002.おつかい


 この話はつい先日の出来事である。

 願わくば、これ以上の恐怖体験はしたくない。



 その日俺は、彼女と自宅でイチャイチャしていた。もちろんここで言う『彼女』とは恋人のことである。

 君たちには辛いことかもしれないが、もう一度言おう。彼女とは恋人である。


 しばらくイチャついていると、強敵が現れた。母親である。

 母は何食わぬ顔で俺の自室へと侵入してきた。彼女とイチャイチャしていたのにも関わらず。

 しかし、母はそんなことは気にもとめず、あろうことかこの場面で俺にお使いを頼んできた。

 曰く、ママ友とお喋りをしていたら醤油を買ってくるのを忘れたらしい。


 そんなことは知らない! 自業自得だ! と追い返すことが出来ない訳でもない。

 しかしそんなことをしてしまった暁には、今晩の食卓に醤油様が顕現なされないという事態が起きてしまう。


 俺は渋々といった感じで立ち上がり、母の命令を受け入れる。


「三秒で帰ってくるから待ってて」


 彼女にそう言って部屋を出るが、彼女は「私も行くから待ってて」といい、俺の部屋でバタバタと支度を始めた。


 醤油を買うくらいすぐだから、待っていてもらっても構わないのだが、一緒に行くと言うのであれば待っているのも吝かではない。寧ろ彼女の頼みであれば犬のようにしっぽを振って待っている自信がある。


 ただ、女性の準備とはいつも長い。俺は準備を終え、既に外に停めてある自転車にかれこれ五分程跨っている。

 彼女と二人乗りをするのは良くあることだが、それでもやはり胸の感触が背中に当たるというのは素晴らしいものなので、ウキウキしながら待っていた。


 それからまた数分が経つと、ガチャリと玄関のドアが開いた。後ろから彼女がパタパタとこちらへ走ってくる気配がする。そうしてピョンと荷台に乗り、「れっつごー!」と言って俺にしがみつく。

 うむ。やはり素晴らしいものである。



 暫く走っていると、違和感に気づいた。彼女が妙に静かなのである。

 いつもならこちらが何を言うまでもなく、どんどん話題を振ってくるが自転車に乗ってからはそれがない。むしろ「れっつごー!」から一言も発していない。


 まあ、不自然ではあるが、彼氏とイチャイチャしていた場面を彼氏の母親に見られたことで気が動転しているのかもしれない。いや、イチャイチャしている所などよく見られている。むしろ見せているレベルである。さすがに気が動転したなんてことは無いだろう。


 それではなんだろうか、俺が待っていてと言ったから拗ねているのだろうか。なんだ、可愛いな。



 そんなこんなで結局一言も会話をせず最寄りのスーパーに着いた。

 彼女の顔を伺ってみるも、特に不機嫌そうであるといったことはない。表情に色がないのは少し変だったが、そこまで気にすることでもないと思いスーパーへと入った。


 中に入ってからしばらく、俺は彼女に話しかけた。しかしそれに対する返事はどれも上の空で、彼女から話題を広げるようなことはなかった。


 そうして、ミッションであった醤油の購入を無事遂行し、再び自転車に跨った。彼女も俺に続いて荷台に跨ったことを身体で感じる。


 ゆっくりと漕ぎ始め、最初のT地路のあたりで初めて彼女から口を開いた。


「少し遠回りしよ。道ならわかるから」


 愛しの彼女の願いである。断る理由がない。いつもは直進する道ではあったが、左折をした。

 それから彼女は脇道がある度に、「真っ直ぐ」だとか「右」だとか指示をしてくる。

 俺としては、せっかく回り道をして帰るのだからお喋りをしたいところなのだが、彼女にそんなつもりは無いらしい。

 

 最初の方こそ見知った道ではあったが、次第に見た事のない道を走るようになった。

 電柱に貼ってある住所を見る限り地元なのではあるが、通ったことがなかったのである。


 一体いつになったら家の近くに行くのか。全く分からないまま俺は彼女の指示通りの道を走っていた。


 すると、ふと空気が重くなった。


 別に、大気に押しつぶされそうになるとかそういうことでは無い。雰囲気が暗く、重くなったのである。


 不気味な道だと思い自転車を漕いでいると、ふと正面の曲がり角に人影が見えた。小学生くらいの少女のようだった。それだけなら何もおかしいことは無い。ただ、その風貌がおかしかった。

 髪は長く腰の位置ほどあり、来ている服は薄汚れてボロボロ。ボールをついてニヤニヤと一人で笑っていたのだ。


 言い知れぬ恐怖を覚えた俺は、すぐにでも引き返したかった。しかし、彼女がこう言った。


「次、右。」


 無視して引き返せばいいものを、俺はその言葉に逆らうことが出来なかった。今思えばこの時点でもう俺はダメだったのかもしれない。

 俺は件の少女を横切り、右に曲がった。無論全速力である。

 何も起こらない。あれはただの貧しい家の子どもだ。そうであればどれほど良かったか。


 俺が横を通り過ぎ、右に曲がった瞬間、少女はボールを捨て全速力でこちらを追ってきた。

 普通の小学生であれば、一人女性を乗せているとはいえ、自転車の速度についてこられるわけも、まして追いつくことなど出来ない。

 ただ、最悪の想像と状況のせいで俺はパニックだった。何とかして知っている道へ。何とか逃げ切らなければ。

 そう思って全速力で自転車を漕ぐ。


「アヒャヒャヒャ」


 心臓が止まるかと思った。声は耳元で聞こえた。後ろに乗っている彼女の笑い声であるということだ。

 しかし、パニックだった俺はすぐに気を取り直し、スピードを弛めることなく走った。


 ようやく知っている道へと出てきて、家へと帰りついた。

 まだ少女が追ってきているかもしれないという恐怖があった。

 すぐさま家の鍵をあけ、滑り込むように入る。この時俺は、後ろに彼女を乗せていたことを忘れていた。

 そして直ぐにそれを思い出すことになった。



「なんで私のこと置いていったの?」



 リビングに入ると彼女がそう言ってきたのだ。なぜ置いていったか? いや、俺は後ろに彼女を乗せていたはずだ。スーパーにだって言った。しかし、目の前にいる不機嫌そうな表情の彼女は置いていかれたと言っている。


「え? 後ろに乗ってただろ? お前こそなんで俺より先に家にいるんだよ。」


 そう言って俺は気づいた。俺が家に入ったあとに誰も入ってきていない。


「何言ってるの? 待っててって言ったのに、外にいたらもう居なかったじゃん。せっかく用意したのにさ。」


 目の前にいるのは正真正銘、俺の彼女であった。


「いや、ごめん。俺の勘違いだ。」


 そう言って俺はリビングを出た。その時彼女に何か言われたような気がしたが、俺の耳には入ってこなかった。


 自室で冷静になると、すぐまた恐怖が襲ってきた。


 俺が後ろに乗せていたのは何者なのか。

 その何者かは俺に何をしようとしたのか。

 あの少女は何なのか。

 あの少女に出会わせるために何者かは道を示したのか。

 なぜだ。


 思考は堂々巡りだ。

 考えたところで意味がわからないし、その度に恐怖が襲ってきた。


 もう二度と、こんな恐怖は味わいたくない。

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餅太郎の恐怖箱 坂本餅太郎 @mochitaro-s

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