(第3章)  保奈美さんの過去

保奈美さんは、拝むように手を合わせた。

「ありがとうございます。話を聞いていただけること、心から感謝します。栞、栞にも、ちゃんと伝えないといけないことがあるのよ。それで、今日は連れて来たの。あなたは、これから私が話すことを聞いて、自分の人生の選択をしなさい。みなさんも、どうぞ、ご自身で判断なさっていただければと思います。まずは、私自身のことから話さなければなりませんね。私は、幼少の頃、こちらの銭湯の近くに住んでおりました。父は機械メーカーの社長をしていて、裕福ではありましたが、厳格な家庭で育てられました。この銭湯の前を通る度、たくさんの人と大きなお風呂に入りたいと思っていました。ある時、薪を運んでいた龍さんが、『いつか、入りにおいでよ』と声をかけてくれました。体の弱かった私は、真っ黒に日焼けした少年がとても逞しく思えて、私は私で、龍さんに憧れていたんです」

そこまで話すと、彼女はチラッと龍さんの顔を見た。

「わしなんかが、気軽に話しかけられる相手ではないと分かっていて……。いつも、ここの前で立ち止まっては溜息をついているお嬢さんに、あの日は、つい声をかけてしまったんですなぁ。色白でホントに可愛かった」

龍さんはそれがクセなのか、また照れたように、頭を掻いた。そして、「すみません。話の途中で……。どうぞ、続けてください」と、先を促した。

保奈美さんは「いえ、あの時に声をかけてもらって、どれだけ嬉しかったことか……」と微笑んだ。二人は、その頃に戻ったような初々しい表情でみつめ合い、保奈美さんは「それから……」と話を続けた。

「それから数年後、私が高校に進学するのを機に、私達家族は、この街を離れることになりました。高校、大学と進み、女子大を卒業するとすぐに、父の勧める相手と結婚しました。それが亡くなった主人です。彼は、とても頭のいい人で、ある研究の第一人者でした。私は一人娘を産み、母親としては幸せでした。けれど、主人は仕事に没頭していて、妻としては満たされてはいませんでした。それが……。娘が中学生になった頃、『会社を立ち上げるから手伝ってほしい』と打ちあけられたのです。何人かの研究者が主人についてきてくれるということでした。私は突然のことに驚きました。今まで、経営のことなど全くの別世界のことと思ってましたから。でも、彼の役に立てるならと、それからは全力で学びました。社会に出たことのない私は、当初は戸惑うことばかりでした。それでも、二人三脚で、なんとか会社を軌道に乗せるところまで辿り着きました。私は、主人と心を通わせ合えたことに喜びを感じられたのです。娘も成人し、主人の右腕になってくれていた人と結婚しました。私達が無理に勧めたわけでもなく、自然に会社のイベントで顔を合わす内に恋愛関係に発展したと聞きました。しかし……。ここからの話は、栞にとっては辛い内容になるかもしれません。それでも、孫にも知ってほしいと思っています。娘の結婚から、何かが変わっていきました。栞の父親、敦さんは婿養子となり、ゆくゆくは主人の会社を継いでいくはずでした。けれど、娘婿の敦さんと主人は考え方の違いから、十数年後、研究室を分け、経営も別々にすることになったのです。そして、主人が亡くなり、会社は表向き合併しました。表向きというのは、内情は派閥ができていて、主人の会社の社員は私が実質、まとめていたからです。しかし、心労がたたり、私は倒れてしまったのです。心臓の病気でした。幸い病状はそれほど重くはなく、手術で回復はしました。しかし、敦さんから引退を勧められたのです。私も病後で気弱になり、静かに余生を送りたいと思うようになっていました。それからの敦さんは、人が変わったように私に優しく接してくれるようになりました。そして、『お義母さん、これからは楽してください。僕が船旅を予約しておきました』と、旅の手配を何から何までしてくれたのです。今までゆっくり旅行したことのない私は、船旅など夢のような世界でした。私が旅から戻ってきて感謝すると、次の船旅の準備がしてありました。それからは、年中どこかの船の上にいました。お友達もでき、世間から隔離されたような場所は、私から考える力を奪っていきました。一人の友人から、『ねぇ、知ってる? 裕福な年寄りは、船旅が老人ホームになっているっていうこともあるらしいわよ。食事や日常的なサービスも万全で、船には医師や看護師もいるから、何かあっても対処してもらえるでしょ。それでいて退屈しないんだから、天国みたいな場所よね。家族に無理やり行かされている人もいるらしいわ』と聞き、その話は私にとって衝撃でした。敦さんは、私を遠ざけておきたかったのでは?と思うようになりました。そんなある日、船の中で出会ったロンというイギリス人の男性から、『あなたは、こんな贅沢な旅をしているのに、少しも嬉しそうじゃないですね。ここは夢の国だ。あなたは、現世でやり残したことがあるんじゃないですか?』と、そう言われたのです。私は、その言葉にハッと目が覚めたような気がしました。湯水のようにお金を使い、いったい私は何をしているのだろう? その旅を最後に、私は家を出て一人暮らしを始めました。敦さんは次の旅行の予約もしていたらしく、激怒しました。娘も栞も、てっきり私が楽しんで旅行に行ってると信じていたのでしょう。私の突然の決断に唖然としていました。私は、娘婿に、『そんなお金があるなら、どこかに寄付してちょうだい。私は、もう一度、自分で自分の人生を歩いていきたいの』と、キッパリと宣言をして荷物をまとめました。最初は不安な気持ちもあり、後悔もしました。けれど、穏やかな日常を過ごし、それをブログに綴っている内に生きる気力を取り戻していきました。そんな頃に、龍さんのブログをみつけたのです。どこかくすぶっていた、やり残してきた気持ちが私を動かしました。そこから、みなさんのことを調べ、龍さんと直接に会うことにしたのです。表だって動くことは控えました。私には、娘婿の監視の目があったからです。今、住んでいるマンションの隣の看護師は、私を見張る為に、敦さんが派遣した女性です」

祖母の話す内容に衝撃を受けたのか、栞ちゃんから先ほどまでの笑顔が消えていた。

「パパは、そんなことまでしていたんだ。ママは、おばあちゃんの病気を心配してのことだと思ってる。ヒドイよ! それで、おばあちゃんは何をしようとしているの?」

「栞、パパを責めないで。価値観の違いなのよ。おばあちゃんは、おじいちゃんの意志を無駄にしたくなくてね。詳しいことは順を追って話すわ。みなさんのプライベートを勝手に調べたことは、犯罪だと理解しています。だからこそ、その謝罪の意味でも、今日はすべてをお話しするつもりでおります」

保奈美さんは、栞ちゃんを落ち着かせるように、優しく彼女の手を握った。

龍さんは、そんな二人の様子を見て、「栞ちゃんも、それに、みなさんも、保奈美さんのことを悪く思わんでほしい。わしは彼女の決心を知って、海人の為だけじゃなく、協力したいと思ったんじゃ。大袈裟かもしれんが、人類の未来が変わるくらいに感じたんでな。どうか、理解できんこともあるとは思うけど、わしらだけでも保奈美さんの味方になりませんかねぇ」と、また、手を頭に持っていった。

「龍さん、ありがとうございます。でも、味方になってほしいと、強制するつもりはありませんので。ここからの話は、『お湯に浸かろう会』を発足してからのことになります。出会って間もない人達というのもあり、みなさん、気楽に世間話をする程度でしたね。でも、今日は……守秘義務はあるかとは思いますけど、直美さん、里穂さん、職場のことを話していただけないでしょうか。実は、これから話すことと関連しているんです。みなさんにご理解していただくには、どうしても公表していただく必要があるのです」

突然、保奈美さんから名前を出された二人は、驚いて顔を見合わせた。

「あの、話すと言われても……。どんなことをしゃべればいいんでしょうか? あっ、みなさんのことは信頼してます。決してペラペラと口外する人達ではないと思ってますけど……」と、直美さんが戸惑いながら言った。

「いきなり驚きますよね。直美さんに話していただくのは、初めて集まった時に抱えていた問題のことです。ブログで、ある親子のことを、虐待ではないかと悩んでいましたよね。その後、詳細は伏せたまま、無事に解決したとだけ報告してくれましたね。そのいきさつを話していただきたいのです。その子の母親から聞いた話も、できるだけ詳しく……」

保奈美さんの言葉を受けて、直美さんは「……分かりました」と、その時のことを思い出しながら、慎重な口調で話し始めた。僕も気にしていたことだけに、彼女の話に真剣に耳を傾けた。直美さんが話し終わると、ほぅ~っと、みなが息をついた。里穂さんは、どうやら事前に聞いていたようだった。

次は、里穂さんの番だった。保奈美さんが「この会が始まってから、職場に新しい看護師さんが赴任してきましたよね。その人のことを、どう思われましたか?」と彼女に尋ねた。

里穂さんは、しばらく考えていたけど、「糸田さんのことですか。言葉にすると難しいのですが、職場の雰囲気が少しずつ変わっていったように思います。私のこともさりげなく気にかけてくれて……」と、彼女らしく淡々と話した。

二人の話を聞いた後、保奈美さんがその先を続けた。

「今、聞いていただいた内容で、直美さんが口にした、風子ちゃんのママを救った女性、名前はお忘れになったみたいでしたが、向井さんとおっしゃいます。もう一人、里穂さんの病院に赴任してきた糸田さんという看護師さん、実は、このお二方は、私が派遣した人達なのです。そのことについて、これからご説明します」

直美さんと里穂さんは、唖然としていた。いったい何が起こっているのか?把握できないという顔だった。

もちろん、僕にしても天作さんにしてもだけど……。海人君は、ただ黙って、この状況を眺めていた。そして、ロンはといえば……(いよいよ、本題に入るな)と、ポツリと言った。

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