第六話 政略婚
―幕府の密偵―
その夜、楠木正成は居宅で静かに過ごしていたがふと周囲に異様な気配を感じた。
何者かが近くにいると察知し、外へ出てみたがすでにその姿は見当たらなかった。
それでも正成の直感は、先ほどの気配が密偵のものだと確信させるものであった。
忍としての経験からくる鋭い勘であった。
*
翌朝、正成は長らく離れて暮らしていた弟・
「兄上、おかえりなさい。しばらくぶりですね」
正季が笑顔で出迎えた。
「すまなかった。長い間、兄として何もしてやれず、お前に全て任せきりだった」
正成は弟に対して深く頭を下げた。
正季は笑顔を崩さず、
「父上からも何度も伺っています。どうかお気になさらないでください。今は何よりも、兄上の力が頼りです」
と、兄への信頼をあらわにした。
正成は、ほっとした表情で、
「ありがたい言葉だ」と応えた。
だがすぐに表情を引き締め、話を続けた。
「実は昨晩、私の屋敷周辺で何者かが嗅ぎ回っていた。おそらく幕府の密偵だろう。
今夜、その者を捕らえて幕府の動きを探ろうと思う。少し力を貸してくれないか」
と続けた。
「お安い御用です。お任せください」
正季は軽快に答えた。
「もう一つ、紹介したい人物がいる。雷蔵、ここへ」
その呼び声に応じて、服部雷蔵が現れた。
「こちらは、服部雷蔵。伊賀の国、忍の長・服部景盛の三男で、忍びの技は伊賀でも屈指のものだ」
正成はゆっくりと紹介した。
「雷蔵殿、私は正成の弟、正季と申します。どうぞよろしく」
正季は親しげに挨拶した。
雷蔵も深々と頭を下げ、
「正季殿、こちらこそよろしくお願いします」と礼を返した。
「さて、私はこれより幕府の動きを探る任務に向かいますので失礼します」
雷蔵はそう告げると、まるで風のようにその姿を消した……。
*
その夜、正成は、警戒を強め居宅に隣接する林の中に潜んでいた。
彼の周囲は暗闇に包まれ、林の静寂が彼を取り囲んでいた。
正成はその中で、耳を澄まし、目を凝らしていた。
彼が探しているのは、幕府の密偵であった。
密偵らは村の情報を探り、幕府に報告するために派遣されていた。
「ここからが本番だ」
正成は心の中で呟いた。
彼は今までの訓練を思い出し、自分の能力を信じることにした。
忍としての技術、そして父から受け継いだ知恵。
それらが彼の最大の武器となる。
突然、正成は微かな足音を聞いた。
それはまるで風のように静かだったが、確かに彼の耳には届いた。
彼は息を潜め、その音の主を見極めようとした。
木々の影に隠れたその存在—それが密偵であることを正成は直感的に感じ取った。
「今だ……」
正成は静かに動き出した。
彼の体は風のように滑らかに動き、林の暗闇に溶け込んでいった。
密偵の背後に忍び寄りその姿を捉えた時、正成は一瞬の迷いもなく行動に移った。
彼は無音のまま、密偵の背後に立ち、その首筋に手をかけた。
「何者だ!」
密偵が驚きの声を上げる間もなく、正成は彼の口を押さえ、その体を倒した。
密偵は抵抗しようとしたが、正成の手は鉄のように硬く、彼を逃がさなかった。
「静かにしろ。お前の命を取るつもりはない」
正成は低い声で言った。
密偵は驚きと恐怖に目を見開き、正成の顔を見つめた。
「お前たちが何を企んでいるのかを話せ。それ次第で命は助ける」
正成の声には、冷酷な決意が込められていた。
密偵は一瞬のためらいを見せたが、次の瞬間、隠れていた仲間の密偵がいきなり姿を現し、正成に刀を振り上げ襲い掛かった。
正成は、身をかわした。
その瞬間、今度は、林に潜んでいた雷蔵が現れ、正成に襲い掛かった仲間の密偵を相手に切り込み、両者の争いが始まった。
さらに別の方向から三人目の密偵が現れ、再び正成に襲い掛かかる。
正成は、密偵の体をつかんでいるため、自由がきかない。
しかし待っていたかのように今度は、弟の正季が姿を現し、刀を振りかざし相手の急所を狙った。
密偵は、その刀をかわしたかと思うと、反撃に出て正季と太刀を交わした。
一方、雷蔵のほうは、相手にしている密偵を徐々に追い込んだかと思うと刀の峰で相手の溝落ちを攻撃し、倒れたところを捕縛した。
一瞬のことであった。
片や正季のほうは、力任せに自らの刀で相手の刀を跳ね飛ばした後、丸腰になった相手に拳で腹部に攻撃を入れ、捕縛をした。
正成は、捕縛した密偵三名を居宅へ連れて帰り、幕府の内情など知っていることをすべて吐かせた。
密偵は、六波羅探題の高官から密偵の命を受けていた。
そして幕府は近々、楠木一族を一掃しようと考え、その計画を進めるために六波羅探題に命じて密偵を放ち、弱点を探っていたということである。
*
夜が明け、太陽が東の空に昇り始めると、河内の山間にある楠木家の村は、いつものように静かで平和な朝を迎えていた。
しかし、楠木正成の心は落ち着かないままだった。
昨夜の出来事が頭を離れない。
幕府の密偵を追跡し、その動きを探ったが、そこから得た情報は決して安心できるものではなかった。
「正成、これからはさらに気を引き締める必要がある」
「幕府は、朝廷の出先として河内の国が連携をとることを警戒している」
朝食の後、父・正遠は、庭先で剣の手入れをしながら正成にそう告げた。
正遠はすでに何か重大な変化が起きつつあることを感じ取っていた。
正成もまた、父の言葉に深く頷いた。
「父上、昨夜の密偵は我々の動きを探るだけではなく、戦力を測ろうとしていたように思います。彼らが我々を警戒し始めたのは間違いありません」
「そうだ。鎌倉幕府は、その力を維持するためにあらゆる手を使ってくる。
だが、悪政を続ける幕府に対して、我々も負けるわけにはいかん。
お前にはこれから、さらに大きな使命が待っている」
正成は父の言葉に耳を傾けながら、次に何をすべきかを考え始めた。
幕府との対立が避けられない以上、こちらも準備を整え、先手を打つ必要があると考えた。
―楠木家の勢力拡大―
密偵の事件がおこった数日後、突然ではあったが、楠木正遠は、息子の正成に正室を迎えることを勧めた。
相手の名は、
河内の国の数多くの有力豪族と血縁姻戚関係をもつ名門豪族、南江家の娘である。
この結婚は、楠木家の河内における基盤を圧倒的なものにするための正遠の狙いが多分に含まれていた。
いわゆる政略婚である。
あやめのことが、気がかりであったが、楠木家の先々を心配する正遠からの勧めを断る理由もなく正成は、決断をした。
そして、数日後、正成の妹も、伊賀の忍の長、服部景盛の長男、
楠木家は、伊賀の最強武装組織と姻戚関係となった。
この二つの縁談を通じて、楠木家をとりまく状況は、わずか数日の間に大きく変化を遂げることになる。
その後、幕府の表立った動きというものは全くなくなり、一見、何事もなかったかのように、平和な日が訪れることとなった。
――後に、正成と正室の久子の間には、長男を授かる。名は楠木正行。
正行は幼い頃から父の背中を見て育ち、やがてその名を広く知られることになる。
楠木家の新たな世代が着実に育ち、一時的ではあるが、この間、正成は、平穏な日々を得ていた。
そして楠木正成の妹と服部元成との間にも、後々、子が生まれる。
その子の名は「
彼は、後に日本が世界に誇る芸術文化、「能」の源流を築くことになる。
彼が作り上げた芸術は、七百年後の今もなお日本文化の中心に位置し、観阿弥の名も不朽のものとなっている。
正遠の勢力拡大策の一手が、日本の芸術と文化にも多大な貢献を果たすことになるとは、正遠本人を含め、当時、誰も予想していなかったことである――
いずれにしても、正遠の婚姻による勢力拡大策は、見事に功を奏したと言える。
河内の豪族を固め、最強武装集団を味方に入れた楠木氏を相手に、幕府は、当面、戦うことを見送る判断をした。
正遠の政治戦略は、わずか一手で形勢を逆転した名人の将棋の手をみるかのようであった。
その後、平穏な日々は、数年にわたり続いたが、しかし、運命は、正成に対して、平和な日常を長くは、与えなかった。
ある日、畿内で諜報活動を続けていた雷蔵からある重要な情報が入った。
大覚寺統の後醍醐天皇が密かに倒幕を計画していたが、事前に幕府に企てが漏れ、幕府執権、北条高塒に大軍を率いて京の都を攻められ、全てが失敗に終わったという情報である。
首謀者とされる
そして後醍醐天皇の身にも危機が迫ったが、後醍醐天皇の第三皇子である護良親王が機転をきかし、幕府に気付かれないように京と大和の国の境目にある笠置山に逃げ込ませたことで、一時的に危機を凌いだ。
しかし時間とともに、幕府は、後醍醐天皇の動向をつかみつつあるという、ただならぬ情報であった。
時は元亨四年(1324年)、
数日前に雷蔵からの報告が届いてからというもの、正成は胸中の不安を払拭できずにいた。
後醍醐天皇が笠置山に逃げ込んだことで、幕府は、その動向を鋭く監視しはじめている。
いつ朝廷と幕府の対立が激化してもおかしくない状況だった。
「幕府は既にこちらを見据えている……」
正成は独り言のように呟いた。
後醍醐天皇が討幕を企図していることは、楠木家にとっても無視できない事実だった。もし自分に天皇の命が下されれば、正成自身がその役目を果たすことを考えなくてはならい。
「しかし、鎌倉幕府の力は、いまだ健在である」
彼は同時に危機感も募らせていた。
楠木家の急激な勢力拡大は、幕府にとって脅威であった。
特に河内の国での正成の力は増すばかりで、幕府もこのまま放置しておくことはないはずだ。
「幕府が動くとすれば、今がその時だ……」
その予感は現実のものとなった。
六波羅探題評定衆、
楠木家に対する攻撃が始まるのは時間の問題であった。
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