香水

珠洲泉帆

香水

 瓶は陽の光を受けてきらめいた。ゆっくり傾けると、中の液体も静かに揺らめき、光を散らばせる。容器の中いっぱいに、小さな透明の宝石が詰まっているようだ。

 まばゆい輝き越しに、私たちは目を見合わせた。

「開けるの、もったいないね」

 蓋を取ってしまえば、空中に逃げ出して二度と戻ってこないだろう。気まぐれで、一瞬だって同じ場所に留まろうとしない、この光。角度によって、自在に姿を変えられるこの光は。

 絢子が瓶に手を伸ばした。

「でもさ」

 瓶を掲げる私の手に、絢子の指が触れる。

「開けない方が、ずっともったいないよ」

 瓶が手から離れていく。絢子の細い指に力が入り、宝石を取り出そうとする。ぐっと力が

込められると、華奢な蓋はとうとう取り去られてしまった。

 ことん、と絢子は蓋を机に置く。瓶を二人の鼻先に近づけると、ふわりと花の香りがあふれた。

 私は深く息を吸った。胸の中に香りが満ちる。花の息吹は全身を巡って、つま先にまでいきわたる。呼吸を止めれば、このまま体の中に閉じ込めておける──。

「窓!」

 私は座っていた机から飛び下り、傍らの窓に飛びついた。半分ほどかかった黄色いカーテンが大きく膨らむ。風を入れてはいけない。香りを持ち去ってしまうから。

 音を立てて窓を閉めた私を見て、絢子は笑った。

「そんな簡単に逃げないよ。こんなにたっぷりあるし」

 ほら、と絢子は手招きをする。私はまだ安心しきらないまま、彼女の隣に座った。

「それにさ」

 絢子は左手首を出した。内側を上に向ける。

 私がじっと見守る中で、絢子は瓶を傾け、その口を左手首に押しつけた。

「こうすれば、完全に私たちのものだよ」

 自慢げに言い、ひらひらと左手を振る。

 私はそっと顔を寄せ、細い手首の香りをかいだ。

 見えない花の腕輪が、そこにあるようだった。


***


 七月の終わりごろ、太陽は熱く燃え、空気は水分をたっぷり含んで湿っていた。ブラウスの半袖からのぞく腕が日焼けするのが怖くて、日焼け止めを手放せなかったことをよく覚えている。夏休みが始まって数日しか経っていなかったというのに、華やぎのない秋の到来を思って気分が沈んでいたことも。

 絢子がいたせいだった。彼女は時の流れを操る魔法を持っている。絢子といる時間は蜂蜜のようにきらきらしていて、濃く甘くて、あっという間に過ぎ去っていく。どの瞬間も──景色も、音も、匂いも忘れることはないのに、指先に触れた余韻だけを残して消えてしまうのだ。

 この夏も、とびきり甘く、とびきり早く過ぎていくことが分かっていた。だから憂鬱だった。何も考えなくていい、ただ楽しめばいい時間は終わる。来年は三年生だから。その時には、今だけを見据えることは許されない。

 陽当たりのいい教室で、私たちは一つの机に並んで座っていた。黒板は綺麗に消され、ロッカーの中は空っぽで、すっきりとした空虚な雰囲気が漂っていた。

 絢子の肩が私の肩に触れる。むき出しの腕が触れ合う。

 絢子は私の手首を取って、同じように香水をつけてくれた。

「これでよし」

 満足げに細められた目を見つめてから、自分の手首を持ち上げてみる。花の香りだ。私は今、絢子とおそろいの花の腕輪をつけている。

 絢子はぴょんと机から下りると、床に無造作に置いていた鞄を取り上げた。

「駅まで歩いていこう」

「でも」

 絢子がじっと私を見つめる。私は怖かった。それはただでさえ捕らえがたい貴重なものなのに、教室の外へ出てしまったら、手を伸ばす間もなく散ってしまう。この世の何より儚いものだ。吹く風、無遠慮な雑踏、行き交う車のエンジン音、そんなものに囲まれたら、瞬く間に呑まれてしまう。

絢子は私の手をつかみ、無理矢理机から下ろした。ぐっと顔を寄せられ、私は面食らう。絢子の強い瞳を前に、胸の中はぐちゃぐちゃになっていく。

「考えたんだけど」

 あやすような優しい声で、絢子は言った。

「明日も、ここに来よう。その次の日も、ここが空いてる日はいつでも来よう。ここが駄目なら、校舎の他のどこかに行こう。それで毎日、香水をつける。今日道で香りが取れても、明日、また新しくつけられるよ」

 絢子の目。茶色く大きな目が、まっすぐに私を射抜く。

 この目の前では、私は何も考えられない。

 私は頷いた。絢子は微笑み、私たちは教室を出た。

「あっついなあ」

 玄関から出た瞬間、絢子は空を仰いでぱたぱたと手を振った。私はほんの少しだけ、絢子から離れた。暑さの元になって、絢子に嫌われたくない。

「夏って、強烈だよね」

 言って、絢子は私を見る。私は首を傾げた。駅に続く大通りを歩いているところだった。

「どこら辺が?」

「まず、こんなに暑いところ」

 絢子は綺麗な指を折りながら数え上げる。

「それから、一瞬で終わっちゃうところ。ぼうっとしてたらすぐでしょ? それで、最後が」

 信号が赤になった。私たちは立ち止まる。

「そんなに短いくせに、楽しくて、忘れられないところ」

 風が吹いていく。絢子の髪が揺れる。

 私はそっと、左腕を絢子の腕に絡めた。

「じゃあ、絢子は覚えてるんだね。どの夏も」

「まあね」

「今年の夏も、忘れない?」

「うーん」

 絢子は雲一つない空を見上げる。

「それは、終わってみないと分からないかな」

 ごまかすような、冗談めかした返事だった。でも私は満足した。横断歩道を渡り始めてからも、絢子は腕を振り払おうとしなかったから。

 不意に明るい気持ちになって、私ははしゃいで言った。

「香水、すごいね。絢子にぴったり」

「何言ってるの。私だけじゃないでしょ」

「だって、絢子、すごくいい香りがする」

「そっちこそ。わかんないの?」

「ていうか、同じ香りだし」

 私たちは笑い崩れた。どっちの方がいいか、なんてことは、もう関係なかった。最初から一つの香水を分け合った私たちは、溶け合い混ざり合って、また一つになった。

 花の香りは風にのり、無機質なビルの間を吹き渡っていく。追い風が去っていっただろう空を見上げた。

 青かった。

 あの青い空にも、私と絢子の花の香りが残っているはず。

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