(第7章) 思わぬ形見
張りつめた空気の中、エレナが一人一人に水の入ったグラスを手渡していた。僕のところにも回ってきて、透明なグラスを差し出された。アンドロイドと分かっていても、目が合うとドキッとしてしまう。
さっそく飲んでみると、普通の水だった。カラカラの喉を潤すには、甘い飲み物よりスッキリした感じはする。でも、まぁ、水は水だな。
そんなことを思っていると、エレナが「今、みなさまにお配りしたお水は『ハーモニー』といいます。ハーモニーというのは、体と心に調和する水という意味なのです。天然水を人間の体液に合わせ、究極に加工してあり、体の奥深く、細胞の隅々まで浸透していきます。効果は、飲む人の症状により異なりますが、心身の活力を蘇らせる働きがあります」と特殊な水の紹介をした。
「へぇ~、これがですか。スーパーで売ってるミネラルウォーターとは、ちゃうんですか? わいも、たまに棚落ちした商品を安く買うたりしますけどなぁ」と天作さんは、グラスを眺めて、目を丸くしている。
保奈美さんは、天作さんに軽く笑みを返し、「体の六十~七十パーセントは、水でできているといわれてますから。これは体と心を整える基本のお水で、特別に作っていただいたものなのです。それでは、先ほどのリハビリの続きをお話しします」と、グラスの水を飲み干した。
「マイクロチップの研究が進めば進むほど、私達夫婦と、娘婿の敦さんとは対立していきました。彼は、頭だけではなく、内臓、筋肉などにもAIチップを埋め込み、各臓器や筋肉を意識コントロールできないだろうかと考え始めました。それこそ人造人間です。生きた人間の機能を高め、寿命を延ばしていくことを目指していこうとしていました。だからでしょうか、敦さんは、一度埋め込んだチップについては、改善手術はしましたが、取り外すことに関しては反対でした。それは、外した後のケアの難しさを知っていたからかもしれませんが……。実際、一度取り外した人が、その後、以前より症状が重くなり、薬漬けになってしまったケースもありました。あるいは、再度、チップを埋め込んでほしいと頼まれることも……。私達と、敦さんは、一人の女性の死をきっかけに研究室を分けることになりました。まだ二十二歳だった彼女は、チップを外した後、苦しんで苦しんで、自ら死を選びました。遺書には『私は、人間のまま天国に行きます』と書かれていました。それからです。夫が、チップを外した後のケアについて、全力で取り組むようになったのは……。人が人として全うできる人生とは? おかしなもので、AI技術の進化が進むほどに、人として生きるには?という問題と向き合うことになっていくのです。決して、現代の進化した医療や薬を否定するのではなく、融合できればと考えていました。人間も多様化していて、化学療法が合う人もいれば、自然療法が合う人もいます。そこには、持って生まれた宿命というのも関わっているようなのです。夫は、私を助手にして、精神論から運命論、自然療法などを調べ、波動やエネルギーの分野にまで研究するようになりました。もちろん、一人では無理なので、研究員も二極に分かれていきました。私達は、どこそこに、こんな物があると聞けば、そこまで足を延ばし話を聞きに行ったのです。中には、まがい物もありましたけど、素晴らしい製品や食品、フリーエネルギーの開発をしている会社が世界中に存在していました。そして、私達はすぐれた物と、私達のAI技術を融合させ、使う人に適合させていけるように微調整して、リハビリに使っていきました。それは、向井さんや糸田さんだけではなく、チップを埋める前の人にも、効果を発揮しました。実は、この銭湯も前回の集まりの後に改装しました。先ほど入られたお湯も、『癒しの波動』をインプットさせたものです。空調、室温、それと波動も、人が心地よいという場に設定してあります。「波動」は、「気」と解釈していただいてけっこうです。お湯にしても、どこかの温泉の湯に設定することも、ボタンひとつでできますし、場の波動についても、希望の場所、たとえばパワースポットといわれる神社、あるいは世界のどこか、ハワイやマチュピチュの波動に合わせるということも可能です。それと、今座っていただいてるクッションも、長時間座っていても疲れないヒーリング効果があるものです」
保奈美さんの話を聞きながら、僕の頭は少々パニックになっていた。不思議な世界に多少は慣れている僕でさえ、こんな状態だから、みんなは話についていけてるのだろうか? まぁ、さっきのお湯も気持ちよかったし、ここは暑くも寒くもないし、長い話を聞いていても、確かに疲れない気がする。う~ん、けど、けどなぁ、前にご主人が用意してくれた火鉢に情緒があるように思うのも、事実だった。
またしても、その声が聞こえたかのように、保奈美さんは「どんなに心地よい波動に整えても、みなさんの中には、火鉢の温もりの方がいいと思われる人もいらっしゃるでしょう」と話しだした。
「えっ」
僕はテレパシーで伝わったのかとびっくりしたが、彼女はそのまま、表情を変えることもなく話を続けた。
「結局、AI技術がどんなに発展しても、人が求めるものは、それぞれに違うものなんですよね。便利を不便と感じる人もいるでしょう。それに、どれほど健康にいい食品を食べ、波動を整えても、病気になる時は、なってしまいます。亡くなった主人にしても、私にしても、心労や日々の疲れの方が、未来の技術より勝ったのでしょう。何が正しいのか私にも分からないところはあります。進化することだけが正解なのかどうか……。生前、主人が申しておりました。『じきに髪の毛一本で、一人の人間の情報がすべて分かってしまう時代が来るだろう。遺伝子情報から、性格、体や心の状態、未来のことまで……。自分と同じ人間を作ることもできるようになるだろうし、特別な能力をチップにインプットすれば超人にだってなれるかもしれない。僕は怖くなったんだよ。AIが人間を超えてしまうことがね。でも、その反面、人は魂の領域という世界を持っていて、AIは、そこまで辿り着くことができるのだろうか。そんなことも考えるんだ』と。夫は実際に亡くなる直前には、魂の領域に踏み込んだのではないかという気がしていました……。でも、夫は何も資料として残すことはしませんでした」
その時、女湯の入り口がガラガラと開いた。ここの入り口の部分は、レトロのまんまなんだなぁと、ヘンなところで感心してしまった。
そして、一人の女性が入ってきて、「お母さん、あるのよ。お父さんが残した資料が……」と言った。
「初美! なんで、あなたが?」
保奈美さんは驚き、「ママ!」と栞ちゃんは、靴を脱ぐ女性に駆け寄っていった。今まで父親のイヤな部分も聞かされてきた彼女は、母親の姿を見て安堵したような表情をした。
「栞、大丈夫? 今までの話は、近くに止めた車の中で聞いていたわ。ごめんなさい。栞の服に盗聴器を付けておいたの。お母さんが、どこまで話すのかも分からなかったから、外でとりあえず待機していたのよ。みなさん、母のしたことを許していただけますか。私からも謝ります。本当にすみませんでした。それと、私の話も聞いていただきたいのです。お母さんと栞にも……。よろしいでしょうか?」
初美さんは潤んだ目で訴えた。
保奈美さんが「聞かせてほしいわ」と言うと、この場にいる全員が頷いた。
初美さんは、栞ちゃんと一緒にみんなの輪の中に入り、思い切ったように話しだした。
「ありがとうございます。……お母さんは病気になってから、一切、研究室のことはタッチしなくなったわね。敦さんも、内心はホッとしていたわ。あの人はあの人なりに、未来のテクノロジー技術に貢献したいと望んでいたのよ。私……栞の前だけど、敦さんが最初から私ではなく、AIの技術に興味があったことを知っていたわ。それで、私に近づき、縁談を進めたことも……。でもね、私はそれでもよかった。彼のことが好きだったから。栞も産まれ、幸せだった。母親として、この子がどんなに発達が遅れていようが愛していたわ。だけど、私がちゃんと産んであげていればと、私のせいで栞が辛い思いをするのが耐えられなかったの。マイクロチップを埋めてからの栞は、別人のように明るくなり、毎日が楽しそうだった。嬉しかったわ! けど、その反面、怖かった。何か副作用があるんじゃないかって。それに、敦さんが進めている人造人間のことも、信じられない世界の話で……。彼が酔っ払って、つい口にしたのを聞いた時、ゾッとした。私は、平和で穏やかな家庭を築きたかっただけなの。だから、なるべく関わらないようにしようと思った。お母さんが、船旅に出かけるようになって、敦さんの機嫌もよくなったわ。でも、お母さん、もう一度、何かをしようとしているのよね。それは、あの人と対立することなんでしょう? 実はね、お父さんが亡くなる少し前、こっそり呼ばれたのよ。その時、お父さんから……一冊の本と走り書きの手紙を託されたの。……その内容を読むわね。
『初美、お母さんより長く生きるだろうから、これは、おまえが持っていなさい。私が行きついたAIの限界の資料だ。まだ、完成とはいえないが……。世の中に存在する特別な能力を持った人達のデータと、その能力を統合してインプットしたマイクロチップがはめ込んである。魂に刻み込まれたカルマ……使い方によっては、国や地球そのもののカルマさえ消すことができる。もちろん、神……神と言っていいのか分からないが、宇宙の絶対的な存在の許しがあればだがな。心を越え、魂の域まで清め、現実の争い、苦しみさえ変えられるのだ。これがあれば、いわゆる神に近い能力を使うことができるだろう。しかし、それが平和の為に使われればいいのだが、そうでないことも考えられる。私は人の善を信じたい。だが、もし世の中が良くない方向に動き出した時には、これを私の意志を継ぐ研究者が残っていれば渡してほしい。もしかしたら、地球の未来を変えられるかもしれん。使うことがなければ、誰にも口外せず燃やしてほしい。頼んだぞ』
本の方は少しだけ読んでみたけど、私には理解できないことが書かれてた。お母さん、この資料は、お母さんに渡すわ。敦さんには話すつもりはないから安心して。それから、栞。ママのことは心配しなくていいから、栞の望むように決めてね」
初美さんは話し終えると、一冊の本を保奈美さんに渡した。
「そう、そうだったのね……。初美、ありがとう。確かに受け取ったわ。いつか信頼できる人間をちゃんと見極めて、その人に託すことにするわ。お父さんは、半分、これを葬るつもりで、あなたに渡したのね」
保奈美さんは、亡き夫の形見を胸に抱きしめた。
龍さんが「はぁ」と溜息と共にうつむいたのを、僕は見逃さなかった。
その時、天作さんが「愛やで~、愛なんや」と突然、叫んだ。
なんだなんだ、どっかで聞いたセリフだぞ。もしかして……ロンなのか?
「すんません、突然、湧き上がってきましてな。『愛やで~、愛なんや』って。わいには、難しいことは分かりまへんけど……。どないな超能力があっても、愛で使わないかんのやないですか。ご主人が、まだ完成してない言うたんは、それには本物の愛のエネルギーを、まだインプットできてへんちゅうことやないですかねぇ。確かに、本物の愛ちゅうのは難しいもんやさかい。ご主人が葬ろうしたんは、それを分かってて、このまま公にしたら危険やと感じたんだと思いますわ。あぁ、なんか、いらんこと言うてしまいましたな……」
天作さんは、少し照れていた。
里穂さんが「凄いわ。私も、そう思う」と、天作さんの腕を取った。
(なんや、わいが伝えてるんやけどなぁ)とロンが、みみっちいことを伝えてくる。天作さんの口を使って伝えるとは、ロンも、またまた進歩したじゃないか。
天作さん、これは本人らしいが、「それで、わい達は、どないしたらええんですかね? わいは、お笑いの世界で挫折した人間やさかい、何もできしまへんで。凄くなんて、あらしまへん」と里穂さんの手を、やんわりほどいた。彼女は一歩引いて、寂しげな表情をした。
保奈美さんは、それに気づかないふりをして、「私も天作さんのご意見、凄いと思いました」と言った後、みんなの方に顔を向け、続けた。
「まずは、ここまでお付き合いいただいて、本当に感謝しています。思わぬ、夫からのプレゼントも知り、あのまま投げ出さないでよかったと感じてます。それでは最後に、これからのことをお話ししますね」
それを聞いていたロンが、(わいかて、宇宙の使命を果たすでぇ)と、頼まれもしてないのに張り切っていた。
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