第1章 忍

第三話 忍の国

―忍の国での幼少期―


 鎌倉時代の終焉が迫る中、伊賀の国の深い山奥にある忍びの里で一人の少年が密やかに育てられていた。彼の名は楠木正成くすのきまさしげ

 後に日本の歴史にその名を刻むこととなる彼は、実は幼少時代、真言密教の寺院、観心寺で仏法を学んだ後、密かに忍の国、伊賀に入り忍の修行した者であり、幼少期は誰にも知られていない。


 正成の父、楠木正遠くすのきまさとうは河内の国に根を張る地方豪族であり力強い指導者であった。

 彼は大阪湾に繋がる大和川の水運を掌握し、商業の要となる海運事業を築き上げていた。しかし、正遠の真の力はその裏側にあった。

 彼は表向きは豪族としての顔を持ちながら、裏では忍の集団を組織し、諜報活動や軍事行動を通じて河内の国全体を掌握する忍集団「悪党あくとう」のおさでもあった。


 正成には、忍としての技術と忍集団を受け継ぐ宿命があった。

 彼がこの世に生を受けた時から、彼の未来は既に決まっていた。


 楠木家は、伊賀の服部(上嶋)家と長年にわたる深い関係を持っていた。両家は血族以上の絆で結ばれ、互いに力を合わせてその領地を守り、発展させてきた。

 正成は、一族の未来を背負う存在であり、その責任が彼を鍛える力となっていた。

 

 彼は、忍の里である伊賀の山々に囲まれた隠れ里で少年期を過ごしていた。

 伊賀の地は霧に包まれ、外界から隔絶された神秘的な場所であり、そこでの生活は厳しくも、深い絆に満ちたものであった。



―伊賀の国での厳しい訓練―



 楠木正成の少年時代は過酷な修行の日々であった。剣術や体術、隠密行動、そして諜報活動。彼の毎日はこれらの訓練に捧げられ、一瞬たりとも気を抜くことは許されなかった。

 正成の師匠は服部(上嶋)景盛かげもりという冷徹な男で、楠木家を背負う宿命の正成に対しては、特別の訓練を用意し、肉体的にも精神的にも常に危険を伴う訓練を与えた。


「正成、お前の積み上げてきた修行の成果をここで見せてみろ」

 そう言い放った景盛は、微かな笑みさえ見せずに、後ろに控える忍たちに目配せをし、周辺に罠を設置させ、さらに忍を待機させた。。


 その日の訓練は、特に厳しいものがあった。

 正成が踏み込む小径には足元を滑らせるぬかるみが用意され、木々には石が落ちてくる巧妙な仕掛け、さらに茂みの奥には、景盛自身が操る弓が潜み、油断すれば鏑矢かぶらやが放たれる。


「なぜ、ここまで厳しい訓練を課すのでしょうか」

 忍の一人が景盛に小声で問いかけた。

 だが景盛は厳然とした表情を崩さず答える。

「この男には、楠木家の未来がかかっている。この程度の罠もしのげないようであれば、楠木家一族のおさとなる資格はない。」


 一方、森の中を進む正成の目は、鋭い光を放っていた。

 手に握った小刀を片手で回しながら、何気ない茂みに視線を走らせる。

 微かな風の揺れ方から、人の気配がする場所を読み取る。

 その瞬間、正成の背後から鏑矢かぶらやが飛び出した。

 正成は気配を感じるやいなや身を低くして前転し、鏑矢は正成の頭上をかすめた。


「ここか……!」

 正成は小声でつぶやき、わざと音を立てるように足元の枝を踏み折った。

 すると、先ほどまで沈黙していた忍が次々と茂みから現れ小刀を手に襲いかかる。  

 だが、正成はその瞬間を読んでいたかのように、手に持った小刀で刃を受け止め、一人、また一人と力強く相手を突き飛ばしては、攻撃を加えていく。


「まだまだ、その程度では敵を倒せぬぞ」景盛の声が、どこからともなく響いた。

 正成は声の方向に振り返りながらも、慎重に距離を取る。


 森を抜ける頃、正成の額には汗がにじみ、体は、小さな傷でぼろぼろだった。 

 だが、景盛の前に戻ってきた彼の目には、炎のような闘志が宿っていた。


 景盛はわずかに口元を緩め、呟いた。

「よくできた。だが訓練は、まだまだ続くぞ」


 その言葉に、正成は一切の不満を漏らさず、目を閉じて静かに頷いた。

 この非情な訓練の裏には、景盛の隠された信念があった。

 正成を「英雄」にするための決意が――。


 正成はこのような厳しい訓練の中で、忍としての技術を習得していった。

 限界を超えるたびに、正成は自らの強さを知り、失敗から学び続けた。

 その結果、彼の体は鋼のように鍛えられ、心は冷静でありながら強靭なものとなっていった。


「考えるな感じろ、心を解き放ち大地と一つになれ」


 景盛の声が、正成の耳元に響く。

 彼はその教えを胸に刻み、静かに夜を進む。

 

 彼の中には強い意志が芽生え、自分の役割と使命を理解するようになっていった。 

 楠木家の後継者として、単なる戦士ではなく、軍略家、忍のリーダーとなる運命にあった。

 彼の日々は、影の如く静かに、しかし確実に進んでいった。



―あやめとの出会いと禁じられた恋愛―



 そんなある日、正成は山中での訓練中に、奇妙な感覚に襲われた。何者かが自分を見つめているような、そんな気配を感じたのである。

 彼は瞬時に身構え、周囲を警戒したが、姿を見せたのは予期せぬ者だった。

 

 それは、あやめという名の美しい少女で、彼と同じく服部一族に属するくノ一であり、景盛の長女であった。あやめは正成より少し年上で、その瞳には何か秘めた力が宿っているように感じられた。

 彼女は剣術においても優れており、そのしなやかな動きと鋭い洞察力は正成を魅了していった。

 二人は次第に親しくなり、訓練が終わると共に山中を散策する日々が続いた。

 

 しかし、忍の世界では、恋愛は厳禁である。忍とは感情を捨て任務を遂行するための存在であり、愛や情などというものはその存在にとって致命的な弱点となり得る。  

 あやめもまた、その掟をよく理解しており、正成に対して距離を保とうと努めた。 

 しかし、心は裏腹に、彼女もまた正成に強く惹かれていった。



―過酷な訓練の日々―



 正成の師である服部景盛は、今日も霧に包まれた山中で正成を訓練していた。

 その日は特に剣術の訓練が行われ、木刀をかまえ、足場を確かめるようにゆっくりと移動する正成を目にすると、景盛は、鋭く指摘した。


「正成、まだ動きが遅い。もしこれが本番ならば、すでに命はないぞ」

 言葉に鋭さはあったが、その背後には弟子を一流の武将に鍛え上げようとする厳格な愛情が滲んでいた。 


 正成は、悔しさに拳を握りしめ汗の滲む顔を振り払う。

 景盛の前では、些細な迷いが命取りだ。

 この数年間、彼は忍術と兵法のすべてを師から学び取るべく、全力を注いできたが景盛という存在は依然として高い壁だった。


 景盛がふいに構えを解き、再度姿勢を整えるよう促した。

 正成も汗にぬれた額をぬぐい、深い息をついてから剣を握り直す。

 そして、互いに目を見合わせた瞬間、景盛が鋭く声を放った。


「今度こそ倒してみろ」

 その声は挑発ではなく、静かに燃え上がる炎のようだった。

 

 楠木正成の胸に深く響き、彼の闘志をさらに掻き立てる。

 汗ばむ手で木刀を握り直し、一瞬、深呼吸が入る。

 次の瞬間、彼は大地を蹴り、疾風の如く景盛へ突進した。


 木刀が宙を裂き、鋭い音を立てる。

 その一撃は正成が山中で鍛え抜いた力と技の全てを注ぎ込んだものであった。

 しかし景盛は揺るぎない静けさを保ち、鋭い目でその剣筋を見極めると、ふわりと身を引いた。

 そして最小限の動きで木刀を滑らせる。

 その所作は流れる水のように無駄がなく、美しかった。


「まだ甘いぞ」

 景盛の木刀が一閃を放つ。

 

 鋭く繰り出されたその斬撃は、正成の眉間を正確に狙っていた。

 瞬間、正成は反射的に身を沈め、刃先が髪をかすめるのを感じた。

 危機一髪であった。

 しかし、その動きは彼の次の一手を導いた。


 正成は景盛の動きの一瞬の隙を捉え、鋭い突きを放った。

 目標は師の腹部……。

 鋭さと速さを兼ね備えた一撃だったが、景盛はまるで時が止まったかのような落ち着きで、体をわずかに捻り、その攻撃をかわした。


「まだまだだ」

 景盛の声が響く。

 

 だが正成はひるまない。

 ここで退けば、積み上げてきた自らの進化を示すことができない。

 正成の剣は次々と連撃れんげきを紡ぎ出し、木々のざわめきをかき消すほどの勢いで景盛を追い詰めていく。景盛も正成の連撃をかわし、激しい攻防はさらに続く……。


 その一つ一つの動きが、山中で磨いた忍の術の結晶だった。

 そしてついに、正成の剣先が景盛の脇腹を捉えた。

 わずかな手応え、しかし確かな一撃。


「……!」

 景盛が一瞬息を呑む。

 

 動きが止まり、場を静寂が包み込む。

 二人の間にただ、互いの息遣いだけが聞こえる。


「入ったか……!」

 その場に立ち尽くす正成。

 荒い息を整えながら、手に伝わる確かな手応えを感じていた。


 一方、景盛は息を吐き深く頷く。その顔には予想を超えた弟子の成長を喜ぶ表情が浮かんでいた。


「よし、その執念、見事だ」

 と景盛が静かに口を開いた。

「まさかここまで腕を上げているとは……」

 

 その言葉に、正成の胸が熱くなった。

 長年、憧れであり目標であった景盛からの初めての褒め言葉であった。

 正成は、軽く頭を下げ、尊敬の念を込めて景盛を見つめた。


「ありがとうございます、師匠。これからも精進いたします」

 二人は再び構えを解き、深い霧の中に立ち尽くした。


 その日を境に、正成は己の忍術と剣術にさらに磨きをかけ、やがて歴史にその名を残す英雄としての一歩を踏み出していくのであった。


   *


 訓練が終わった後、正成はいつものように山中を歩いていた。疲れた体を癒やすため、静かな場所を探していた。その時、背後から声が聞こえてきた。


「正成様、今日はなかなかの動きでしたね」

 振り返ると、そこにはあやめが立っていた。


 彼女の瞳は笑顔を浮かべ、彼の疲れた姿を見つめていた。


「あやめ……お前もここに来ていたのか」

 正成は驚きと共に、微笑んだ。


「はい、師匠が厳しい訓練をつけておられるのを見ていました。まるで山の中の虎のように凛々しく、そして素早い動きでした」


 あやめは優しい声で話しながら、彼の横に並んだ。


「それは師匠のおかげだ。俺はまだまだ未熟だがもっと強くならなければならない」 

 正成は謙虚に言った。


「あやめ、お前も訓練をしているのか。剣術もなかなかのものだと聞いている」

 正成は続けて尋ねた。


「ええ、私も日々精進しています。師匠からも多くのことを学んでいます。忍の道は厳しいですが、私も強くなりたいと思っています」

 あやめは少し照れくさそうに言った。


「お互い、忍としての道を歩んでいるんだな」

 正成は彼女の横顔を見ながら、深く頷いた。


 山中を散策していた二人はふとした瞬間にお互いの距離が縮まり、正成はその距離を意識し始めた。


「あやめ、お前とこうして話すのは心地いい。だが……」

 正成は言葉を続けるのをためらった。


「私も同じ気持ちです。でも、私たちは忍。感情に流されることは許されません」

 あやめもまた、心の中で葛藤していることを正成に打ち明けた。


「わかっている。俺たちは任務を遂行するための存在だ。だが、こうしてお前と話していると、それを忘れてしまいそうになる……」

 正成は苦しそうに言葉を吐き出した。


「正成様、どうかお気を強く持ってください。私たちは、互いに支え合いながらも、自分の道を見失わないようにしなければなりません」


「さらに明日からは、服部一族は『』への潜入のお役目をいただいています。敵味方入り乱れての厳しい日々が続きます。正成様も油断なさらず御身と命を大切にしてください」

 とあやめは付け加えた。


 あやめの声は優しかったが、その中に決意が込められていた。


「あやめ。お前の言う通りだ。俺たちは、感情に溺れるわけにはいかない」

 正成は彼女の言葉に励まされ、明日からの「京の都」への潜入に向けて、再び心を引き締めた。

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