第2章 故郷

第五話 河内国

―河内の国へ旅立ち―


 正成が伊賀の地を離れるその朝、山々を覆う霧が重く垂れ込み、空は鈍色の雲で覆われていた。

 冷たい空気が肌に触れるたび、正成の心にわずかな緊張が走った。

 少年として過ごしたこの山里を離れ、新たな戦いの地へと向かう決意を固めていたが、その胸にはまだ消えぬ迷いが残っていた。


「正成様……」


 あやめの静かな声が背後から響いた。

 彼女は霧の中から現れ、彼の前に立ち止まった。

 あやめは、幼少の頃から正成を支えてきた一人であり、忍としての技術を学ぶ仲間でもあった。

 だが、この瞬間、彼女の目にはいつもの冷静さではなく、深い感情が宿っていた。

 正成は一瞬目を閉じ、静かに息を吸い込んだ。


「お前に別れを告げるのは辛いが、俺は行かなければならない」


 その声は冷静だったがその奥には隠しきれない揺れがあった。

 あやめの存在が彼の心にどれほど大きな影響を与えていたか、正成は自分でも理解していた。

 しかし彼には果たすべき使命があった。

 楠木一族の長として、河内の国の民を安寧に導くこと、それが楠木家の後継者としての運命であった。

 あやめは彼の言葉を静かに受け止めていたが、その胸には激しい感情が渦巻いていた。声を震わせることなく、彼女は深く息を吐き出した。


「私は……。私は、正成様が無事であることを祈っています。それが私の唯一の願いです」


「ありがとう、あやめ。お前の言葉は俺にとって大きな支えだ」

 そう言いながら、正成は自分の中に芽生えた感情を封じ込めた。


 彼がこれから向かうのは、命を懸けた戦いの場であり感情に流される余裕はない。

 正成は最後に深く一礼をし、あやめの顔を一瞬見つめた。

 彼女の表情には、もう言葉はいらなかった。

 二人はそのまま、静かに離れていく。

 あやめはその場で立ち尽くし、彼が霧の中に消えていくのを見守った。


 そして正成は、最後に景盛のところへ挨拶に訪れた。


「これより河内へ戻ります。お蔭で武将として、この厳しい世を生き残る術を学ばせていただきました。景盛様には、心から感謝申し上げます」


 少し間をおいて、景盛は口を開いた。

「いやいや、私は、天命に従い、お前を育てたまでだ」

「お前に教えるべきことは、全て教えた。後は自らを律して精進を積めば奥義を習得する日も近い」

「最後に伝えたいことがある。私の三男の雷蔵が、長年お前を慕っており、お前とともに河内へ行き、尽力したいと申しておる」

「今の河内の国は、幕府と小競り合いを繰り返しており、不安定な状態でもある。私が言うの何だが、雷蔵の忍としての能力は、極めて高く、必ずお前の役に立つ。雷蔵をそなたに授けたい」


「景盛様、この御恩一生忘れません」

 正成は、雷蔵とともに河内へ向かった。

 

 伊賀を後にした正成は、河内の国へ向かう途中、やはりあやめのことを何度も思い出していた。

 彼女の優しい言葉、そして別れの時の辛い表情。

 それらは彼にとって、忍としての強さを支えるものであり、同時に人としての弱さでもあった。


「あやめ……。お前のことは忘れない。だが、俺には使命がある」

 正成は自分自身に言い聞かせるように呟き、新たな旅路へと歩み出した。

 


 と、その時突然、隣にいた雷蔵が、微笑みながら正成に話しかけた。

「先ほど、姉としばらく話し込んでおられたようですが」

「どうも私には、親密な関係に見えました。もしかしたら今も、頭の中は、姉のことでいっぱいではないですか」


 動揺する正成が、冷静を装い答えた。

「それは、全くのはずれだ。前から、言っているように何もない。忍なら、もっと人の心を読め。修行が足りぬぞ」と返答したものの。

 

―内心では雷蔵に自分の心が一瞬の隙を突かれ、全て読まれていることに、なすすべもないはずかしく惨めな思い、そしてもう一方で、彼の忍として底知れぬ能力に驚愕するという現実を噛み締めていた―


 正成は、この相反する二つの複雑な思いと現実を胸に、故郷に向けて旅立つこととなった。


 彼の物語は、ここからが本当の始まりである。

 歴史に名を刻む戦いと試練が彼を待っている。

 その名を語り継ぐ者たちによって、彼の伝説は永遠に続いていく。



―河内の国、家族との再会―



 河内の国にたどり着いた正成は、まず父である楠木正遠との再会を果たした。

 正遠は、楠木家の当主として地元の領地を守り続けていたが、鎌倉幕府の圧力が強まる中で苦境に立たされていた。

 正成が家に戻ったその日、正遠は厳しい表情で彼を迎え入れた。


「正成、よく戻ってきた。お前が無事で何よりだ」

 正遠はそう言いながらも、すぐに正成の顔をじっと見つめた。


 彼の目には、息子が成長し、ただの青年ではなくなったことを確信するかのような鋭さがあった。

 正成もまた、その眼差しに答えるように強い意志を込めた瞳で父を見返した。


「父上、ご心配をおかけしました。伊賀での修行を終え、今こそこの楠木家のために尽力いたします」

 正成は、まっすぐな言葉で父に誓った。

 

 彼の言葉には、伊賀での過酷な訓練を乗り越えた者としての自信と決意が込められていた。

 正遠はその言葉を聞いて、少し微笑みながらもうなずいた。


「そうか、頼もしくなったな。お前がいれば、この河内の国もまだ守り抜けるかもしれん」

 正遠はそう言いながら、正成の肩を軽く叩いた。


 正成は、その父の手の温かさを感じながら、家族を守るために全力を尽くす決意を新たにした。

 

 河内の国は、鎌倉幕府の直轄地として、その支配が強化されつつあった。

 幕府は地元の豪族たちに圧力をかけ、彼らの土地や財産を全て奪取し、支配しようと目論んでいた。

 正遠もまた、その圧力に抗いながら家族と領地を守り続けていたが、その状況は日々厳しさを増していた。

 

 正成が家族と再会した晩、正遠は彼を自室に呼び寄せ、二人だけの時間を作った。

 灯りがほのかに揺れる室内で、正遠は深刻な顔つきで口を開いた。

「正成、お前が戻ってきたことは本当に心強い。だが、我が楠木家は、徐々にだが、難しい状況を迎えつつある」


 正成は父の言葉に真剣に耳を傾けた。彼は、父が言おうとしていることが何であるかを感じ取っていた。

「鎌倉幕府が我々に対して厳しい措置を講じようとしているのですか」


正成の問いに、正遠は深くうなずいた。

「その通りだ」

「幕府は、我々の土地を奪い、河内の支配を完全に掌握しようとしている。既に何度か幕府の使者が訪れ、我々に従うように要求してきたが、私は断固として拒んでいる。今すぐではないが、いずれ彼らは、さらに強硬な手段を取るだろう」


 ―河内の国、そこは鎌倉幕府にとっては、統治が届かない場所の1つであった。

 古より、河内の国の人々にとって、日本統治の拠点は、京の都と大和であり、それを守るために武家があるという意識は今も変わりない―


「鎌倉幕府いかほどのものぞ」

 というのが河内の国庶民の意識であり、その筆頭が「悪党あくとう」楠木氏一族である。


 幕府は、このような河内の国の治外法権を認めないとしながらも、鎌倉から遠く離れた河内と大きな争いになるのを避けるため、放置をしてきた。

 しかしながら、今の鎌倉幕府の財政は、逼迫しており、毎年、税を上げなければ立ち行かない状態である。


 日本全国、庶民の生活は、年々苦しさを増し、幕府への不満は頂点に達している。幕府としては、何としてでも河内の国を掌握し、そこから大きな税をとりたてることで、財政再建を図り、少しでも庶民の不満を和らげたいというのが腹の内があった。

 

 正成は父の言葉を聞きながら、心の中で忍の道を選んだことを改めて自覚した。

 彼が学んだ忍の術は、ただの戦闘技術ではなく、戦局を覆すための知恵と策略を含んでいた。

 それが今こそ、家族と領地を守るために活かされる時であると感じた。


「父上、私は伊賀で学んだ忍の技を駆使して、この危機を乗り越える手段を見つけます。幕府の動きを封じ、楠木家の土地を守り抜くことを誓います」

 正成の言葉には、揺るぎない決意が込められていた。


 正遠はその決意を見て、息子の成長を改めて感じた。

「お前ならば、必ずやこの危機を乗り越えることができるだろう。だが正成よ、一つだけ言っておく。『忍の道』は厳しく、『戦の道』は孤独だ。お前が選んだその道を決して後悔することのないように」


 正遠の言葉に、正成は深くうなずいた。

 彼は、父の忠告を胸に刻み込みながらこれからの戦いに備える決意を新たにした。

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