(第3章)結城里穂の今 (その1)桃先生VSダークヒロイン
大通りから一本奥に入った道路沿いに、里穂の家はある。
築八十年は過ぎている古民家を借り、リフォームして住んでいた。一人暮らしにしては少し広めだが、肩身の狭い生活を強いられてきた彼女にとっては、のびのびと暮らせる城だった。
今日は、直美と食事をする日で、いつものバイクではなく、電車と地下鉄を乗り継いで都心まで出る。久しぶりに人混みを歩くので、多少、緊張していた。それでも、女同士で食事をする機会など、ほとんどない彼女は、ウキウキした足取りで駅への道を急いでいた。
地下鉄を降り、直美から聞いた道を歩いていくと、エキゾチックな造りのタイ料理の店があった。少し早めに着いたので、中に入り、席で直美を待つことにした。
里穂は、今日も白のセーターにジーンズといったラフな服装だった。そろそろ季節も春に近いので、皮ジャンはバイクに乗る時だけになっていた。
「若い女性が好きそうな店ね。私一人なら、まず来ないわ」
小さくつぶやいて、店内を見まわした。タイの装飾品があちこちに置かれ、壁も華やかで異国情緒が満載だった。
入口に目をやると、直美がキョロキョロしながら入ってきた。手には薄手のコートがかかっている。
里穂は軽く手をあげ、「ここよ」と声をかけた。店内はそれほど広くもないので、直美は里穂をすぐにみつけ、にこやかな顔で軽く会釈した。
「ごめんなさい。私の方が遅くなっちゃって。場所、すぐに分かりました?」
直美が椅子に座りながら聞いた。
「ええ、なんとか。あなたは、よく来るの? ここ」
「いえ、実は、職場の同僚のおススメなんです。私も初めてです。タイ料理、大丈夫って、おっしゃったから、どうかなと思って……」
直美は、少し年上の里穂に敬語交じりに答えた。
「おっしゃった……って、そんな堅苦しい言い方しなくていいわよ。タメでいいわ。そんなに歳は、違わないでしょ」
そこへ、ウェイトレスが水を運んできた。
「あぁ、まだ注文は待って。とにかく料理を決めましょ」
里穂は直美にメニューを手渡した。
「あっ、すみません。里穂さん、本当にしっかりしてますね。ごめんなさい。私、テンポがゆっくりで……。う~ん、何にしようかな? ガパオと、ちょっと変わった料理を頼んでシェアしましょうか。この、プラータプティムなんとかというのは、どうでしょう? 白身魚を、ガーリック、唐辛子、香菜を入れてライム果汁で蒸した料理らしいですけど。里穂さんも何か好きな物を頼んでくださいね」とメニューを里穂の方へ渡した。
「私、外食といえば、牛丼くらいだから、あんまりよく分からないのよ。その、なんとかでいいわ。それと、名前を知ってるタイカレーと、トムヤンクンにしようかな。トムヤンクンは、その、シェア?っていうの? 分けて食べるってことよね。そうしましょう」
料理を注文して落ち着くと、「里穂さん、突然に電話しちゃってすみません。悩んでいたことが解決して、つい嬉しくなっちゃって。同僚とかには相談できなくて。でも、まぁ、守秘義務もあるので詳しいことは話せないけど、とにかく解決したことを誰かと分かち合えたらと思って……」と直美は、水に手を伸ばして言った。
「そういえば、ブログの方も、虐待については削除してあったわね。私も、そんな詮索好きってわけじゃないから、解決したのなら、今日はお祝いってことでいいんじゃないの。私、子供の頃に親戚に預けられて、いじめられたことがあるの。それで、虐待という言葉に反応したところはあるかな。とにかくよかったじゃない」
勢いで電話してしまったけど、正直、そんなに親しいとはいえない里穂に、根ほり葉ほり聞かれたらどうしようかと、直美は思っていた。
「この人、やっぱり信頼できる人だわ」
あらためて、彼女は心の中で確信した。
料理が運ばれてくると、「へぇ~、これがタイ料理っていうの。クセのある味や香りがたまらないっていう人もいるのね。今、パクチーブームだって聞いたわ」と、里穂は珍しそうに一口ずつ味わっていた。
「里穂さん、面白いです。外食はしないって、お友達と出かけたりはしないんですか? あっ、ごめんなさい。聞いちゃいけなかったかな?」
直美は白身魚を取り分けながら、里穂に質問をした。
「別にかまわないわよ。私のブログを読んだでしょ。私、闇人間なのよ。人と壁を作って生きてきたわ。怖いの。でも、不思議ね。なんだか、あの銭湯で出会った人達のことは、信じられる気がしていて。勘というのかな。根っこのところで、間違いのない人達っていうのかなぁ。まっ、お偉い肩書があるという人達でもなさそうだけどね。ほら、あの天作さんていう人なんて、見るからに自信なさげなのに、ハムスターに名前なんか付けちゃって、おかしいわよね」
里穂は、思い出したのか、整った顔を崩して笑った。
「そうですよね。水野くんとか、山田くんとか、小学生の時の友達の名前なんですってね。それから、犬ブログの佐々木さんも、時々、その犬がしゃべっているみたいなこと言って、笑ってしまいました。保奈美さんは、ずいぶん年上の方なので、話してても安心できます。里穂さんは、謎めいていて、ミステリアスというイメージです。お仕事とか聞いても大丈夫ですか?」
「あはっ、ミステリアスというほどでもないわよ。仕事は、看護師をしてるわ。精神科の……病棟の方。自分から志願したのよ。外来と違って、病棟は精神的にもハードなの。でも、まぁ、ウチは……軽い人というのもおかしいけど、正気を失った重度の患者さんはいないの。ごく普通の暮らしの中で、生きるのに疲れちゃった人達っていうのかな……。あのブログの言葉は、入院している患者さんの声なのよ。元は、一般の社会の中で、普通に生きていた人達。だけど、その日常の出来事で心が壊れてしまったの。学校や会社でのいじめ、あるいは大切な人の死、失恋や病気などで、少し精神に異常をきたしてしまったのね。決して、最初からおかしかったわけじゃないわ。世の中には、繊細な心を持った人達もいるのよ。いえ、繊細じゃなくても、自分の受け入れられるストレスを超えてしまえば、心を病むしかないでしょ。表に出せないその声を、私はブログで公表したの。心の叫びみたいなものね。もちろん、書ける範囲だけれどね。そうしたら、世間で不満や苦しさを抱えている人が書き込んで。世の中、本当に幸せな人っているのかな?と思ったわ。まぁ、私がその部分にアクセスしただけで、普通に生きている人は生きているのかもしれないけどね」
里穂の顔からは、先ほどの笑みが消えていた。
「看護師さんだったんですね。でも、イメージとしては、ちょっと……」
「何よ。看護師というだけで、優しい女性っていうわけではないわ。失礼ねぇ」
「いえ、そういう意味でじゃないです。私なんて平凡に生きていて。尊敬します」
「尊敬なんてしてくれなくていいわ。まっ、闇人間のナイチンゲールもいるってことよ。直美さんとは、本音で話せそうね」
里穂に笑顔が戻ると、直美も「私も、素直に話ができて嬉しい」と笑った。すっかり打ち解けた二人は、デザートまで頼むと恋愛の話題になった。
「里穂さん、聞いてくださいよ。ウチの母ったら、顔を見れば、結婚! 結婚!ってうるさくて。ほとんど女の職場だから、そんなに簡単にはみつからないっていうの。でも、合コンに行くと、保育士という職業はウケがいいんです。看護師さんもそうじゃないですか? 前に付き合っていた彼氏からは、『最初は天使みたいだと思ったんだけどな。普通じゃん』とか言われちゃって。結局、価値観の相違ってことで別れちゃいました。里穂さんは、美人だからモテるでしょう」
若い女性らしく、ごく普通に元カレの話をする直美と対照的に、里穂は「私なんて。友達もいないのに、彼氏なんていたこともないわ」と、ポツリと答えるだけだった。
「うそ! そんなに綺麗なのに? 男の人がほっときませんよ。気になる人もいないんですか?」
直美のストレートな問いかけに、里穂はしばらく黙り込んだ。
「ごめんなさい。私ったら、調子に乗って」
「いいのよ。人の心と本気で向き合うのが怖いの。でも……。あなたには、打ちあけるわ。私、銭湯で出会った天作さんのことが気になってるの。初めてよ、こんな気持ち。だけど、恋愛なんて、どうしていいのか分からないわ」
男まさりに見えた里穂の頬がうっすら赤らんでいる。直美は、大人びた彼女の初々しい部分に触れたことで、里穂とのキョリが近づいた気がした。
「誰にも言わないでよ」という里穂に、「当たり前です。これでも口は堅いんですから。分かりました。全力で応援します。次回の集まりの時には、少し女性らしい服で来た方がいいと思いますよ」と直美はアドバイスした。
「そんな服、持ってないわよ」
「では、この後、買いに行きましょう。私が選んであげますから。天作さん、あぁ見えて、きっと清純なタイプが好きなんだと思うんですよねぇ。可愛らしい服を探しましょう」
結局、直美の勢いに負け、食事の後に二人で近くのデパートへ行くことになった。そこで、里穂は自分では絶対に選ばないようなパステルピンクのワンピースを買った。
「里穂さん、ステキ! すっごく似合ってますよ~。これなら、天作さんも惚れちゃいます!」
直美のはしゃぐ様子を見て、里穂は「やっぱり、この子は私とは違う世界で生きてきた人間なんだ」と、少し寂しい気持ちになっていた。それでも、今まで味わったことのない同年代の女同士の時間を、里穂なりに満喫した。
帰り際、「また、ご飯を食べに行きましょうね」と直美が屈託のない笑顔を見せると、里穂も、「ええ、楽しみにしているわ」と、職場では見せたことのない柔和な表情で手を振ったのだった。
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