(第5章)平松海人の今 (その2)海人の職場

通い慣れた道を、真っ白な能面のような顔で海人は歩いていた。

「今日も戦いだな」と、会社のドアを開ける。彼は今や、この会社にとって即戦力ではなく、コピー取りやクレーム処理などの雑用係だった。

席に着くなり、「おい、昨日の資料のコピーできてるのか? 十時からの会議で使うんだからな」と、年下の社員から命令口調で言われた。

「あとクリップで留めるだけです」

海人が手を止めることなく返事をすると、「早くしろよ。昨日の内にやっとけ。ったく、役に立たない奴だな」と、ののしられた。

女子社員からも、「倉庫の荷物を片付けといて」と上から目線で頼まれ、顔をしかめようものなら、「お金もらってここにいるんでしょう。はいはい、怒らない怒らない」と、バカにしたように嘲笑われる。

そんな日が毎日、毎日……続いている。怒りは、もう湧いてこなかったが、生きる気力を失わないよう、今日も「自分との戦い」だった……。

海人の会社は、公園や緑地計画から、リゾート施設などの総合コンサルタントを請け負っていた。親会社ほどの規模ではないが、公園の緑地化、大学や施設の広場のデザインなど幅広く手掛けている。

海人は、父親の影響もあったのか、いや、父親への反発心からなのか、造園デザインに興味を持ち、専門の勉強をした。実は、入社したのは親会社の方で、その時の彼は、夢と希望に溢れていた。

そんな意気揚々と入社してきた新人に目をかけてくれたのが、佐竹という先輩だった。海人に手取り足取り仕事のことを教え、個人的な相談にも乗るようになっていった。四十歳になる佐竹は、人の好い性格が災いしてなのか、出世コースから外れ、肩書もなかった。

この会社では、我先にと人を押しのけるくらいの気持ちがないと出世できないのだ。営業、設計、施工、それぞれが社内で連携して仕事をしているのだが、ビミョーな食い違いから、取引先とトラブルになることもあった。そんな時に、「伝えてある」「いや、聞いてない」など責任のなすり合いになり、押しの強い人が勝ち、弱い人間は結局ミスをかぶることになる。

大きなリゾート施設などの物件では、億単位の損失になることもあり、一度のミスで、あっけなく出世コースから外れる場合もあった。一人でいくつもの物件を抱えているので、小さな問題やトラブルは日常茶飯事である。就業規則で、時間がくれば空調システムもストップして、遅くまで残業はできなかった。

しかし、設計などの部署は、家に持ち帰り、土日も休めない日があるほど忙しかった。忙しくなれば集中力も衰え、些細なミスも起こる。土木の現場の人間は気の荒い者もいて、それを抑えて仕事をしてもらうには、コミュニケーション能力も必要になってくる。

海人は厳しい環境を理解し、それでも、今の会社で実績を積んで、環境デザインに関するいくつかの資格を取ることを目指した。

佐竹は、海人がミスをすればフォローをし、盾になって庇った。中学生の頃に父親が家を出てしまった海人にとって、まるで親代わりのような存在となった。

三年が経ち、海人もなんとか一人で物件を任されるようになった頃、突然、佐竹が自殺をした。あまりのことに海人は言葉を失い、しばらく立ち直れなかった。

どうしてなんだ? やっと仕事を一人でこなせるようになった彼は、自分のことで精一杯で、周りを気にかける余裕がなかったのだ。

気落ちした海人に声をかけたのが、佐竹の同期である山本課長だった。

「おまえには、本当のことを話してやるよ。佐竹が目をかけていたからな。まぁ、一杯付き合え」

そう飲みに誘われた。その夜、山本の行きつけの店に連れて行かれ、そこで聞いた話を、海人は一生、忘れることはないだろうと思った。

「そう緊張するな。俺の顔くらいは知ってるだろ。佐竹とは同期でな。あいつは、この会社には向いてなかったんだ。いや、多かれ少なかれ、サラリーマンの宿命なのかもしれんがな。男社会も大変だよ。まっ、遠慮せずに飲め」

山本は、海人のグラスにビールを注いだ。なみなみと注がれたビールを、海人は一気に飲み干し、「それで、佐竹さんは、なぜ? 自殺なんてことを……」と、山本課長の顔を見た。

「そう、あせるな。俺も少し酔わないと話せない。ツマミは適当に頼むぞ」

山本は、自分のグラスにもビールを注ぎ、メニュー表を広げた。

枝豆や焼鳥などのツマミが揃い、二本目のビールを開けた頃、「佐竹は、会社という怪物に殺されたようなもんだ」と、山本はおもむろに口を開いた。

「えっ? 殺された?」

海人が思わず声に出すと、「そうだ」と山本は頷き、話を続けた。

「おまえは知らないだろうが、ウチの会社は年に数人の自殺者が出てる。この前も、結婚を控えていた三十歳の奴が死んだ。自殺じゃなくても、過労から病気になり亡くなる奴、あるいは、精神的におかしくなる人間もいるんだ。労働条件が厳しいのは、まぁ、ウチだけじゃないだろうがな。佐竹は、ストレス解消の標的にされたんだよ。以前から目はつけられていたんだが……。エスカレートしたのが、ちょうど、平松が隣の課に移った頃だから、気づかなくても仕方ないさ。それに、後輩に愚痴を言う奴でもないしな。厳しい仕事環境の中、誰もがストレスが溜まる。酒やギャンブルで解消されてる内はいいが、その内、イジメが始まる。イイ歳をした男がと思うかもしれんが、ホントのことだ。幼稚園児でもしないようなイジメを実際にやるんだよ。まぁ、子供じゃないから、余計に手が込んでいるし、やりきれないよ。元々、ウチの社じゃ、ミスのなすり合いみたいなところがあるだろう。それを複数の人間が裏で示し合わせ、一人の人間に押し付ける。そんなことは、序ノ口だ。気に入らない奴には、わざとミスを誘発させ、毎日毎日、ネチネチと『これは、どうしてこういうことになったんだ?』と何度も何度も説明させ、仕事をさせないようにして、新たなミスを促す。社員の前で罵倒され、叱責されている内に、言い返す気力もなくなっていくんだよ。ストレスが溜まっている人間は、イジメに加担していくようになり、エスカレートしていく。『おまえ、そんな大学で、よくこの会社入れたな』とか、『出世もできず、家族が気の毒だな』と本人に聞こえるように言い、周りの人間も巻き込んでいくんだ。身体的なことを嘲笑う奴もいたな。それこそ、子供でも言わないことを、おっさん達は平気で口にする。普通の人間が怪物になっていくんだ。そうじゃないと、ここではやっていけないのかもしれん。それでいて、仕事の責任ものしかかってくるから、よっぽどの人間じゃないと、ターゲットにされた場合、まいっちまう。上の方でも把握してるんだろうが、見て見ぬふりだ。あいつは……。佐竹は単身赴任でな。地元に年老いた母親と、嫁と娘二人を置いてきてるんだ。親の介護の為に、地元に戻りたかったらしいんだが、それも叶わず、母親が亡くなったらしい。母親一人で育てられたらしいから、それも堪えたんだろう。派閥や蹴落としなんて、まっ、世の中では珍しいことじゃないさ。いいか、この話は、すぐ忘れろ。ここで出世したいなら、勝ち組になるしかない。勝てば楽しいこともある。長いものには巻かれるしかない。佐竹も、おまえの出世を願ってるさ」

山本は帰り際、怒りを抑えている海人に、「おまえに話したのは、気をつけてほしいからだ。けどなぁ、聞いたことは忘れろ。いいな」と、もう一度忠告した。

だが、海人は忘れることはできず、上司との面談の時に話してしまった。

「そんなことが、普通に起こってるなんて、おかしいです」と、正義感から口にしてしまったのだ。その時は、「一応、上にも伝えておく」という返事だったが、海人は、そのまま関連会社に飛ばされ、ロクに仕事も与えられなくなってしまった。

ますます希望を失っていったが、祖父のことを思うと、簡単に仕事を辞めることもできなかった。挫折した父親のようにはなりたくないという気持ちもあった。そして、現実から逃れるように、ブログの仮想世界へとのめり込んでいったのだった。

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