背中に薔薇

とうふう

第1話

午前4時、口から出た息が白くはっきり捉えられる季節。まだ夜明け前の駅前。シャッターに描かれたアルファベットは、凹凸のある表面に沿って歪んでいた。北口の大通りを右に曲がって、小路をふたつ通り過ぎて、三つ目の小路を曲がる。正面にある暗いビルに入ると、エレベーターがあるが、この時間はまだ動かない。扉が開きっぱなしの非常階段で二階まで上がる。『2』と機械的で単調なフォントで書かれてある扉を開けると、ジャスミンやらムスクやらのアロマの香が、やたらと纏わり付いてくる。

「今日も来てくれたんだね」

彼が、その部屋の奥で待っていた。

「そのカードが、来ることくらいすでに教えてたんじゃない」

彼はタロット占いを生業にしていた。

「僕が聞かなければ、カードは答えない」

あたかも一流のようなことを口走るが、私は彼の占いを、というか占いそのものを信用したことは一度だってない。

「ねえ、私、背中に刺青を入れたいんだけど。どんなのを彫ったら良い」

彼はすぐさまカードを切り始め、適当なタイミングで、上から七枚目のカードを表に向けた。

「そうか、君もう背中に刺青を入れてるんじゃないか」

一瞬にして彼を信用せざるを得なくなった。冷や汗がたった今暴かれた刺青の上を這っている。占いなどは大概当たり障りのない、的を得ているのかいないのかも曖昧な、気持ちの世界に過ぎないと思っていたのに。

彼はまた、そこからまた六枚のカードを裏向きのまま横に置いて、七枚目のカードを表に向ける。

「そうだね、三日月とかはどうだろう。三日月の刺青。君の背中の赤い薔薇を上手く消してくれるみたいだ」

彼には、彼のカードには一体私の何が見えているのだろうか。彼はまた同じように七枚目のカードを表に向けた。

「うん、三日月で間違いない。三日月なら、屍体は誰にも見つからない」

なんだ、全部視えるのか。

彼は有能な占い師だ。本当に占って欲しいことが何なのかよく分かっている。

「それじゃあ、次の三日月の日にまた会いに来るから」

別れの言葉を口にして、部屋から出ようとしたが、俯いた時に見えた蛾の死骸が私を引き止めた。蛾は動くことはもうないけれど、その鱗粉が薄暗いこの部屋に漂っている。まだ行かないでと手を掴まれているようだった。それがまるで彼からの言葉のように感じてやまなかった。彼を置いて行ってしまうが、彼は許してくれるのだろうか。恐ろしくて彼の表情を伺うことができない。

「うん、さようなら」

その言葉に、何か憂鬱で終焉のような気配を感じ、乱れ飛び出そうな心臓を抑えながら彼の方を振り返る。憎悪の欠片も見られない、綺麗な微笑み。真白な薔薇。私は彼を置いて行けない。

「刺青、やっぱり入れないことにした」

蛾の鱗粉がステンドグラスから差し込む日の出の光を反射して僅かに輝く。鼓動も呼吸もない、真白の薔薇の隣に、深紅の薔薇が横たわって、二輪目覚めぬまま、陳腐なビルの二階で枯れていく。

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背中に薔薇 とうふう @toufuu_

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