(第4章)遠藤保奈美の今

閑静な住宅街を歩いていくと、一風変わった日本家屋が見えてくる。

大きめな一軒家のようにも見えるが、こぢんまりとしたマンションだった。三階建てで、外観は落ち着いた和風の造りになっている。中に入ると木の温もりを感じる自然派住宅。それが遠藤保奈美の住まいである。

各部屋には、温度や湿度の自動調整や、空気清浄機など最新の機能が備え付けられ、セキュリティも万全である。住人のプライバシーも守られていて、騒音の心配もない。人が快適に暮らせる工夫があちこちに散りばめられていた。

その二階の角部屋が、保奈美の部屋である。足腰が弱らないようにと、あえて階段を上る二階の部屋にしたのだった。彼女は、毎日散歩がてらスーパーに買い物に出かけ、季節ごとの草花を眺めながら、ゆっくりと帰ってくる。

季節は、そろそろ夏になろうとしている。保奈美はハンカチで額の汗を拭きつつ、いつもの道を、自宅に向かって歩いていた。マンションのエントランスに入りひと息ついた時、隣の栗木恵に声をかけられた。

「あら、遠藤さん、お買い物ですか? 私は夜勤で、今から病院に行くところなんです。最近、顔色もよくて、お元気そうでよかったわ。たまには病院に来て、再発の心配がないか検査してくださいね」

彼女は、保奈美のかかりつけの病院の看護師で、以前に入院した時も世話になっていた。会う度に健康状態を気にかけてくれる。一人暮らしの保奈美にとって、ありがたくもあり、少し窮屈でもある相手だった。

「ええ、最近は体力作りのために、少し遠くのスーパーまで行ってるのよ。今日は、孫娘が遊びに来るから、買い過ぎてしまったわ。ほら」と、保奈美がふくらんだ買い物袋を見せた。

「あぁ、栞ちゃんが……。それは楽しみですねぇ。いつも明るくて、こっちまで元気になるわ。あら、いけない、バスに乗り遅れちゃう。それじゃあ、また」

栗木恵は軽く会釈すると、小走りに去っていった。栞とも、入院していた頃からの顔馴染みである。

保奈美は部屋に戻ると、買ってきた食料品を冷蔵庫に入れ、自分の為にお茶を煎れた。保奈美は、日本茶が好きで、一日に何杯も飲む。ゆっくりと煎れた香りのいい一杯のお茶で、心が和むような気がしていた。

今日は、学校帰りに栞が泊まりに来る。十七歳の栞は活発で、誰からも好かれる自慢の孫娘だった。保奈美は、彼女の好きな鶏のからあげと、ポテトサラダ、筑前煮を作るつもりでいた。

鶏肉の下ごしらえをしながら、この前の『お湯に浸かろう会』の時、「私に料理を教えてもらえないでしょうか」と、里穂から頼まれた時のことを思い浮かべていた。いつものジーンズではなく、淡いグリーンのスカートを履いた彼女は、妙に可愛らしかった。服装のことを褒めると、頬を赤らめて「そんな……。直美さんがどうしてもと言うから……」と、下を向いてしまった。

最初は皮ジャンにジーンズだったのに、なんだかイメージが変わってきたわね。恋でもしているのかしら?と、保奈美は思った。

『お湯に浸かろう会』も、四回目になっていた。保奈美は、なるべく地味な服装で出かけることにしていた。目立ちたくないのと、華やかに着飾る場ではないような気がしていた。

料理が完成して、デザートのマスカットを器に盛りつけた時、インターホンのチャイムが鳴った。栞の姿を確かめ、ドアを開ける。

制服のままの栞は、部屋に入ってくるなり、「お腹すいた~。あっ、からあげだ! やったぁ」と、ひとつ摘まんだ。

「ちょっと、手ぐらい洗いなさい。ほら、着替えてらっしゃい」

口では注意しながら、保奈美の顔はほころんでいた。訳あって、娘夫婦とはキョリを置いているが、孫娘は可愛い。

Tシャツと短パンに着替えた栞は「そうだ。おばあちゃんの好きな芋ようかん、持ってきたからね。あとで食べよう」と、テーブルの上に置いた。

「いつも、ありがとう。栞がいるだけで、なんだか部屋中が明るくなるわね。さあさあ、まずは夕飯にしましょ」

保奈美は、いそいそと箸を置き、お湯を沸かした。

栞は椅子に座ると、「おばあちゃんの料理、美味しいもんなぁ。食べ過ぎちゃう。せっかくダイエットしてたのに」と言いながら、からあげをパクつく。

保奈美も向かい側に座り、筑前煮に箸をつけ、「メリーは元気にしてるの? 今日は栞がいないから寂しがってるわね」と孫娘に聞いた。

メリーは、栞が可愛がっているポメラニアンで、保奈美が誕生日にプレゼントしたのだった。

「うん、元気にしてるよ。お年頃なのかなぁ。最近、ソワソワしてる時があるんだ」

栞はポテトサラダを口に運びながら答えた。そして、ついでのように、「ママも元気だよ。パパは……。パパのことは、どうでもいっか」と言った。

「父親なんだから、どうでもいっか……はないでしょ。私に気を遣わなくていいのよ。栞にとっては、優しいパパなんでしょ。ママは元気なのね……。そう、安心したわ。メリーも元気でよかった」

保奈美は、娘の初美が自分を心配して、夫の反対を無視して栞を泊まりに来させていることを知っていた。

いつもは一人の食卓も栞が一緒だと賑やかで、「この前、友達とカラオケに行った」だの「体重が一キロも増えた」だの、たわいもない話を聞きながら、保奈美の食も進む。

「あんまり食べ過ぎると、おばあちゃんも太っちゃうよ。あとで芋ようかんも食べるんでしょ。あ~、お腹いっぱい。ごちそうさま」

栞は食べ終わると、自分の食器を流しに運び、「私が洗ってあげるから、先にお風呂に入ってくれば」と祖母に声をかけた。

「栞がイイ子に育ってくれて、おばあちゃん、本当に嬉しい」

保奈美が涙ぐみそうになると、「いいから、いいから。ホント歳取ると、涙もろくなるんだね。私がイイ子でいられるとしたら、それは……。まっ、その話はタブーだったね。さぁ、さぁ、お風呂入っちゃってよ」と、栞はスポンジを手に取った。

保奈美は、栞が言いかけた言葉にドキッとした。

「私がイイ子でいられるとしたら……」

それは……家族の秘密だった。そして、栞自身のこれからの選択が迫っていた。

「はい、はい。じゃあ、先にお風呂に入ってくるわね」

保奈美は、にこやかに返事をしつつ、心の奥でかすかな痛みを感じていた。

その夜、温かいお茶と芋ようかんを食べている時、「ねぇ、栞、さっきの我が家のタブーの話題だけど、そろそろ答えを出さなくちゃいけない歳になったわね。あなた、どうするつもりなの?」と保奈美は、さりげなく聞いた。

「そうだなぁ~。まだハッキリ答えは出てないよ。でも、たぶん……。う~ん、その話は、もうちょっと待って。お願い……。あっ、そういえば、おばあちゃん、最近はブログを更新してないね。どうして?」

栞はフォークで芋ようかんを切りながら、少しはぐらかすように言った。

確かに、銭湯に行くようになってから、ブログは書かなくなった。なぜだか、他の人達も更新しなくなり、誰もブログのことには触れなくなっていた。

「毎日、同じことばかりで書くことがなくなっちゃったのよ。それと……、ブログを通して、出会いたい人と現実に会ってしまったから、ブログで公表する必要もなくなったのかもしれないわ」

祖母の言葉に、「ふ~ん、そういえば、銭湯に行ったって話してくれたね。ボーイフレンドとかできたの?」と栞は、興味津々という様子である。

「ボーイフレンドっていう歳でもないでしょ。イヤな子ねぇ。年寄りをからかうもんじゃありません」

祖母が、わざと顔をしかめると、「さっき、イイ子って言ったくせに」と栞はおどけるようなしぐさをした。

彼女は祖母のブログを見ていて、銭湯の仲間らしき人達のブログもチェックしていた。その中の一人、銭湯のご主人のお孫さんのブログが気になっていたのだ。

ブログでは『カイト』と名乗っていたけど、本人のことは全く知らない。だから、ブログの中の好青年に惹かれているということになるのだが……。祖母から、情報を聞き出そうと試みたが、たいしたことは教えてもらえなかった。

「な~んか、おばあちゃん、銭湯での話は、あまり詳しく教えてくれないよね。それこそ、何か秘密でもあるの?」

栞が少し突っ込んで探ってみても、「まさか。秘密なんてありませんよ。みなさん、いい方ばかりで、おばあちゃんも心が癒されるの。それだけよ」と、つれない答えだった。

それ以上、新しい情報も聞けそうにないので、栞は芋ようかんを食べ終わると、「じゃあ、もう寝るね。明日は、友達と約束があるから、朝ご飯食べたら出かけるね」と、彼女の為に用意した部屋に入っていった。

保奈美は一人になると、もう一杯お茶を煎れた。

「秘密ねぇ。そう、私にはやらなくちゃいけないことがあるのよ。まずは里穂さんに、料理をしながら話を聞いてもらおうかしら?」

彼女は心の内で、思いを巡らしていた。

栞は栞で……心地よいベッドの上で、「私も一度、銭湯に行ってみたいな。そしたら、あの人に会えるかもしれないのに。どんな人なのかなぁ?」と想像しながら、スマホをいじっていた。

翌日、栞は出かける前に、「ねぇ。今度、私も銭湯に連れて行ってよ。おばあちゃん、どんな人達とお風呂に入ってるの? 孫なんだから、紹介してくれてもいいでしょ」と祖母にねだってみた。

「そうねぇ。あなたにも聞いてほしい話があるから、タイミングが来たら、一緒に行きましょう」と、保奈美は真顔で答えた。

「きっとだよ。それじゃあ、またね」

栞は、祖母の返事に満足して、弾けるような笑顔で手を振った。

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