寄生の子 一

 とん、とん。と戸が鳴っているのを、その日のわたしは運悪く聞いてしまった。


 明日の仕込みをようやく終えたところで、わたしはへとへとになっていた。その「明日」にはもうとっくになっていて、眠くて疲れてしょうがない。それに、ほんとうのことを言うと怖かった。外で戸を叩く人の手の高さはわたしの背丈をゆうに越えているようだったし、控えめながらも叩かれた戸はがたがたと前後に揺れて、空気を震わせた音は無骨で男の人っぽかったからだ。「お化けだ!」と思ってすっかり怯えてしまうほどわたしは子供ではないけれど、夜遅くに一人で男の人と話さなければいけないのは、お化けに襲われることの次くらいには恐ろしく感じられた。


 でも、戸の向こう側に人がいることをひとたび知ってしまったら、放っておくことはわたしにはできなかった。わたしが屋根のある場所で毎日寝泊まりさせてもらって、満足にごはんを食べさせてもらえているのは、おかあさんの──おかみさんのおかげだったからだ。宿で働く娘として、お客様を案内しないわけにはいかなかった。


「……はい、」


 わたしはほんの少しだけ戸を開けて、外の世界に顔を出した。相手は背の高い男の人だとわかっていたから、わたしはめいっぱい首を上向きに曲げていた。


「夜分遅くに申し訳ない、泊まれる場所を探しておりまして」

「きゃあ!」


 わたしは思わず声をあげた。月の明かりに照らし出された人の影が、頭二つに膨れて見えたのだ。ここで働くようになってから事あるごとに聞かされている、丸がたくさんくっついた姿のお化けの話を思い出してしまった。


 でも、よくよく目をこらしてみると男の人が小さな子供をおぶっているだけで、なんてことはなかった。わたしは慌てて小さな悲鳴をあげた口を手で覆い、戸を広く開け直した。


「ごめんなさい。その……思っていたよりも大きな方で、少し、驚いてしまって。大変失礼いたしました。ええと……ご宿泊ですか?」


 わたしは咄嗟に嘘をついた。お客様に向かって嘘をつくなんていけないことだとこっぴどく叱られたことがあったから、見破られてしまったらどうしようと思う。疑われてしまったら……と考えて、わたしは男の人の顔をおそるおそる見た。


 改めて観察した男の人は、月のような出で立ちをしていた。白っぽい着流し姿で、絹糸のように白く曲がりくねった髪を後ろのほうで括っている。肌なんかは青白いくらいで少し不気味だけれど、肌自体には張りがあるし背筋はしゃんと伸びている。おなかが極端に減っているわけでも、病気なわけでもなさそうだった。刀は一本差しで、たぶん、流浪の人。


「お父上は図体ばかりでかくていけないね。また小さなお嬢さんをびっくりさせて。この間だってそうだったじゃないか。団子屋の軒に立っただけでダイダラボウなどと呼ばれて怪しがられるし、その前の村の娘なんかはもう──」


「少しは黙っていられないのか貴様。餓鬼は寝る時間だ」


 子供のほうが喋りはじめた途端に、男の人が細い眉を顰めてギロリと子供を睨みつけた。みたところ五歳になるかならないかというくらいの小さな男の子のようで、その幼さには似合わない大人びた口調にも、「お父上」と言うからには親子なのだろうけれど、自分の子供に向けるとは思えない男の人の厳しい視線にもわたしはまたびっくりしてしまった。それでわたしは、お父さんに背負われている男の子の顔をじっと見てしまう。いくら大人びた口調でも冗談は冗談だったのだろうし、お父さんにあんな叱りかたをされたらワッと声をあげて泣いてしまうのではないかと思ったのだ。


 でも、またしてもびっくりするのはわたしのほうだった。男の子の目にはぐるぐる巻きに木綿の布が巻かれていて、表情は鼻から下くらいでしか判別できそうにない。


「きみ、目が見えないの?」


 わたしは思わず訊いてしまった。お客様の事情に首を突っ込むんじゃないと、おかみさんに何度もなんども言われていたのに。ぶたれた頬の熱さを思い出して、わたしは痛くもないのに頬を押さえた。


「ああ。お父上の目は見ての通り、綺麗なお天道さまの特別製だからね。持っていていいのは一人だけさ。神様というものはどうもケチだね。命は産み増やせても太陽は増やせないというわけだ」


 男の子が、口と頬の動きだけでニコニコと笑う。怒ったり悲しんだりしていなかったのでひとまず安心したけれど、それでもわたしは返答に困ってお父さんのほうを見た。男の子のお父さんの瞳は、男の子の言ったように澄んだ橙色をしていた。わたしはいつもの癖で思ったことを──琥珀みたいでとても綺麗と言いそうになってしまうけれど、お父さんがその綺麗な瞳を隠すように、また険しい目つきで男の子のことを睨みつけようとするから、わたしは慌てて「この子はお父さんのことがきっと大好きなんですよ」と別の言葉を口から出した。


「そうだそうだ、お嬢さんの言う通り。私はお父上のことを慕ってこのような物言いをしているのです。お喋り自動人形だなんだと、むやみやたらに非難するのはよして頂きたい」


 お父さんはまた眉間にしわを寄せて何か言いたげに口を開いたけれど、結局は何も言わずにわたしのほうを見下ろした。


「……いや、このような時間に騒ぎ立てて申し訳ない。それで、我々は旅の者なのですが、こちらに空き部屋など借りられる場所はなかろうかと思いまして。倉庫や馬小屋などでも構わないのですが」


「馬小屋といえば、西洋のほうには何やら馬小屋から生まれ出ずる神がいるとか。私たちと馬小屋は切っても切り離せぬ縁があるようだ。タダで借りられるとあれば馬小屋を所望したいところではあるけれども、このお父上はなにぶんただの人の子なものだから、寒いと凍え死んでしまうのだよ。持ち合わせはあるから、住むにいい場所を用意してはくれないだろうか。なに、父上のためなら多少の出費などなんのその」


「……そういった次第で」


 お父さんのほうは、何か色々な言葉を飲み込むように苦い顔をしていた。

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