国覓のカガミ

蓼川藍

寄生の子 序

 また、娘が生まれた。忘れたくても忘れられないその顔、その声。


 健康的ですべらかな肌。親のものよりも茶色が強い、大きな瞳。


 もう二度とオギャアと泣くことはない産声。


 狂うほどに聞き飽きた、その呼び名。



「……おかあさん?」


 娘のサアヤが生まれたのは、もう二十年以上前のことだ。……そのはずだ。


 私の最初で最後の娘。サアヤ。


 今も生きていてくれたなら、さぞかしいい婿をもらい、立派な女将になっていたことだろう。私は立派に成長した娘に今の役目を譲り渡し、あの子を後ろで支えていただろう。


 でも、サアヤはずっと同じ姿のままで私の前に現れる。いなくなった日と同じ着物を着て、いなくなった日と同じ髪飾りをつけて。


 幼い瞳で私を見上げ、「おかあさん?」と鳴く。私は気が狂いそうになり、気づけば娘を平手で叩いている。娘が恐る恐る私を見る。私は娘の柔肌を張った自分の手のひらをぼんやりと眺める。


 震えている。



 ──アヤメさん、いけないよ。そんな乱暴をしては。



 その時、天井裏から声が響いた。優しく、若い、男の声。

 若い……若い!



 ──ぼくたちの大事なひとり娘じゃないか。



「やめて……もうやめてえぇぇ!」


 私は頭を抱えて蹲った。

 抱えた頭の、手の届かない奥の奥で閃光が爆ぜる。


 私の思い出……私の夫。私の娘。


 まだ髪の黒く、皺のない私の顔。が、笑っている。


 娘を抱き上げる夫。小さな手を天に向かって高く突き上げ、日の光を浴びていきいきと笑う娘。……誕生日には菖蒲の簪を買ってあげた。


 簪……あの簪が。


 血に濡れていた。サアヤの小さな右手と一緒に。


 焼き切れるほど繰り返している。あのときの記憶。


 擦り切れるたびに熱を持って、私の頭はぼうっとしていく。



『お母さん……わたしね、子どもを産むわ』



 簪を逆手に持った娘は、立ち尽くす私を振り返ってそう言った。


 サアヤの足元には、滅多刺しにされ血まみれになった夫の死体が転がっていた。



『子どもは幸せの証なの。繁栄の証なの』



 サアヤの身体はたちまち羽毛に覆われていった。


 黒と白の混ざったそれは夫の寝室を覆い、溢れて廊下へと流れ出し、私の意識と家族の全てを奪っていった。



 ──一緒に育てていこう、可愛いかわいいこの娘を。



 天井裏から声が降ってくる。今に取り残され老いさらばえた私の背中に、死んだ夫の優しい声が。



 ──大丈夫、いまにこの宿は繁盛するよ。もっとたくさんの人が来て、たくさんの人がぼくたちの手で幸せになっていくんだ。こんなに幸福なことはない。



「……おかあさん、」


 ふと、震える私の手にちいさなぬくもりが重なった。

 顔を上げると、生まれたばかりの娘が私のことを心配そうに見つめていた。


 その着物にも、簪にも、血の汚れはついていない。


「泣かないで、おかあさん……」


 わたしまで悲しくなっちゃうよ。そう言いながら泣きじゃくる娘を茫然と見上げ続ける私に、天井裏の声が言った。



 ぼくたちみんなで守っていこう、この宿を。ぼくたち家族の居場所を──



 私は茫漠とした意識で立ち上がり、部屋の中に散らばった白黒斑の殻を片付け始める。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る