(第3章)結城里穂の今 (その2)里穂の職場

里穂はあくびをしながら、職場の駐輪場でバイクを降りた。病院の中庭では、そろそろ桜が咲き始める頃だ。

昨日は、三回目の銭湯での集まりだった。みんなで『お湯に浸かろう会』と名付けた集まりは、それぞれにお菓子や軽食などを持ち込んでいる。

今回は、糖尿病の天作の為に、クリームチーズ入り胚芽パンを、里穂は持っていった。この前、直美が選んでくれたワンピースを着ていく勇気はなく、彼女から「なんだぁ。着てこなかったんですね。残念!」と、小声で言われてしまった。

ワンピース姿は見てもらえなかったけど、彼が胚芽パンを美味しそうに食べる様子を見て、里穂はそれだけで満足していた。ただ、天作の視線の先を見ると、そこには……いつも直美がいたのが気になった。

「あの子のことが好きなのかしら? そうよね。こんなガサツな私より、可愛らしい彼女の方がいいに決まってる」

なんとか心の声を打ち消そうとするのだが、根っからの自信のなさはどうしようもない。人に好かれないことには慣れていた。

直美には言えなかったのだが、里穂の両親は、借金を苦にしての自殺だった。まだ幼い彼女を残し、夫婦で車ごと海に飛び込んだのだ。里穂は、叔父の家に預けられた。元々、叔父と両親との折り合いも悪く、施設に入れるのは世間体がよくないという理由だけだったので、居心地がいいわけはなかった。それに、ひとつ上の女の子がいて、何かと差別されながら育った。女の子らしい服など買ってもらうことはなく、いつも地味であか抜けない恰好をさせられていた。里穂の美しさが、より「いじめ」の対象にもなっていたのだ。

里穂は、とにかく手に職をつけ、早く自立することを目標に頑張った。看護師になると、自ら望んで精神科を選んだ。

そして今は、病棟勤務をしている。軽度の患者さんとはいえ、明るく笑ってという職場ではないので、気が滅入ることもあった。けれど、闇人間の自分にはふさわしい場だと、彼女は思っていた。

いつものように着替えをして、ナースステーションに向かって歩いていると、後ろから「おはようございます」と声をかけられた。二カ月ほど前から、この病院で働き始めたベテラン看護師の糸田さんの声だった。

「あっ、おはようございます。今朝も早いですね」

振り向いて、里穂も挨拶をすると、「あら? 眠そうねぇ。私は、まだ慣れないこともあるから、早めに来てるだけよ。この仕事、そんなに気を張ってると疲れちゃうものね」と笑った。

彼女の穏やかな笑顔は、癒しの力があると、里穂は思っていた。実際、赴任してきて二カ月だというのに、職場の雰囲気が変わり始めている。里穂も含めてだが、看護師同士が心を開いてという関係でもなく、いつも患者さんの満たされない思い、その家族の愚痴を受け止めている内に、能面のような顔で働いていたのだ。夜勤もあるし、いつも天使の微笑みで接してばかりもいられない。まして、里穂の場合、自分の心の痛みとリンクして、やりきれない気持ちになることもあった。

今日も、新しい入院患者さんを担当することになっている。十八歳の少年だった。受験戦争に敗れ、自分の価値を見出せなくなった子だ。

入院の説明の時、母親は「ウチの子が悪いんじゃなくて、先生の指導が悪かったのよ。勧められた塾もよくなくて。こんなことになっちゃって。私と息子の人生、これからどうなるのかしら?」と、里穂にまくしたてた。

親のいない彼女は、どうして子供の人生なのに、母親の未来まで影響するのやら理解に苦しんだ。

「ようするに、いい大学に行き、いい会社に入れば、世間体もいいし、息子も幸せ。自分も息子の人生に乗っかって生きていけば安泰、ってことでしょうねぇ」と糸田さんは、そう里穂に言った。

朝のミーティングが終わると、その少年を病室へ案内して、母親と入院手続きなどの事務的な話をすることになっていた。里穂は、少々気が重かった。

案の定、「ウチの息子が精神科に入院だなんて、親戚にも言えないわ。私も人に見られたくないから、あまり来れないけど。あなた、あの子のお世話を頼んだわよ」と言いたいことを言うと、逃げるように帰っていった。

その姿を見送り、彼女が病室を覗くと、少年は虚ろな目をして窓の外を見ていた。たぶん、母親が足早に去っていく様子を眺めていたのだろう。

「寒くない? あなたの担当看護師の結城里穂です。何か必要なことがあれば、そのナースコールで呼んでくださいね」

里穂は、表情を変えることもなく淡々と言った。いつも……彼女は、なるべく患者に感情移入しないように気をつけていた。

「あの人、もう来ないかもしれないな。期待を裏切っちゃったから。僕は価値のない人間なんだ。だから、死のうかなと思った。ペーパーナイフで自分を傷つけようとしたんだ。でも、手が震えてできなかった。僕、ホントは死にたくないんだよ。ねぇ、ここ、いつまでいられるの? 僕の居場所がない……」

十八歳の少年は、涙を流すでもなく口にした。

「ここは短期入院よ。死ぬのは、もったいないわ。元気になれば、居場所を自分で作ろうと思うわよ。私は、そうしてきたわ」

里穂の言葉に、少年はほんの少しだけ笑みを浮かべた。

「この子は、年齢より幼い。けど……大丈夫な気がする」と、里穂は胸の内で感じた。受験には負けたけど、母親から自由になったのだ。生きたいという気持ちは失っていない。

人によっては、入院することで症状は落ち着くが、世間から隔離されたことで、かえって生きる気力を失う場合もある。ただ毎日、愚痴や不満を繰り返し、疲れ果てると薬で眠る。最初は暴れていた人も、その内にあきらめたように大人しくなることもあった。

心や精神の問題は、どこまで完治したのかが分かりにくい。退院した後に、前よりひどくなるケースもあるのだ。いっそ、重度の精神障害で狂ってしまった方が楽なのではないだろうか? 里穂は、そう思うことさえあった。

少年の病室を出ると、担当している患者さんの様子を見に行く。薬の時間になれば、決められた数だけを渡す。決して、必要以上に渡すことはなく、症状によって医師に報告して処置を変えてもらうこともある。それと、ハサミや自分を傷つけそうな物を隠していないかのチェックもする。

あっという間に午前中が過ぎた。食堂に行くと、糸田さんが他の看護師と談笑している。彼女達はお弁当を持ってきていた。

里穂は日替わり定食を頼み、それをトレーに乗せ、少し離れたテーブルに座った。昼食も一人で食べる。

食べ終わる頃、糸田さんがコーヒーを二つ持って、近づいてきた。

「まだ、時間あるでしょう。コーヒーくらい付き合ってね」と、向かいの席に座る。コーヒーは、無料のセルフで飲めるようになっていた。

「あぁ、ええ。どうぞ」

糸田さんはコーヒーに口をつけると、「結城さんは、いつも難しい顔しているわね。綺麗な顔が台無しよ。私なんて、どんなに笑ったところでしれてるけど」と眉をしかめた。

「そんなこと……。いつも穏やかでいられる糸田さんが羨ましいです。どうして、そんなにいつも笑っていられるんですか? ごめんなさい。失礼ですね」

里穂は口をつぐみ、コーヒーを一口飲んだ。

糸田さんは気を悪くするでもなく、「実はねぇ、私には秘密があるのよ。特別な訓練を受けたの」とマジメな顔で言った。

「えっ?」

里穂は驚いて目を見開いた。

「うそよ~。結城さん、驚いた顔も綺麗ねぇ。私こそ羨ましいわ。でもね、私も以前は暗い顔をして仕事をしていたわ。それでも無理して働いてたら、自分がウツ病になってしまったの。幸い、知人の薦めで新しい治療の実験台になって、それが成功したのね。今は、すっかりよくなって、笑って生きなきゃ損だと思うようになったのよ」

「そうですか。実験台?なんてことあるんですね」

「実験台というのは、大袈裟に言っただけ。薬でもそうだけれど、試しながらってことあるでしょ。そうじゃないと、医療も進歩しないわ。まぁ、そういうこと。だから、あなたも、いつか笑って仕事ができる日も来るんじゃないの、って話よ。今の世の中、特別に繊細じゃない普通の人でも、生きていくのは大変だと思っているんじゃないのかしら。ウツ病だって、特別な病ではなくなってるわ」

糸田さんは、虚しい思いの表われなのか、空のコーヒーカップをギュッと握りしめた。

「そうですね。普通に生きていくだけでも大変ですものね。私も自分だけが不幸だと思って生きてきました。けど、この仕事をするようになって、主婦やサラリーマン、学生……。ごく普通に生活している人達の心や精神が崩れていくのを見て、みんな、それぞれに頑張って頑張って、それで耐え切れなくなることもあるんだって知りました」

「そうねぇ。そこから立ち直り、自分の人生をみつけていく人と、世の中や誰かのことを恨んで妬んで、人を傷つけたり、自分の人生さえも台無しにしてしまう人がいるのかもしれないわね。あるいは、正気を失い、狂気の世界に逃げ込んでしまうか……」

「私も、すべてを恨んで生きてきました。自分のことも大嫌いで、誰のことも信じられないまま、毎日を過ごしてきました」

里穂も、いつのまにかコーヒーカップを握りつぶしていた。

「そうなのね。でも、あなたは変わろうとしている気がする。なんとなくだけど……。私も、元ウツ人間として応援してるわ。まだ若いんだから、いくらでも幸せになれるわよ」

糸田さんは里穂を見かけると、いつも何げに元気づけてくれる。以前なら、少し疎ましく感じていたかもしれない。でも最近は、『お湯に浸かろう会』のお陰なのか、人と会話することもイヤではなくなっていた。

「ありがとうございます。少しずつ変われればいいんですけど……」

里穂が自信なさげに答えると、「大丈夫よ。じゃあ、そろそろ仕事しなくちゃ。いつでも話を聞くわよ」と糸田さんは、つぶれたコーヒーカップを持って、椅子から腰を上げた。

「大丈夫よ……っかぁ。変われればいいんですけどね。さぁ……私も仕事、仕事」

里穂も、気持ちを切り替えるかのように、勢いよく立ち上がった。


それから二週間が過ぎ、受験に失敗した少年は、里穂が病室に訪れると笑顔を見せることが増えた。母親と離れたことで自分を取り戻したのかもしれない。

「僕、バイトしてみようかと思うんだ。今まで勉強、勉強で、世間のことも知らなくて。きっと、こんな僕でも必要としてくれる場所はあるよね」

そう話す彼の目には、生きる力が蘇ってきた。

「そうね。世間もいいことばかりじゃないかもしれないけど、一度挫折を経験したんだから、少々のことでめげないことね。大丈夫、生きてりゃなんとかなるわ。それに、あなただけじゃないから。今の時代、苦しみながら生きている人も多いものよ。自分だけ特別って思わないことよ」

里穂の言葉に、「な~んか、励ましっていう感じでもないよね。世の中は、素晴らしいとか言ってくれるかと思ったよ。きっと結城さんも、苦しみながら生きてきたんだね。僕、やってみる」と少年は軽やかに返し、その笑顔は、里穂の心を明るくした。

そして、新緑が眩しい季節、少年は一人で荷物を持ち退院していった。彼自身が母親に迎えに来なくていいと告げたらしい。

「今までこんなことなかったのに。どうしたのかしら?」

拒まれた母親は、里穂に訴え、戸惑っていた。

少年の名は「宮内直人」という。彼は、少し大人になった顔で新緑の光の中を歩いていった。

世の中には、受験に限らず、挫折したり心を病んでしまった、少年、少女がいる。それは……数知れない「宮内直人」達だ。けれど、彼のように短期間で前を向いて歩いていけるケースは、現実には少ない。

実際は、何年も、いや、何十年経っても立ち上がるどころか、世の中を拒絶してしまうこともある。立ち直ったと思っても、またちょっとした挫折で、以前よりひどい症状になり、場合によっては命を絶つ者もいるのが現状。

里穂は、この少年の未来が希望に満ちていくことを心から願った。

その夜、彼女は直美に電話をかけ食事に誘った。直美がそうであったように、自分も職場とは違う誰かに話を聞いてほしかったのだ。

そして、もう一人、銭湯で出会った女性、保奈美が「以前、体を壊してから料理には気を遣ってるの。よかったらいつでも教えるわよ」と、声をかけてくれたのを思い出した。

料理なんて、ほとんどしたことがなかったけど、糖尿病の人に食べさせてあげられる料理を覚えたいなと思った。里穂は、自分の中で何かが少しずつ変化していることに気づいていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る