哀憎

悲しいことがあった時、なぜ人はそれを抱え込んでしまうのだろうか。


悲しくて、辛くて、どうしようもない時に、どうして人を頼ることができないのか。


悲しいのは、自分の中で抑えられない感情ものがあるからで、それは一人で抱えるより他人に共有したり話したりすることで軽くなったりするものではないのか。


なぜ、人は一人では生きていけないのに、一人でなんとかしようと思ってしまうのだろう。


なぜ、そばにいたのにその葛藤に気づくことが出来なかったのだろう。


私は、赤く腫れた目をまた涙で濡らした。









夫が死んだ。

道の真ん中で頭から血を流して倒れていた。

事故だと言われた。

その日は雨が降っていて視界も悪かったし、足を滑らせて頭を打ったのだろうと。


夫が死んで一ヶ月が経った今。

私はまだ、夫のいない現実を受け入れられていない。





雨の匂いがする朝。

久しぶりにまともな時間に起きた気がする。

私は鏡に映るまだ涙で赤く腫れている目に冷水をかける。

ひんやりとした水が顔の火照りを冷ます。


キュッと水を止め、タオルで軽く顔を拭く。

顔をあげると、鏡に私の何とも言えない暗い顔が映る。


……酷い顔。

私は鏡から目を逸らす。



あの人が死んだ日から、私は泣き続けた。誰よりも長くたくさん泣いた。

それでも、当たり前にあの人はもう戻ってこなくて、私は一人で、また泣いた。

涙が止まったのは、空があの人が好きな雨模様になった時だった。


赤く腫れた惨めな顔を隠すように髪を下ろして、私は外に出る。


灰色の空に静かに雨が降っていて、私はそれを傘越しに見た。

ポツポツと雨が跳ねる音が、静かに私の胸に落ちた。


雨のせいか、通る人は皆早足でこちらを気にかけることもない。

それが今はありがたかった。



……私は一人で生きていくのだろうか。


声にならない呟きが浮かぶ。


あの人がいない今、私は、どうすればいいのか。ふと考える。


あの人が好きだった、口数は少なかったけれど優しく私のそばにいてくれる人だった。

あの人の目が好きだった。

水面のような人だった。

あの人が生きる意味だった。

私は、今、誰にこの悲しみを打ちあければいいのだろうか。


いく先のない感情が吐き気となってこみ上げてくる。

思わず口元を押さえる。

ゆっくり深呼吸を繰り返していると、次第に楽になる。

ふぅ、と息をつく。


顔を挙げると、『公園』の文字が目に入った。

特に思い入れはなかったのだが、惹かれるように私は足を運んだ。


滑り台にブランコ一つ。

少しの緑の下に、ベンチが一つある小さな公園だった。


私は少し低いくらいのベンチに腰をかけて、公園を見渡す。

雨の公園は静かなものだった。人一人いない。

雨に濡れた静かな公園を私はしばらくボゥっと眺めていた。


ポツポツポツ


雨音は変わらず傘に落ちる。

静かに、ずっと。

少し肌寒かったが、立ち上がる元気がなくそのまま公園を眺める。



このまま雨と一緒に流れて消えていきたい、なんてつまらないセリフが頭に浮かぶ。


“愛してる”とか“好き”だとか、そういう言葉を面と向かって言ったのは一体いつまでだっただろうか。

付き合い始めた時、だけだったかもしれない。

私もあの人も愛情表現が得意な方ではなかったし、世間が想像するような甘い関係ではなかったかもしれない。

それでも、私はあの人を確かに愛している。今もずっと。死ぬまでそれは変わらない。あの人が、死んでいても。


私は死んだあの人をぼんやりと思い出す。

優しい、心の中にじんわりと熱を灯してくれるような人だった。

あの人が死んだ日も、こんな暗い灰色の空の日だったか。

あの人はこんな空が好きだった。


……この空が見たくて、外に出たのだろうか。


ザッという土が擦れるような音と、荒い呼吸音が聞こえて私は意識を現実に戻す。

前を見ると、傘もさしていないびしょ濡れの男がこちらに向かって走ってきていた。

男は私の前に来ると、膝をついてはぁはぁと浅い呼吸を繰り返す。

男はまだ整っていない呼吸をしながら必死に声を絞り出す。

「あ、あの……さんですよね、なんで、ここに、」

言葉が途切れていて、よく聞こえなかった。

「……あの、大丈夫ですか」

まだなかなか呼吸が整わない男に思わず声をかける。

すると、男はガッと雨に濡れた手で私の手を掴む。

男の手はゾッとするように冷たかった。

思わず男の顔を見る。


濡れた髪は灰色の空によく似ていて、髪から覗く瞳はビー玉のように私をじっと映していた。

私はこの男に見覚えがあった。


男は私の手を強く握りしめて、言った。


さん、貴方が好きです。」



どくんと心臓が波打つ。

冷たくなっていた体温が上がっていくのを感じる。

雨の音も、周りも音も一瞬にして聞こえなくなり、私の目に映る目の前の男だけに意識が向く。


_______________________________なんで、。


声にならない声が出た。







夫が倒れているという報せを受けた時、私はちょうど買い物に行っていて、夫が倒れたと場所はそこからそう遠くない場所だったためその足で走って向かった。


わかりやすいくらいの人だかりを見つけて私はすぐに駆け寄った。


その時、私とは逆方向に歩く男がいた。

雨の中傘を差していなかったからか、目をひいた。

黒い髪が顔を隠していてよく見えなかったし、夫のことが心配で必死だったからその時は一度見るだけで気にも留めなかった。


だが、視界の端で見えた。

男がべったりと血がついた手をそっとポケットに突っ込む様子を。



通報した人物は別にいた。

あの男はたまたま居合わせただけ?

にしては異様な血の量だった。

一つの考えが頭の中に浮かぶ。


“あの男が私の夫を殺したのではないか。”


殺してはいなかったとしても、とても無関係とは考えられない。



どくんと心臓がなる。

私は目の前の男を見る。

髪色は灰色で記憶とは違うし、顔はよく覚えていないから本当にそうかはわからない。

だが、直感で感じた。


_____________この男が、私の夫を殺した。



男は黙り込む私をじっと見つめている。

私も目を逸らせずじっと見つめ返す。


この男が、夫を殺した。


静かに言葉が胸に落ちる。



警察は夫の死を事故で片付けた。

この男が犯人だという証拠もない。


私は混乱する頭を整理しようと、止まっていた思考を動かす。


理由が、欲しかっただけなのかもしれない。

夫が死んだという現実を受け入れたくないという私の我儘からそう思い込もうとしているだけなのかもしれない。



だが、止まることはできなかった。


“藤宮さん”


男は私をそう呼んだ。


私の名前は藤宮

人違いで話しかけられたのだろう。

つまり、この男は私があの人の妻だと知らない。


私はもう一度男を見る。



この男が、夫の死について何か知っているなら。

私はその口から、話を聞きたい。


「……もしかして、」

男が口を開く。

私は身体をびくりと震わせる。


だと、バレた?


私の不安などつゆ知らず、男は眉を下げて言う。

「俺のこと、覚えてません?」

少し落ち着いた声色が雨に落ちる。

声色とは反対に、ぞくりと悪寒がした。

男の目。

男の目から私が消えていく、翳り、黒く濁っていく、そんな感覚。

握られた手の冷たさが私の体に溶け込んでいく感じがした。


私は震える唇を噛み締める。


もうあの人は戻ってこない。

その事実が胸に痛く染みる。



なぜ、あの日雨の中あの場所にいたのか。

なぜ死んでしまったのか。

あの人は、どんな感情を抱えていたのか。

私は、妻なのに、何も、知らない分からない。


それを、知ることができる可能性が少しでもあるならば。

私は軽く深呼吸をしてから、ゆっくりと、できるだけ自然に、にこりと笑顔を浮かべてみせる。そして息を吐くように嘘を吐く。

「いえ、。久しぶりに会ったので驚いただけです。」


私が言うと男は先の翳りもなかったようににこりと顔をほころばせる。

同時に手を握る力が強くなる。

「よかった、俺、藤宮さんのことずっと探してて。何も言わないで急にいなくなるから……」

照れた様子の男を横目にみながら、私は考える。

この男は私を“藤宮”という人物と勘違いして、おそらくその“藤宮”に男は好意を抱いている。


男の手を握る力がまた強くなる。

男の瞳が私を捉えている。

「さっき、勢いで言ったのは、俺がずっと貴方に言いたかったことです。」


“藤宮さん、貴方が好きです。”


_________この男にあの人が殺された。

それが真実ならば、私は、この男を………。


私は雨に濡れた手をぎゅっと握り返し、微笑んでみせる。

「ありがとうございます。」


貴方が哀しい勘違いをしているなら好都合。私は夫の死の理由を突き止めるために、貴方を利用する。


 お前は誰だ?

 なんであの人を殺した?


全てを知るまで、私は“藤宮”の仮面を被り続ける。

視界の端で手を握られた時に落ちてしまっていた傘は、泥がつき雨に濡れていた。


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透明な嗚咽が落ちる先、。 流川縷瑠 @ryu_ruru46

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