2.母親

「良恵。俺、高校を卒業したから家を出ていきたいんだけど」

 朝のリビングでそう伝えると、母は鬼のような形相で俺を睨んできた。

「はぁ? 何言ってんだよ、アンタ。まさかアタシを一人にする気かい?」

「うん」

 即座に頷く。すると彼女は大きな足音を立てて目の前まで近づいてきた。

「うんじゃないよ、絶対に許さないよ。もし出てくなら、今までアンタを育ててやるのにかかった金を、全部払ってからにしな。そうだね、一千万だ」


 予想通りの反応だったので、俺は表情一つ変えることなく良恵を見つめた。

 若い頃は痩せていたらしいが、ずいぶんと溜め込んだ体になったものだ。腕っぷしが強そうで雄々しさすら感じる。

「いや、許さなくても構わないから。出てくから。もう行き先も決まってるし」

 ずっと家を出ていきたかった。

 そう話したら、フォンロンが「僕の住み込みのバイト先を紹介しましょうか」と言ってくれた。渡りに船だ。俺はすぐに食いついた。仕事内容は少しハードだと言っていたが、構わなかった。


 住み込みの仕事。その面接に合格すれば、この家を出て行ける。フォンロンは「双牙君なら受かりますよ」と笑顔で言ってくれていた。

 まだ合格もしていないのに「出て行く」と言ってしまったのは早計だったが、もしも面接に落ちたとしても、別の仕事を探すつもりだった。


 良恵はしばらく無言で俺を睨んでいたが、しばらくすると台所に姿を消した。

 輪切りにしたレモンが入っているピッチャーを持ってくる。俺が昨夜作ったものだ。ミネラルウォーターにフルーツを入れて飲むのが、最近の俺のお気に入りだった。

 良恵はコップに水を注ぐと、一気に飲み干した。珍しい。酸っぱいものなんか作ってんじゃないよ、と文句を言っていたのに。

「このレモンも水も、誰が買ってやってると思ってるんだい?」

「俺だけど」

 小遣いなんてもらってないからバイトをしている。それは知っているはずなのに、何故だか忌々し気に舌打ちをした。


「……双牙。アンタの気持ちは分かったよ。それなら……」

 良惠が何か言いかけると、スマホの着信音がした。素早い動作でテーブルの上にあったスマホを手にして、「もしもし。ああ、久しぶりだね」と愛想のいい声で応じていたが、だんだんと様子がおかしくなった。

「え……? 兵ちゃんが……?」

 そこまで言うと、また台所へと姿を消した。どうしたのかと思い、母が消えた方向を見つめていると、ぼそぼそと話し声が聞こえる。やがて、良恵はリビングへと戻ってきてこう言った。

「双牙、アタシの友達が……昨日の夜、死んじまったよ。夕方からお通夜なんだ。これから行ってくるから、留守番を頼んだよ……」

 先程とは打って変わって、ひどく悲しそうな顔をしている。

 俺はつい無言のまま頷いてしまった。


***


「……ううん、今……何時だ?」

 目を覚ますと、部屋の中は真っ暗だった。

 夕食を簡単に済ませた後、急に眠たくなったことは覚えている。いつの間にか自室のベッドで寝ていた俺は、寝ぼけた頭でスマホを見た。時刻は夜の十一時十五分を過ぎている。

「変な時間に起きちゃったな……あ、そうだ」

 母のことを思い出す。彼女の友人が亡くなってしまい、慌しく出かけたことを。

 彼女が家を出たのは午前中だったが、もう帰っているだろうか。それとも、誰かの家にでも泊っているのだろうか?

「良恵ー?」

 母の名前を呼ぶ。いつの頃からか、俺はあの人を『ママ』とか『母さん』などとは呼ばなくなっていた。


 電気を点けて家の中を歩きながら、スマホを確認する。何の連絡も来ていないし、母の姿もない。ひんやりとした廊下を歩く。床が軋む音がやけに大きく感じた。自分が住んでいる家なのに、辺り一面の闇が強すぎて、不思議と廃墟にいるような感覚になる。

 亡くなった母の友人は、高校の頃の同級生だと言っていた。

 やはり外泊するのかもしれないな。頭が鈍く痛んだ。夢を見ていた気がするが、内容が思い出せない。少しだけ昔の事だった気がするんだけれど……。


 夜の静寂、時を刻む音だけがやけに大きく聞こえる中、玄関の開閉音が響き渡った。

「……何だぁ、双牙。起きてんのかい?」

 ひび割れた声が聞こえる。良恵だ。

 彼女は足音を鳴り響かせて、すぐにダイニングまでやって来た。家を出た時と同じ喪服に身を包んでいる。顔が真っ赤になっていた。

「良恵、こんな夜中に帰って来たのかよ。葬式は大丈夫だったのか?」

 きつい酒の臭いが鼻をついた。

「久しぶりに昔からの仲間にあったからねぇ。つい、宴会になって盛り上がっちゃったんだよ」


 母は口元に笑みを浮かべながら言った。かなりの上機嫌で肩まで揺らしている。

 友人のお通夜の後に、深夜まで宴会。

 家を出るときは、それなりに悲しそうに見えたのに……。

 違和感を感じたが、母は荷物を乱雑に置いて、さっさと自室に行ってしまった。ほんの僅かでも心配してしまったことを後悔して、俺はため息をついた。

 それと同時にスマホの通知音がした。メッセージが来ている。

「……フォンロン? どうしたんだ?」

 彼から深夜に連絡が来るなんて、初めてのことじゃないだろうか。確認しようとすると、スマホの画面が真っ暗になった。

 同時に、目の前に気配を感じて顔を上げる。そこには、鬼のような形相を浮かべた母が立っていた。酒で真っ赤になっており、まるで赤鬼だ。


「アンタも飲むかい?」

 表情に反して、穏やかな声音でコップに入った水を差し出してきた。

 レモンの香りが漂う。妙に優しいというか、どこかおかしい。

 何だか、近くに誰かがいるような気配がする。誰かが見ている気がする。

「いや、俺はいいよ。もう寝るし」

「寝る前にはねぇ。たくさん水分を取ったほうがいいんだよ」

「トイレ近くなるから。いい」

「飲みなって」

 しつこい。どんどんと違和感が増してくる。

 ふとダイニングテーブルの上を見ると、お通夜で頂いてきたらしい紙袋と、見慣れない木箱が置いてあった。古びた紐が十字に結ばれている。


 元は燃えるような朱色だったのだろうが、今はくすんでいて所々が黒く変色してしまっている。大きさは三十センチ程の大きなもので、煙草の臭いとはまた別の、饐(す)えた臭いを漂わせていた。ずいぶんと古いものだな。骨董品か?

「この箱、何?」

 箱を観察してみると、表面には何かを剥がした痕が残っている。箱を持ち上げて裏側を覗き込むと、底面に文字が書かれていた。墨で書かれた文字は薄れ、長い年月を感じさせる。『犬神代わり』と書かれていた。

 ずっしりと重たい。何が入っているのだろう。

「触るな」

 背後から、殺意のこもったような低い声がした。


「……双牙。アタシはシンデレラなんだよ。十二時までには眠らないといけないんだ。だから早く飲みなよ」

 良恵は、大きな身体を揺らしながら未だに水を差し出してくる。

 いや、とっくに日付変わってるけど。それにシンデレラは寝るんじゃなくて家に帰るんじゃなかったっけ? 魔法が解けるから。

「ほら双牙、アンタがいつまでも起きてるから。迎えが来ちまったじゃないか」

 さっきから何を言っているのか分からずに眉を潜めると、玄関から音がした。


 ……誰かが入ってきた?

 廊下を歩く音が聞こえる。

 ――やばい、泥棒か?

 そう思い母を振り返ると、彼女はうつむいたまま動かない。迎えが来たって……母は、誰が入ってきたのか知っているのか?

「何だよ。こんな時間に、友達でも連れてきたのか?」

 迷惑だなと思いながらも心臓が高鳴るのを止められない。汗が冷えて、寒い。

 その時、またスマホの鳴動音がした。さっき真っ暗になったはずのスマホから、今度は電話の着信だ。フォンロンの名前が表示されて、ひどく安心する。


「ごめん、さっき電波悪くて。どうしたんだ?」

『双牙君……どうしたん、です……か――ガガッ……ザァー……』

 俺の声は聞こえていないのだろうか。廊下の足音は、どんどん近づいてくる。

「双牙、こっちを向きな……ほら、さっさと向けって言ってんだろう。早くしな!」

 廊下の足音が止まる。繋がった電話は、雑音と怒声にかき消された。引き戸を開いて廊下を覗き込もうとしたが、良惠に腕を引っ張られて止められる。その力が強すぎて、僅かな間だったが廊下から目を離してしまった。

「おまえは、もうおしまいだ」

 それと同時に、背後から低い声が聞こえた。

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