(第5章)平松海人の今 (その1)偽りのブログ
今夜も酔っ払い、平松海人は重い足取りで家に向かって歩いていた。銭湯と隣接している、昭和を代表するような瓦屋根の家が彼の住まいである。
ガラガラと引き戸を開け、土間で靴を脱ぎ、いつものように台所に向かう。古びたテーブルの上には、祖父の作ったおかずと、ご飯茶碗など、夕食の用意がしてあった。
海人は「どうせ食べないから、僕の分はいらないよ」と何度も言っているのだが、「残ったら、次の日に食べるから、かまわん」と、祖父は毎日、孫の為に夕食を作り続けている。
「重いんだよ」
海人は小声で反抗してみるが、直接、祖父に向かっては言えない。
祖父と二人の生活は、もうすぐ十二年になる。中学に上がる頃、父親が家を出ていった。それから三年後に母親を病気で亡くした。母親は病気で亡くなる直前、父親が家を出た理由を、遺言のように息子に話した。
「あなたのお父さんは、きっと窮屈だったの。前はね、インテリアデザインの会社を経営していたんだけど、うまくいかなくなっちゃって。それで、私の実家に世話になることになったの。ちょうどあなたが小学三年生の頃よ。次の仕事が決まるまでのつもりが、なかなかお父さんの気に入るような仕事がみつからなくてね。その内……貯金も底をつき、お父さん、プライドが高い人だったから、妻の実家に世話になっていることが息苦しくなってきたんだと思うわ。私も体が弱かったし、お父さんの実家とは結婚を反対され疎遠になっていたから、今さら連絡もできなかったの。お父さん、段々と家を空ける日が増えたわ。あなたには出張だと言ってたわね。ギャンブルで借金も作ったりしていた。おじいちゃんも頑固なところがあるでしょ。それで、とうとう衝突して、家を出て行ってしまったのよ。この家を出て二年後、私だけに連絡があったわ。再婚したい人がいるから離婚してほしいと頼まれたの。お母さん、この家に連れて来たことを申し訳なく思っていたから、お父さんのことを責めることもしないで印鑑を押したわ。あなたのことは、とても気にしてたのよ。それはホント。でも、新しい家族を作るお父さんのことは、海人には隠しておきたいと思った。今まで黙ってて、ごめんね。お母さんは、もう長くはないと思う。だから、どうしても伝えておきたいことがあるの。あなたは、この銭湯を継ぐ必要はないからね。どんなにおじいちゃんに世話になったとしても、恩を感じて家を守らなければいけないと、重荷に感じないでほしいの。分かったわね。あなたが幸せだと思う人生を選択しなさい。幸せになった上で、おじいちゃんを助けてあげてほしい。それが、お母さんの願いなのよ。いい、まず自分の人生を大切にするのよ」
海人は母の言葉を受け止め、大学を卒業したら家を出るつもりでいた。しかし、ちょうどその頃に祖父が階段から落ち、足を骨折してしまった。
さすがに、その状況では家を出ることができず、そのまま就職した。仕事が落ち着いてからと思っている内に、あることがきっかけで、海人は人生に希望を見出せなくなってしまった。自分の将来なんてどうでもよくなり、家を出る気力もなくしていった。
祖父は「わしのことは気にせんでいい。家を出ていくなら、それもいい。おまえの望む人生を生きてくれ」と海人に伝えていた。龍一郎は、娘に対しての自責の思いを忘れることはできなかった。
そして、海人は本当に生きる気力を失わないようにと、軽い気持ちでブログを始めた。最初は、等身大の自分のまま、正直に書いていくつもりだったのだが……。それは、あまりに地味で情けないので、少しずつのウソを織り交ぜて書いていく内に、いつのまにか仮想の世界で生きる自分を演出していくようになっていた。
有名企業に勤めているというのも、全くのウソではないが、大手企業の関連会社である。英語やドイツ語、フランス語、なんとか挨拶程度の単語を知っているくらいだった。
スポーツも、子供の頃に草野球をしていただけで、特別に運動神経がいいわけではない。ネットも詳しいというほどでもなく、難しい用語を並べれば、そう見えるものだ。
ギターを弾いている写真なんて、ギターを抱えているだけで、カスタネットだって、ろくに使えない。自分の顔写真にしても、今の技術なら、いくらでも加工ができ、それなりになる。SNSの仲間とは一度も会ったことがなく、架空の仲間であり、お互いが芝居をしているようなもんだ。
海人は、本気で友達を作るつもりはなかったので、たぶん同じような人間同士の連帯感でブログも成り立っていたのだろう。「いいね」をもらえるだけで、自分の価値が上がったような気持ちになる。
人の目に留めてもらう為、認めてもらう為に、必死に記事を書き続けた。いつしか、文章の書き方だけは上達していた。その内、更新記事に困るようになり、とうとう、その道のプロ、インスタ映えする写真の演出をするイベント会社を頼るようになった。友達とのバーベーキュー、ツーリング、季節ごとのパーティー、段々と、その回数も増え、海外旅行という偽りのイベントも演出した。
ほとんどの時間を偽りのブログ作りに使っていたので、彼女を作る余裕さえなかった。現実は寂しいから、余計に仮想の世界にハマっていき、イベント会社に支払うお金の為に借金までした。
そんな時、祖父から銭湯を閉めるという話を聞いた。祖父は、先代から引き継いできた銭湯という仕事に誇りを持っていた。しかし、時代の流れというものなのか……。
だが、海人にとっては、ありがたい話だった。祖父は、銭湯と古い家を手放すつもりでいたので、家そのものに価値はなくても、土地を売ったお金はそれなりになる。祖父は、生きている内に孫に遺産として譲渡するつもりで、彼にも、そのことを伝えていたのだった。
せめて、祖父が銭湯で生きてきた証になればと思い、海人はブログを勧めてみた。祖父は、慣れないことに戸惑いながらも、最後のイベントを企画して、自ら行動していった。正直、自分のウソがばれてしまうのではと、彼は少し心配したが、祖父は自分のブログ管理で精一杯の様子だった。
そして、『お湯に浸かろう会』が発足されて、そろそろ一年になる。銭湯の閉店も近い。祖父もブログの更新をしなくなり、それと同時に海人もブログ熱が冷めていた。偽りの自分から解放された気持ちで、どこか安堵していた。
「じいさんのお金をもらったら、会社を辞めよう」
海人は心の奥で決めていた。それまでは、あんな職場でも行かなければいけない。海人にとっては、今の会社は「この世の地獄」だったのだ。
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