第7章 工作

第十七話 有力御家人

―風魔天幻丸の諜報活動―


 霧が立ち込める早朝、正成は、下赤坂城の石垣に静かに佇んでいた。

 空はまだ夜の名残を残し、かすかに藍色が広がっている。

 彼の視線は遠く、東国へと続く街道を見つめていた。

 木々の間から聞こえる風のざわめき、鳥の鳴き声そして朝露が葉を滑り落ちる音。 

 すべてが静寂を演出しながらも、正成の胸には焦燥と期待が入り混じっていた。


 時親とあやめが播磨の国の赤松円心と接触をしていた頃、下赤坂城の正成は、東国から戻ってくる風魔天幻丸を待っていた。


「天幻丸はまだか……」

 正成は心の中でつぶやいた。

 彼は確かな情報を持ち帰る天幻丸の帰還を待ち焦がれていた。

 しかし、天幻丸の諜報活動が困難を極めていることも、正成には分かっていた。

 幕府軍の目が光り、有力武将たちの動きが予測不可能な中で天幻丸の命がけの任務はまさに生死をかけたものであった。

「東国の動き次第では、我が国の命運が変わる……」


 天幻丸は、時には商人になりすまし、時には遊女を使い、また時には嘘の情報を流して敵を混乱させるなど、多様な手段を駆使してきた。

 さらに、有力武将の屋敷にも忍び込み、命がけで情報を盗み取ることもあった。

 その過程で多大な犠牲を払ったが、彼の努力は報われ、貴重な情報を数々得ることに成功した。苦難の末に得た情報は、戦局を大きく左右するものであった。


 その日の夕刻、ついに天幻丸は下赤坂城の門に現れた。

 疲労と緊張が混じる顔であったが、その眼光は鋭く使命を果たしたという満足感が漂っていた。

 彼を見た正成は深く息をつき、天幻丸の報告に耳を傾けた。


「尊氏は、すでに全国の守護大名を味方につけている。さらに、その味方の守護大名が尊氏を征夷大将軍にという模索をしている。ということか……」


「それでは、鎌倉幕府内部でが起こるということではないか。」

「執権、北条高時の立場も危ういな」

正成は、驚いた。


「さらに尊氏様が動けば、新田義貞も動きます」

 天幻丸が付け加えた。


 その情報は、幕府軍内部での不穏な動き、足利尊氏や新田義貞など有力武将たちの裏切りを示唆するものであった。

 尊氏と義貞の裏切りは、鎌倉幕府を内側から崩壊させていく可能性を秘めていた。 

 さらに、新田義貞が朝廷に寝返る動きが水面下で進行していることを確認した。

 この動きを知らないままであれば、正成と尊氏は、衝突していたかもしれない。

 正成は天幻丸からの報告を聞き、目を閉じて深く息をついた。


 天幻丸の手柄がいかに危険を伴うものであったか、そしてその情報の価値がいかに高いかを痛感したからである。

 時が迫っている。

 正成は心の中で戦局を練り直し、さらなる決断を迫られていた。

「戦いの主軸は、長期戦、籠城戦だ」

 天幻丸が命をかけて得た情報が、戦局を大きく左右することは間違いなかった。

 正成は、幕府との決戦が近いことを確信しつつ、ただ力で押し切るだけではなく、 

 時間をかけて相手の内部崩壊を待つという冷静な判断を下した。


 これからの戦いは、耐え抜くことに意味がある。

 正成の決断は、幕府の力を徐々に削ぎ、彼らの中に生まれた疑心暗鬼を活用して、やがて勝利を手にするという戦略であった。


 その後、正成と、天幻丸は、今後の戦いに向けた準備を進めた。


 彼らは密かに幕府の動きを探り、どのようにして先手を打つかを計画し始めた。

 正成は、天幻丸が持つ忍の知識に驚かされることが多かった。

 彼の動きは音もなく、まるで影のように周囲の環境に溶け込み、誰に気付かれることもなく敵の情報を盗み取る。彼のみがなせる究極の業であった。


「正成殿、我々は幕府の中にも目を持たねばなりません。内側から彼らの動きを知ることができれば、次の一手がより効果的になります」

 天幻丸の言葉に、正成は深く頷いた。


 確かに、内部からの情報は戦いにおいて非常に重要だ。

 外部からの攻撃だけではなく、内部からの混乱を引き起こすことができれば、敵はより脆弱になる。

「その通りだ、天幻丸。我々は、幕府の内部に協力者を見つける必要がある。誰かが内部から情報を流してくれるようにしなければならない」


「実は、その候補者が一人おります」

 天幻丸はその場で立ち止まり、正成を見つめた。

 その目には、確かな自信が感じられた。

「その名は、先ほども申し上げた人物、新田義貞です。幕府の中でも信頼されている武将ですが、幕府に強い不満を抱いている一人です」


「新田義貞は、笠置山の戦いの直後の下赤坂城の戦いにも、金沢貞冬とともに参加しておりましたが、病気を理由に、無断で東国、新田之荘に帰ったということです。

この一件は、義貞公が、幕府に対して、大きな不満を持っている確たる証拠です」

「しかも彼は、足利尊氏とは違い、実直で話が早いと思われます」

彼を我々の側に引き入れることができれば、大きな助けとなるでしょう。


「だが、天幻丸、どうやって彼を味方に引き入れるつもりだ?」

 正成の問いかけに、天幻丸は微かに笑みを浮かべた。


「義貞は幕府の圧力に悩まされており、その不満は、既に限界に達していますが、それを表に出せずにいます。そこを突いて彼に選択肢を与えるのです。未来永劫、幕府に従うか、それとも、新たな未来を選ぶか」

 正成は天幻丸の計画に納得し、彼の提案を受け入れることにした。


 彼らは密かに新田義貞に接触し、彼を味方に引き入れるための準備を進めた。

正成は、数日後、夜叉丸、隼、疾風、鈴音を率いて、天幻丸とともに、東国に向けて出発した。



―新田義貞の選択―



 数日後、正成と天幻丸は夜陰に乗じて新田義貞の居城へと忍び込んだ。

 義貞は夜遅くまで書類に目を通していたが、その表情には明らかな疲労と苛立ちが見えた。

 彼は幕府の命令に従う一方で、そのやり方に疑問を抱いていた。


「新田殿」

 突然の声に、義貞は驚いて振り返った。


 そこには、暗闇の中から現れた正成と天幻丸の姿があった。

 義宗はすぐに刀を抜こうとしたが、正成が手を上げて制した。


「落ち着いてください。我々は敵ではありません」

 正成の冷静な声に、義貞は戸惑いながらも刀を下ろした。

 彼は二人の正体を見極めようとしたが、正成の目には敵意が感じられなかった。


「私は楠木正成、こちらは風魔天幻丸。我々は幕府の圧政に立ち向かうために活動している者です」


 その言葉に、義貞は再び驚きを隠せなかった。

「あの楠木正成と風魔の者が、なぜここに」


 楠木正成の名は、幕府にとって厄介な存在であったが、しかし義貞はその名を聞くと同時に、この機会に、朝廷側の情報を得ることも悪くないと判断し、警戒を解かないまま、正成に問いかけた。

「何の用だ?」

 

 正成はその問いに対して、率直に答えた。

「新田殿、我々は、あなたに協力を求めに来ました。幕府の腐敗に対して、あなたも疑問を感じているはずです。我々と共に、新たな未来を切り開くために戦っていただきたい」

 正成の言葉には、強い信念が込められていた。


 義貞はその言葉を聞き、しばし沈黙した。彼は幕府の中で高い地位にありながら、その腐敗に対して内心で憤りを感じていた。

 だが、それを表に出すことはできず、常に葛藤を抱えていた。


「なぜ私のところへ……」


義貞の問いに、今度は天幻丸が答えた。

「下赤坂城での戦いの際、義貞殿は、幕府のやり方に対し愛想をつかして戦を離脱されましたが、新田殿の目には、正義への信念が残っています。幕府に従うだけではなく、この国の未来を考える心がある。帝はお待ちなされています」


「我々は、遠交近攻えんこうきんこうを展望しています。遠き国、新田殿と交わり、近き六波羅探題を攻め京を抑える。一方、新田殿は、遠き国、我々と交わり、鎌倉を攻める。敵を欺き確実に事を為すことができます。」

 いかがでしょうか。


 その言葉に、義貞は再び考え込んだ。

 彼の中で、幕府への忠誠心と天皇への忠義、正義への信念がぶつかり合った。

 しかし、最終的に彼は決断した。


「分かった。一旦、お前たちの申し出を受け入れることにしよう。ただし、最終判断は、まだだ」


 義貞の言葉に、正成と天幻丸は共に頷いた。

 こうして正成は、鎌倉有力御家人と同盟を築くための道筋をつくることができた。

 幕府の内部からも情報を得ることができ、次なる一手のための強力な味方を得た。


 その夜、正成と天幻丸は義貞の居城を後にし再び拠点へと戻っていった。

 正成はこれからの戦いに向けて、さらに準備を進める決意を固めていた

  *


 新田義貞との協力関係後も、正成と天幻丸、夜叉丸、隼、疾風、鈴音は、

 しばらく東国に留まり、さらに積極的な諜報活動を続けていたが、この潜入活動によって、ある重要な情報をつかんだ。

 近々、幕府高官が集まり評議がひらかれ、そこで重要な決定が行われるというもので、その評議には、鎌倉幕府第九代将軍の守邦親王もりくにしんのうが出席するというものである。

 そこで正成は、詳細な情報を知るために、新田義貞に再度接触を図った。


「楠木殿、天幻丸殿、お待ちしておりました」

 義貞が丁寧に迎えた。


「早速だが、近々、鎌倉において重要な評議が行われるようで、九代将軍の

守邦親王が出席も予定されてる。何か心当たりはないでしょうか」

 正成が、早速、切りだした。


「征夷大将軍を評議に出席させるということは、足利尊氏の正式な出兵を促す評議に違いない」

 義貞が答えた。

 新田義貞の見解を聞くと、これまで、足利尊氏は、後醍醐天皇が企てた討幕計画に対する朝廷への処分については、理由をつけて、中立のような姿勢を示してきたということである。

 このような尊氏のあいまいな姿勢に対して、執権、北條高塒としては、歯がゆく、しかも腹立たしくも思っていた。

 しかし、尊氏は、何といっても源氏嫡流、総大将であり、たとえ、時の執権であっても簡単に厳しい姿勢はとれない。

 幕府内の尊氏に対する人望の厚さは、圧倒的であるという事情があった。


 そこで尊氏を畿内に送り込むことで、この一連の後醍醐天皇の討幕計画そのもそのを一掃しようと目論んでいた高塒は、今度は、尊氏が拒否できないよう、征夷大将軍の命令とするための評議を思いついたということである。


「北条高時、独特の狡猾なやり方である。絶対に許さぬ」

 と義貞は、怒りを込めて呟いた。

 さらに正成は、質問を続けた。


「もう一つ伺いたいことは、尊氏公は、近いうちに後醍醐天皇に寝返るのではという噂もあるが、その真意は、いかかなものか、新田殿」


 義貞が少し硬い表情で答えた。

「これについては、彼の真意は、俺もなかなかつかめない」

「ただ足利家と新田家は、もともと祖は同じ、清和源氏の末裔、私と尊氏は、遠戚になる。しかも幼い頃からの親友でもあり、その気になればいつでも話ができる関係である」

「今は、彼と話すべきことが山ほどある、すぐに話をしよう」


「それでは、よろしくお願いします」

 正成は、義貞に丁寧に礼申し述べた後、義貞の居城を後にしたが、

 一方、新田義貞は、足利尊氏の居城へと向かい、尊氏と面談していた。



―義貞と尊氏の本音―



 久しぶりの再会に、二人の間には微妙な緊張が漂っていた。

「久しぶりだな、尊氏」

 義貞が静かに口を開いた。


「義貞か、久しいな」

 尊氏も穏やかに応じたが、表情はどこか険しい。


 義貞は少し身を乗り出し、声を潜めて言った。

「執権、高時が征夷大将軍である守邦親王の力を利用し、お前を畿内に出陣させようとしているようだが、その話は耳に入っているか?」


 尊氏は深く息をつきながら答えた。

「こちらにもその情報は入っている。しかし正直なところ俺も体調が思わしくない。父の貞氏も同じで、今すぐに出陣できる状態ではない。だが幕府から正式な命が下れば、そうも言っていられないのも確かだ」


 義貞は黙って頷き、少し間を置いてから再び口を開いた。

「後醍醐天皇が隠岐島に幽閉され、朝廷の権威も弱体化している今の状況なら、畿内を掌握することは難しくないだろう。ただし、問題は、この状態がいつまで続くかだ。この出陣、甘く見ない方がいい」


 尊氏の顔にわずかな疑念が浮かぶのを見て、義貞は続けた。

「お前には隠さず率直に言うが、後醍醐天皇は、既に地方の豪族たちの手によって、隠岐島からの救出計画が進んでいる」


 尊氏は驚きを隠せず、眉をひそめた。

「それは確かか?」


「確かだ。それだけではない。もう一つ、楠木正成だ。彼はただの武将ではない。実は、伊賀の服部氏と姻戚関係にあり、忍と密接なつながりがある。正成と彼らの動きに対処するのは簡単ではない」

「俺が下赤坂でみた正成の戦い方は、尋常ではない。一瞬にして数千の兵が倒された。しかもあの鬼の宇都宮公でさえも、先日、正成の手のひらで踊らされている」

「お前が幕府の命令を受けて畿内に出陣すれば朝敵となり、正成公の策略に嵌まり、足利軍は大損害を被る危険がある」


 尊氏は腕を組み、深く考え込むように俯いた。

「確かに、それは厄介だな」


 義貞はさらに言葉を続けた。

「俺も幕府の命を受ければ、出陣せざるを得ない立場だ。だが朝敵になり、命を落とすのは御免だ。だからこそ、俺も最悪の場合、『源氏の復権』を考える必要がある」


「源氏の復権……」

 尊氏はその言葉を繰り返し、苦笑いを浮かべた。

「なかなか血生ぐさい話だな」

 だが、俺に重要な情報を教えてくれたことには感謝する。とはいえ、武門に生まれた者として、幕府への忠誠を守るのは当然だ。その点、新田殿も同じ考えだろう」


 義貞は軽く頷いた。


 尊氏はじっと義貞を見据え、尋ねた。

「ただ一つだけ確認しておきたいことがある。後醍醐天皇の救出計画、畿内の動き、お前はどこからその情報を得ているのだ?」


「察しがいいな、その通りだ。数日前、楠木正成と会ったばかりだ」

 義貞の返答に、尊氏は少し驚いたがすぐに冷静さを取り戻した。

「正成が東国にいるとは……。だが、お前も最終決断はしていないだろう」


 義貞は微笑んだ。

「さすがだ、その通りだ。ただ今の状況からみて畿内への出陣は、かなり分が悪い。どちらにしても、我々は同じ清和源氏の一門。武門に生まれた者として結束は変わらない。決断を下す時が来たなら、俺はお前と共にいる」


 尊氏は義貞の言葉に深く考え込むように黙り込んだ。

 義貞はそのまま静かに立ち上がり、軽く一礼して居城を後にした。

 彼の背中には冷静さと覚悟が漂っていた。

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