3.脱出

 ――鈍い音が耳骨に響き渡った。

 後頭部に激しい衝撃を受けて、視界に映る世界が歪に曲がる。殴られた、と理解するのに時間はかからなかった。自分の倒れる衝撃と、テーブルの揺れる音。

 身体から力が抜けていく。リビングの床には赤いものが飛び散っている。瞼が酷く重くて顔が上げられない。

「あ、アンタぁ! なんて事をするんだい……!」

 戸惑ったような母の声に応じたのは、少し甲高い男の声だった。

「もういいんだ、良恵。全部俺に任せておけ」

 ずいぶんと親しげだ。友達か……?

 朦朧とした意識のまま考えていると、男はささやくようにこう言った。

「俺たちのこれからの生活のために、今ここでこいつを処分するんだ。俺はお前と、ずっと一緒に暮らしたい」

「えっ……アンタ……そんなにアタシと……?」

 ときめきが入り混じった母の声に耳を疑う。おい、何やってんだよこんな時に。

「そうだ、良惠。俺はお前を愛してる」

「アンタぁ!」

 人がぶっ倒れている時にロマンス始めてんじゃねぇよ。というかこの男、良惠の彼氏なのか? そんな奴がいるなんて、聞いてなかった。

 頭の痛みが薄れて、胸の奥がすーっと冷たくなっていく。音さえも消えていく。考えたくないけど、考えなきゃダメだ。母は、彼氏を家に連れて来て、俺を……。

 俺が出ていくと言ったから……? いや、おかしいだろ、そんなの。問いただしたいけどそれもできない。唇が微かに動いたけれど、言葉は出てこなかった。

 意識が……嫌だ、こんな……最後なんて……――。

「――すみません、双牙君! いますか?」

 突然の大きな声に、心臓が勢いよく跳ねた。血液の巡りを全身で感じる。意識を途切らせまいと、足を動かそうとする。

 フォンロンの声だ。どこから? スマホか? それとも……。

「……フォン、ろ……」

 友の名前を呼ぼうとすると、腹部に強い痛みが走った。蹴られたんだと理解する前に、母の声が耳に響く。

「双牙。アンタはアタシの犬なんだよ。犬は言う事を聞くもんだ、このバカ犬が」

 彼女は低く呟いた。今、俺の腹を蹴ったのはあの男じゃない。母だ。

 ――くそっ、こんな所で気絶してたまるか……!

 何とか立ち上がると同時に、「聞こえていますか、双牙君!」という声が玄関から届いた。フォンロンだ。どうしてかは分からないが、家にまで来てくれているんだ。

 そう考えると気力が湧いてきた。ふらつく頭を押さえると、ぬるりとした感触があった。男の姿はどこにもなく、母を見ると、彼女は憤怒の形相を浮かべながら歯を食いしばっている。


「アンタのお仲間かい? はっ、犬が外で友達なんて作ってんじゃないよ。アンタはいいねぇ、親の金で楽しく遊んでてさ。アタシなんて、いつも一人で……寂しくて……」

 いやいや、アンタさっきまで仲間と宴会してたじゃねえか、彼氏もいるみたいだし。それに犬って何だよ。そう考えていると、「この、犬……犬、犬が、犬畜生がぁ!」と叫びだし、俺は思わず後退りした。

 犬ってまさか……俺のことか?

 ひゅん、と空気を切る音が聞こえる。良惠が木製の民俗人形を振り回し、反射的に俺の身体は右斜め方向に跳ねていた。けたたましい音が鳴り響き、キャビネットの上のガラスの人形が無残に飛び散った。

「やめろ、良恵!」

「避けてんじゃないよ、このクソ犬!」

 犬とはやはり俺のことらしい。民俗人形が再び俺に向けて振りかざされると「大神さん! ケンカをしているのは聞こえていますよ、警察を呼びますよ!」というフォンロンの怒鳴り声がした。

 警察という言葉に、母はびくりと身体を震わせて動きを止める。

 今だ! 母の横をすり抜けて、開け放たれていた廊下を出る。ふらつく足で玄関に向かって駆け出すと、背後からどすどすどすと、地響きにも似た足音が迫ってくる。

 振り向くと、凄まじい形相で民族人形を振りかざし、一心不乱に俺に向かってくる良恵の姿があった。まるっきり鬼女だ。顔面にだらりと垂れている乱れた髪の間から、血走った眼がぎらぎらと光っていた。「がぁぁぁぁ!」という獣のような怒声と共に背中に飛び掛られて、俺は廊下に倒れこむ。


「どうしたんですか、双牙君? 双牙君!」

「フォンロン、ごめん! 助けてくれ……!」

 俺は扉越しにいる友人に訴えかけた。

「――失礼します」

 冷静な声と共に、勢いよくドアを蹴りつける音がした。

 俺の家の玄関は、木製の引き戸になっている。すりガラスと木がひび割れる音。二度目の蹴りで破壊され、程なくして開閉音と共に目前のドアが開いていく。

 目の前にはフォンロンが立っていた。

 背が高く整った顔立ちをしているが、その表情は怒りに満ち溢れている。まるで殺し屋みたいな目つきになっていた。

「なっ……なんて事するんだい、き、器物破損罪で訴えるよ……」

 急に背中が軽くなった。良惠が離れたんだ。そのまま素早く廊下の奥に引っ込んで、母の彼氏に至っては姿さえ見せない。

「こちらこそ、息子への傷害罪で通報しますよ」

 フォンロンが言い返す声に、良恵も彼氏も反応しない。壊された玄関から入り込んだ風が、雨の匂いをのせて全身を撫でる。

「双牙君……今は、逃げたほうが良いですか?」

 フォンロンは暗い廊下の奥を睨みつけていたが、気遣うようにそう言った。

「……うん、ごめん。逃げてくれ……」

 息が苦しい。早くこの家から離れたい。玄関から出ると、外は雨になっていた。いつから降っていたのだろうか、全然気がつかなかった。


「――フォンロン。その子が大神君?」

 さらさらと水が落ちる音と共に、静かな声が聞こえた。

 視線を送った先には、和服姿の男性が立っている。紺色の着物は闇に溶け込んで、静かに佇んでいる。

「はい、旭さん。すみません、すぐに移動したいのですが」

「分かったよ。非常事態みたいだね」

 この人は誰だ……?

 知らない人だが、フォンロンの知り合いなんだろう。辛うじて「すみません」と告げると、旭さんと呼ばれた男は俺に近づいてこんなことを言った。

「早くしたほうがいいね。この子、首に穴あいてるから」

 ……ええ……? 首に穴って何? 死んでんの? 俺のことか?

「わかりました。行きましょう、双牙君」

 困惑している間に、二人は俺を連れて車まで移動する。旭さんという男性は、大き目のワンボックスカーのドアを開けて中を見回した。

「えっと……あったあった。ちょうど貰い物のタオルがあるから、使ってくれ。何枚でもあるよ」

 言いながら、粗品と書かれた紙で包まれたタオルを後部座席から取り出した。フォンロンはそれを受け取ると、すぐさま俺の頭を拭いてくれる。

 ……俺の母親よりも、よっぽどお母さんみたいだ。いや男だから父親か。いやいや、同級生だった。ダメだ、意識が混濁してきた。

「急ごう、フォンロン」

 二人は軽く水気を取ると、俺を連れて車に乗り込んだ。

「待ちな! 絶対に逃がさないからねぇぇ! この、クソ犬がぁー!」

 走り去る背後から、獣のような母の声が轟いていた。

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見習い陰陽師の難卦 日守悠 @sunstar_8

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