(第8章) 終わりの始まり
それぞれ神妙な顔をしていると、エレナが「まずは、少しリラックスしてはいかがでしょうか?」と提案した。すると突然、脱衣所に新緑の香りが漂い、鳥のさえずりが聞こえてきた。
しばらくすると、体の力が抜けていくような感覚がしてきた。
「ただ今、森林浴を味わっていただいています。目を閉じて、森の中にいるのをイメージをして、深呼吸をなさってください。繰り返す内に、細胞のひとつひとつまで緩んでいきます。そして、ハートのあたりが温かくなってくるのを感じてみてください。頭の中から内臓の奥までリラックスして、体のすみずみまでエネルギーが循環していくのを味わってください」
エレナの声も、先ほどとは少しトーンが違い、聞いているだけで癒されていく。
しばらく森の中でくつろいでいると、「体と心がリフレッシュして、細胞もイキイキと蘇り、エネルギーに満ち溢れています。では、そのままの状態で、今に戻ってきてください。とても体と心が軽くなっていることに気づかれるでしょう」と再びエレナの声で、現実に引き戻された。不思議と、肩のコリが和らいだ気がする。
「これもリハビリのひとつで、イメージ療法、アロマ療法に波動調整を加えたものです。その他にも、リハビリでは、ヨガやアートセラピー、音楽療法、催眠療法なども取り入れています。AIにより、その人に合う方法をリサーチして、専用アンドロイドによって、ベストな療法を行います。エレナの声も、人が癒される波動に変換されています。いかがでしたでしょうか」
さっきより血色がよくなった保奈美さんが、説明してくれた。
海人君は「僕にはついていけない世界だ! けど、スゴイと思うよ。それで、僕達は何をすればいいんだよ。アンドロイドがすべてやってくれるなら、別に人間がやる必要もないだろう」と、もっともなことを言った。
「確かに、そうなのかもしれません。でも、人にしかできないこともあるのではないでしょうか。それをみつけていくことが、これからの使命のように感じています。いつか、敦さんが研究していることと、私達の考えている世界が統合することがあるように思うのです。私達が考える世界、それは、AIと人とが調和していく世界です。その為に、あなた達の力を貸してもらえないかと思ったのです。AIは完璧を目指して進化しています。それは世の中に役立つことですが、人の心が置き去りになることもあるような気がします。私は病気になったことで、弱気になりました。栞にしても、イジメられたことで人が怖くなりました。里穂さんや糸田さんは、たくさんの心の病気の人と向き合ってきたことでしょう。実際、世の中には、病気とまではいかなくてもストレスを抱えて生きている人も大勢いると思います。あるいは、夢を追っている人、海人君のように自分の実力を出し切れてない人、もっと、人が人として進化しながら生きていく為に、今まで研究してきたことが役立てないものかと思っているんです……」
熱っぽく語る保奈美さんに向かって、「ちょっと、ええですかねぇ」と、天作さんが遮った。
「なんや立派なことをおっしゃるけど、キレイごとのように聞こえるんですわ。ナマイキなことを言うてるのかもしれまへんけどな。わいは、お笑いの世界で挫折して、自分と同じように挫折してきた人も見てきましたわ。世の中、そない思うようにいくこともあらしまへんし、挫折したもんの心の歪みは、よう知ってます。妬み、嫉み、わいかて、そうや。弱い人間やさかい、一緒に遊んどった奴が先に売れた時は、『失敗したらええのに』とか、『邪魔したろ』とか思うたこともあります。そないな人間が、よう知らん未来の話をされ、手伝ってくれ言われても、無理ですわ。人を間違えたんちゃいますか。わいは、そないに立派な人間にはなれしまへん。あんたさんも、それなりの苦労されてきたちゅうのは分かります。けどな、保奈美さんとは生きてきた世界が違うんですわ。わいは今のまま、スーパーで働いて、生きれるだけ生きれればそんでいいんですわ。今日は、おもろい話を聞かせてもろうて、おおきに。わいは、これ以上話を聞いても、役には立てれまへんから、先、帰らせてもらいますわ」
天作さんは、不思議モードの話が限界だったみたいで、本当に帰ろうと立ち上がった。
「おい、ロン、なんとかしろよ」
僕は、心の中で呼びかけた。
と、その時、里穂さんが天作さんの袖を引っ張り、「帰るなら、もっと早く帰ればよかったじゃないの。私達は、ここまで聞いてしまったのよ。正直、私だって、わけの分からない話で、頭がパニクってるわ。でも、ここで帰るっていうのは、逃げるってことじゃないの。わいには、できないできないって。そんなのやってみてから考えりゃあいいでしょう。まっ、私だって、自分に自信なんてないから、偉そうなことは言えないんだけどね」と強い口調で天作さんを引き止めた。
「そんなの私だって、そうよ。AIの話から、急に神の領域だのと言われたって、理解できないわよ。それでも、なんとなく、そういうこともあるのかなぁっていうか。世の中、優秀な人達はたくさんいるわ。こう言っちゃなんだけど、私も含めて、完璧じゃない人間に、保奈美さんは難しい話をして、手伝ってほしいと言ってるわけでしょ。だったら、乗りかかった船ということじゃないのかしら」
直美さんも、天作さんのもう一方の袖を引っ張った。両方から袖を掴まれ、天作さんは観念したように、元の椅子に座り直した。この頃、直美さんも里穂さんの影響を受けてなのか、ハッキリと意見を言う。
まぁ、確かに、乗りかかった船っていえば、そうだな。
「お二人とも、ありがとうございます。少しずつ話していけばよかったのでしょうけど……。こちらも準備を進めていたものですから。それに、お一人、お一人の人間的な部分を知りたいという気持ちもありました。それには、ごく普通にお風呂に入り、世間話をしながらの方がよかったのです。難しい話をしていたら、それこそ、途中で来られなくなっていたかもしれませんものね」と保奈美さんは、女性達の助け舟に感謝した。
「僕は、最初と最後だけの参加だけど、ちょっと意見を言ってもいいかな。その前に、会社での出来事を聞いてほしいんだ」と、海人君が会話に入ってきた。
「もちろんです。ぜひ、聞かせてください」
保奈美さんに促され、みんなの視線も受け止めて、彼は会社での出来事を表情を変えることなく語った。
そして、最後に、「人間の心っていわれても、正直、分からないんだ。天作さんも言ってたけど、人間だから陰湿なイジメだってあるわけだろ。男の方が現実的だからなぁ。でも、アンドロイドが支配する世の中も怖い。どっちにしろ、会社は辞めるつもりだったから、僕にできることがあれば手伝ってもいいよ。正直、興味も出てきたし……」と、保奈美さんを真っすぐ見て言った。
今まで黙って見守っていた龍さんが「海人、辛い思いをしてたんだな。気づいてやれなくて、すまん。新しい一歩に進んでくれて、わしも嬉しい」と目を真っ赤にしていた。
そして、「あらためて、わしからも挨拶をさせてもらっていいですか」と、少し前の方に出てきた。
「今日まで来てくださって本当にありがとうございました。この銭湯をたたむという、わしのイベントに付き合ってくださって感謝してます。最初は、本当に銭湯をたたむつもりでブログも始めました。しかし……それが、終わりじゃなく、再生という運びになりまして。この年代もんの銭湯が、『古き、良き、未来の銭湯』として蘇ることになりました。保奈美さんから、『ここを丸ごと買い取り、使わせてほしい』と頼まれましてな。わしも、この先どうするか決めてなかったのと、海人の未来のことも考えて、彼女の提案を受け入れました。まずは、お湯と、脱衣所の空調、女湯を開放するという改装を行いました。ボタンひとつでお湯を、各地の温泉や、テーマ別の波動にすることができるらしいんですわ。今日のテーマは『癒しの湯レベル五』だそうです。癒しレベルも一から七まであって、七ですと、お湯に浸かったまま寝てしまいます。富士山の絵にしても、お湯に合わせて風景が変わるように、これから改造する予定です。それと、脱衣所や風呂上がりの飲み物も、人が元気になるよう進化させていくらしいですわ。正直、わしも、ついていけないところがあるんで、操作は専門の人にお願いして、わしは番台に座ってるだけにするつもりです。すんませんなぁ。最後のつもりが、始まりの銭湯になってしまいましたわ」と、ご主人は照れくさそうに、また頭を掻いた。
「今日は驚いてばかりだな。いいよ。風呂焚きでもなんでも手伝うよ」と海人君は、今まで見たことのないような明るい笑顔を見せた。
孫の言葉を受けて、「いや、銭湯は、わしの聖地だ。まだまだ渡さん。おまえには、他にやることがあるらしいぞ。それは、保奈美さんに聞いてくれ」と、龍さんは晴々とした表情をして言った。
(心から海人君の再起を喜んでるんやなぁ)と、ロンのホッとした思いも伝わってきた。
で、僕は何をすればいいんだろう?と首をかしげていると、保奈美さんが、こちらを向いた。
「あっ、佐々木さんは……。あの、ブログが面白くて。ロンというワンちゃんが、イギリスで私に助言してくれたロンさんと、同じ名前でしたので、ご縁を感じたんですよ。サラリーマンを辞めてくださいとは言いませんので、ご安心ください。佐々木さんには、ただお話を聞いていただければ、それで充分だと思っております。よろしければ、今度、ロンちゃんにも会わせてくださいね」
なんだ、話を聞くくらいなら、僕にだってできるぞ。その内……メリーちゃんにも会えそうだな。ロンの奴も喜んでるかと思えば、(それは、どうやろなぁ)と少し寂しそうだ。まだ、何か事情があるとでもいうのだろうか……。
天作さんは「分かりましたわ。どうせ、この先、たいした人生でもありまへんからな。わいにできることがあれば言うてください」と、どうやら抵抗しても無駄だと悟ったようだ。
保奈美さんは嬉しそうに、「ありがとうございます。詳しいことは、それぞれ個人的にお話しさせていただきますね。みなさん、本日は長い時間、お付き合いいただいて、お礼の言葉もありません。これで、私からお伝えすることはすべてです。龍さん、本来なら、龍さんのお疲れ様会のはずが……」と最後の方は涙声になり、言葉に詰まっていた。
龍さんは「泣かんでください。わしこそ、銭湯を続けられるとは思ってもいなかったんで、ありがたいことですわ。『お湯に浸かろう会』は、これを最後にしようと思ってますが、どうぞ、みなさん、お好きな時にお湯に浸かりに来てください。それと、あっ、よければですが、あの、保奈美さん、これからも茶飲み友達でいてもらえませんか」と、少年の頃に戻ったような初々しさで告白をした。
保奈美さんは「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」と、泣き笑いの顔で返事を返した。初美さんと栞ちゃんも顔を見合わせ、微笑んでいた。
里穂さんが「一番年上の佐々木さんから渡してください」と、ロッカーに隠してあった花束を持ってきた。みんなで用意していたものだ。
僕は「では、銭湯の蘇りをお祝いして。それと、龍さんと保奈美さんの茶飲み友達のお祝いも兼ねて。おめでとうございます」とヘンな祝辞を述べて、花束を龍さんに手渡した。この場にいる全員が温かい拍手を送り、『お湯に浸かろう会』の幕は閉じた。
その時、ロンが(アンドロイドのエレナも、なんや目が潤んでへんか? ほれ)と僕にエレナを見るよう、テレパシー?で目配してきた。
拍手をしているエレナをチラッと見ると、確かに目の奥が光っている。それが涙なのかどうか……僕には判断がつかなかったけど。
外に出ると、すっかり暗くなっていた。来る時に降っていた雪は止んで、夜空には小さな星が輝いていた。
天作さんは「東京でも、星が見えるんですなぁ」と、大きく伸びをしていた。
「そうですね。地球も宇宙から見たら、小さな星なんでしょうね」
僕も星を見ながら答え、遠い未来から現実に帰ってきたようで、なんだか懐かしいような気持ちになっていた。
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