の狙いは明白だった。
「敵の策を逆手に取り、奴らをさらなる混乱に陥れる」
兵たちは、正成の言葉に奮い立ち、気を引き締めて戦いに備えた。
幕府軍は、金沢貞冬の指示のもと、再び行動を開始した。
表向きは正面攻撃を継続しつつ、南の山道に選ばれた精鋭部隊を派遣する作戦が進められていた。
険しい地形であるが、このルートが城の背後に通じると判断された。
「正面の攻撃で敵の注意を引きつけ、山道から背後を突く。これが成功すれば、楠木正成を討つことができるぞ」
幕府軍は下赤坂城を包囲し総攻撃を開始する。
正面からの攻撃に加え、山道を迂回し背後から攻めようとする幕府の部隊が静かに進行を始めた。
しかし、その山道には既に正成の巧妙な罠が張り巡らされていた。
険しい山道に誘い込まれた幕府軍は、突如として伏兵に襲われ混乱に陥る。
槍や弓の攻撃だけではない、忍たちの巧みな戦術がそこにはあった。
まず先手を打ち、疾風は俊敏な動きで山道の高所から一気に飛び降り、敵の指揮官を狙い撃ち、その場に混乱を広げた。
引き続き夜叉丸は、風のごとく敵陣に忍び込み無音で幕府軍の伝令を攻撃し、その後、影のごとく一人一人と、敵を討つ。
あやめは得意の剣術を駆使し幕府軍の兵士を次々と倒していく。
「見えざる軍勢」としての忍たちの活躍は、幕府軍をさらに混乱させた。
彼らの技と策略が織りなす攻撃は、まるで夜の闇が幕府軍を包み込むかのように、一切の逃げ場を奪った。
正面の戦場では、後醍醐天皇の皇子、護良親王が僧兵を率い、圧倒的存在感で戦いに加わっていた。
その護衛として隣に立つのは、正成の腹心とも言える二人の忍、隼と鈴音である。
彼らはただ護るだけではなく、戦場そのものを操るような働きを見せていた。
まず、隼が敵陣に切り込んだ。
彼の剣は風のように速く稲妻のように鋭い。
幕府軍の槍兵が襲いかかると、隼は一瞬の間合いを見極め、敵に一閃を加える。
兵士たちは攻撃を受け、その隙を縫って次の標的に飛びかかる。
「奴だ! あの兵を仕留めろ!」と怒号が上がるが、隼の素早い動きは兵たちの目を惑わせた。
彼は地を這うように滑り込み、敵の懐に入り込むと短刀で攻撃を与える。
その後、跳躍して背後の木々へ飛び去り、再び別の方向から現れる。
隼が敵を攻撃するその軌跡は美しいほど滑らかだった。
彼の動きに翻弄された幕府軍は次々と崩れていく。
時折、彼の放つ声が、敵兵たちの士気を打ち砕き、混乱に陥れるのだった。
一方、護良親王は、まるで戦いの神が乗り移ったかのように敵を撃破し続けた。
親王の動きは素早く、どこからともなく現れては槍を振りかざし一撃で敵を倒し、再び姿を消す。
その姿に楠木軍の兵たちは、まさに神々しい何かを感じずにはいられなかった。
彼の果敢な戦い方が示す皇子としての威厳と力は、正成が描く戦略の中でも重要な一端を担っていた。
そして、鈴音は護良親王のすぐ隣に控え、親王の動きを援護する。
細身の体を生かした身のこなしと鋭い目線で、親王を狙う敵兵を見つけては、次々と倒す。
彼女は剣を振り下ろし短い剣戟の音を響かせながら正確に攻撃を加える。
護良親王が槍を振るい敵兵を薙ぎ倒すその背後で、鈴音は迅速に動き回り、親王に迫り来る敵を排除していく。
「見事だ、鈴音殿」と護良親王が叫ぶ。
「親王様の御身、鈴音が全力でお守りいたします。どうぞご安心を」
と鈴音は、応えた。
親王と鈴音は、息の合った連携を見せ、敵の動きを予測し、協力しあいながら戦場を制圧していく姿は、楠木軍の兵たちの士気をさらに高めた。
山道での幕府軍の進軍は完全に阻止され、護良親王、疾風、夜叉丸、あやめ、隼、鈴音の奮闘により失敗に終わった。
数時間後、山道の戦場は静まり返り、幕府軍は甚大な被害を受けて退却を余儀なくされた。
―下赤坂城の落城―
その頃、幕府軍の陣営では不安と緊張が漂っていた。
長引く攻城戦に疲れと焦りを感じ始めていたのである。
しかし、幕府の将たちにも一つの望みがあった。
それは、下赤坂城の防御がどれほど巧妙であろうとも、飢えと渇きには勝てないであろうと考えはじめていたのである。
「もう間もなく食料と水が尽きるはずだ」
楠木正成がもう限界に達している、期待をしつつ、戦略を兵糧攻めに切り替えた。
そして十数日後、期待に応えるような、出来事が起きた。
夜が明ける直前、下赤坂城は、突如、炎に包まれはじめた。
赤い火柱が夜空を照らし、黒煙が渦巻いて天へと立ち昇った。
幕府軍の将兵たちは突然の異変に驚き、城に向かって駆け出した。
「城が燃えている、何事だ」
「楠木正成が降伏する気か」
そう叫びながら、彼らは城門へと突進した。
しかし、城門は閉ざされていた。燃えさかる城壁を前に、幕府軍の兵士たちは混乱し、動揺した。
燃え盛る城を前にして、敵兵は混乱し城内の状況を把握することができなかった。
―幕府の誤解と帰還―
下赤坂城が炎に包まれた翌日、幕府軍の陣営は静かに動き始めていた。
瓦礫と化した城の遺跡に足を踏み入れた将兵たちは、焼け焦げた城壁を見上げ、戦いの終わりを感じ取っていた。
彼らの胸中には、長きにわたる攻城戦を終えた安堵感が漂っていた。
「楠木正成は、ついにここで死んだのだな……」
幕府の総大将である金沢貞冬は、瓦礫の山を見つめながら静かに言葉を漏らした。
「これで、楠木の脅威も終わりだ。鎌倉に戻り、勝利の報告をしよう」
幕府軍は、長引く包囲戦で疲れ果てていた。
兵士たちの顔には疲労の色が濃く浮かび、戦いの終結に向けた希望が彼らの足を軽くしていた。金沢貞冬は将たちに鎌倉への帰還を命じ、その言葉はすぐさま兵たちにも伝わった。
幕府軍は下赤坂城での最後の検証を進めたが、焼け落ちた城内からは、特に目立った手がかりも得られなかった。
確認はおおよそ済み、もはや疑う余地はないと思われた。
「間違いないだろう。これほどの勇猛な武将でも餓えと渇きには勝てない。この戦で命を落とすことは避けられなかったのだ」
金沢貞冬を含めた幕府軍の上層部はこの結論に満足していた。
長い戦が終わり、これ以上の追跡や調査は必要ないという判断だった。
すでに鎌倉の本営は、早急に報告を待ちわびていた。
楠木正成という最大の脅威が消え去ったことを告げることは、幕府の統治を安定させる一大事だった。
翌日、幕府軍は下赤坂城の焼け跡を後にし、堂々と東国への帰路についた。
彼らの隊列は長く、戦勝の余韻を漂わせながら、疲労に覆われた兵士たちが互いに支え合いながら進んでいた。
「これで、乱世も終わるかもしれんな」
兵士の一人が小さく呟く。
長期にわたる戦の疲労が全身に染み渡っていた彼は、この勝利が幕府の安泰を意味するものと信じていた。
仲間もまた、勝利の確信とともに未来の安寧を夢見ていた。
だが、彼らが知らなかったのは、その「勝利」が全くの誤解に基づいているということだった。
下赤坂城内の確認を終え、幕府軍が城から撤退し始めた時、正成と雷蔵は、山の奥深くで静かに息を潜めていた。
彼らは、自ら下赤坂城を焼き払った後、計画通りに脱出を成功させ、幕府軍がその後どう動くかを密かに見極めていたのである。
「彼らは、我々が全員死んだと思っているだろうな」
正成は、冷静な口調でそう言った。
彼の目は鋭く、周囲を見渡しながら状況を把握していた。
彼の目的は城を守ることではなく、時間を稼ぐことだった。
そしてその目的は、見事に果たされたのだ。
「正成様、これからどうなさるおつもりですか」
雷蔵が問いかけた。
正成は静かに立ち上がり、遠くに霞む下赤坂城の方向を見つめた。
「鎌倉幕府を内側から崩壊させる」正成は、静かに呟いた。
――突然、下赤坂城は、焼失してしまった。いったい楠木軍に何が起きたのか。
楠木正成は、依然として力を残す鎌倉幕府を完全に打ち砕くため幕府を欺く大きな奇策に出たのである。
その奇策は、深夜に城を焼き払う前日の夜から、密かにはじめられた――
―下赤坂城焼失の舞台裏―
――ここからは、下赤坂城に火が放たれる前夜に、時を遡る。
月明かりが下赤坂城の石垣を照らし出す中、楠木正成は静かに佇んでいた。
戦の音は一瞬の静寂を迎えていたが、これは嵐の前の静けさであることを彼はよく理解していた。
下赤坂城を包囲する幕府軍の陣営からは、時折焚き火の煙が風に流れてくる。
その数、すでに万に達する大軍であることは、正成もよく把握していた。
城の防御は巧妙に計算された戦術によってここまで維持されてきた。
正成は城の構造と地形を最大限に活かして敵の攻撃をかわし続け、数に勝る幕府軍を相手にしても優位に立っていた。
しかし、正成にはわかっていた。この状況がいつまでも続かないことを。
正成は自らの胸中で思い返していた。下赤坂城は、急造の城であるがゆえに物資の蓄えも少なく、構造的にも長期の防衛には適していない。
とはいえ、正成は戦術の才をもってしてここまで幕府軍の猛攻を凌いできた。
狭い山城の地形を活かし、弓矢や大木、大石を巧みに使い、敵を疲弊させる一方で、少数の兵をもって巧妙な防御戦を繰り広げてきた。
しかし、兵士たちの顔には疲労の色が現れはじめている。
さらに兵糧攻めのため食糧も、長くは続かない。
「たとえこの戦いで勝利を収めても、鎌倉幕府へのダメージはさほど大きくはない」
正成は、有利な状況で、予め用意していた下赤坂城の最終計画を決断した。
「よし、次なる戦略だ」
正成は、忍を別室に迎え入れ、各々に対し指示をだした。
「今夜、この城に火を放ち兵は、伊賀へ逃れることにする。しかし我々は、次の新たな戦いに進む」
「まず、夜叉丸、隼、疾風は、この下赤坂城から伊賀へ脱出する安全なルートを選択して、無事に兵を伊賀まで誘導してほしい」
夜叉丸、隼、疾風の3名は、各々膝をつき「承知しました」と短く応じた。
「次に護良親王の御身については、しばらくは大覚寺統と関係が深い天野山金剛寺で匿ってもらうことにする」
「雷蔵、君は護良親王を無事に
雷蔵は無言で深く頭を下げた。
その態度は言葉よりも重く、正成に彼の覚悟が伝わった。
「そして、あやめ、鈴音、君たちには都に入って後醍醐天皇の安否を確認してもらいたい。情報を得るには君たちの能力が必要だ」
「都では常に危険が潜んでいる。互いに助け合い、無事に戻るように」
あやめと鈴音は、真剣な表情で「承知しました」と静かに答えた。
忍は、一旦、分かれて、次の行動をとるという戦略をとった。
正成は、各々に指示を出した後、すぐに兵を集め、力強く伝えた。
「これから城に火を放ち、幕府軍にこの城を奪わせ、我々は伊賀に逃れる。我々は生き延びる。そして、次の戦いのために力を蓄える。」
正成はそう言い放ち、決断の時が来たことを皆に告げた。
彼の言葉は静かだったが、その声には覚悟が宿っていた。
家臣たちは一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐに彼の意図を理解した。彼らは、この城に対して自ら火を放つという考えに戸惑いを覚えたが、正成の意思が揺らぐことはなかった。
彼の目的は、単なる一戦での勝利ではなく、この国全体を変えることだった。
だからこそ、今ここで命を捨てるのではなく未来のために生き延びる選択をした。
その深夜、静かに下赤坂城の四方に火が放たれた。
兵たちは正成の指示に従い、燃え広がる炎が城の全体を包み込むように仕向けた。
乾いた木材は瞬く間に火を噛み、黒い煙が夜空へと立ち上がっていく。
その煙の向こうに、幕府軍の兵たちが控えているのが見えた。
彼らは、何が起こっているのか理解できずただ遠くからその光景を見守っていた。
火が城の内部まで燃え広がる頃、正成とその部下たちは静かに城を後にした。
彼らは裏道を使い、幕府軍の目をかいくぐって脱出する手筈を整えていた。
正成の考えは、幕府軍が下赤坂城の炎に気を取られている隙に一人も犠牲を出さずに撤退することであった。
「この戦いはまだ終わっていない。我々は生き延び次なる戦の準備をする」
正成は自らの言葉を心の中で繰り返した。
自分がなすべきことは、ここで命を散らすことではなく、後醍醐天皇を中心とした新しい世を築くために、今できる最大限の行動を取ることだと確信していた。
下赤坂城を脱出した正成たちは、山中に身を隠しながら、次なる戦いの準備を進めていた。
彼にとって、この戦いは終わりではなく、新たな始まりだった。
後醍醐天皇のために幕府と戦うことが、彼の使命であり、その志は消えることなく彼の胸に宿り続けていた。
山中の隠れ家で、正成は再び剣を手に取った。
その瞳には、決して折れない強い意志が宿っていた。
幕府軍がどれほどの力を持とうとも、彼は諦めることなく、大義のために戦い続ける覚悟があった。
「次は、必ず幕府軍を追い込む。総力戦だ」
彼は静かに誓った。その言葉は、山の静寂の中に吸い込まれ、やがて夜明けの光が新たな一日を告げるとともに、彼とその一党は再び動き出した。
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