(第2章)田所直美の今 (その2)母親との面談

直美が教室の時計を見ると、午後五時三十分を過ぎていた。

「もう来られる頃ね。さぁ、気合を入れて~っと」

風子の母親を待っていた直美は少し緊張していたので、パンパンと頬を叩いてみたり、軽く体を揺すぶったりしていた。他の園児達はすでに帰り、もも組の教室では風子だけが残り、積木遊びをしている。

気づくと、風子が傍に来ていて、「何してるの? 今日、ママとお話しするんでしょ。先生、ママのこといじめないでね。最近ねぇ、とっても優しいの。ご飯もちゃんと作ってくれるんだよ。昨日はオムライスを作ってくれたの。だから……」と少し悲しげな顔をした。

「えっ? もちろんよ。いじめるわけないじゃないの。そう、ご飯を作ってくれるんだ。ママとお話しするだけだから心配しないでね。ちょっとの間、さくら組の京子先生と遊んでいてね」

直美の言葉に安心したのか、「うん。分かった」と返事をした後、彼女は母親の姿をみつけ、「あっ、ママだ!」と嬉しそうに叫んだ。直美が入口の方に目を向けると、風子の母、吉村若葉が教室のドアを開けようとしているところだった。

直美が会釈すると、「少し遅れてしまいました。すみません。私の方から面談をお願いしたのに……」と深く腰を折り、頭を下げた。

風子が「ママ~」と駆け寄っていく。ちょうど、さくら組の京子先生も入ってきた。

「さっきお見かけしたので。風子ちゃん、京子先生と遊んでいようね。何して遊ぼうか」と風子の手を取り、直美に目配せした。

直美は、母親を応接室の方へ案内して場所を移した。

向かい合わせに座ると、おずおずとした様子で、風子の母、若葉は話しだした。

「今日は、お時間を取っていただいてありがとうございます。何度もご連絡いただいていたのに……。すみませんでした。やっとお話しできる状態になりましたので。直美先生には、今までのことを聞いていただきたくて。先生は私のことを疑ってらしたんですよね。風子に虐待をしているのではないかと……。今日は、そのことを話しに来ました」

見るからに派手で気性が激しそうな女性だったら、直美は、もっと強い対応をしていたかもしれない。けれど、吉村若葉は……大人しそうな、ごく普通の母親で、とても子供に手をあげるようには見えなかったのだ。年齢も三十代で、若過ぎる母親というわけでもない。

「ネグレクトといいますか……。正直、気になることは確かにありました。食事をしていなかったり、虐待といっていいのか、青アザをみつけたこともありましたので。私の方から面談をお願いしても、お返事をいただけなくて。今日は来ていただけてよかったです。それで、お話というのは?」

いつも子供と接していると、どうしても年齢より幼く見られがちなのだが、こういう席ではしっかりと対応しようと、直美は自分に言い聞かせていた。

「ええ。うまく話せないかもしれないですけど……」

少し言い淀んでいるところへ、事務の女性がお茶を運んできた。若葉は、お茶を一口啜ると、思い切ったように先を続けた。

「主人が交通事故で、突然亡くなったのは……あの子が三歳の時でした。ひき逃げで、今も犯人は捕まっていません。私も主人も、両親を早くに亡くしていて、それでお互いに寂しさを共有できたところもあったんですけど。主人が亡くなってしまうと、頼れるところもなく、保険に入ってもいなかったので、一気に生活に困るようになりました。私は、娘をこの保育園に預けて、昼間はスーパーのレジ、夕方からは風子を連れてお弁当屋さんで働きました。お弁当屋さんのお嬢さんが風子の遊び相手になってくれてましたから。夜の八時過ぎに家に帰り、夕飯は済ませてくるので、娘をお風呂に入れ、寝かしつけてから、洗濯やら、明日の準備をしていました。寝るのは、夜中の一時過ぎになることも……。毎日、毎日、そんな日が続き、疲れ果てていきました。一年が過ぎた頃、ふと、風子の寝顔を見ていたら、たまらなくなってしまい……」

若葉は、そこまで話し、またお茶を飲んだ。直美も口を挟むことなく、自分もお茶に手を伸ばした。

しばらくの沈黙の後、再び若葉は口を開いた。

「スースーと寝息を立てている風子の顔を見たら、どうしようもない衝動にかられ、娘の頬をつねってしまいました。すぐに手をひっこめました。それから数日は罪悪感に苦しみましたが、一週間もすると、また同じことをしていました。今度は、もっと強く……。娘は、『う~ん』とむずかりましたけど、また安らかな寝息を立て始めるのです。今度は、手をつねりました。さすがに、風子は目を覚まして、『ヘンな夢を見たの。手が痛いの』と、私にしがみついてきました。一度は突き放しましたが、我にかえり、娘を泣きながら抱きしめました。それから、少しずつエスカレートしていきました。その内、寝ている時だけじゃなく、昼間も大声で叱りつけたり、物を投げつけたりするようになりました。傷が残った場合は、保育園を休ませました。お弁当屋さんにも、不審に思われるのが怖くて行けなくなりました。なるべく傷痕が分からないようにと、お風呂の時に、背中をひっかいたりしたことも……。風子は泣くだけで、私を責めることはしませんでした。それが、またたまらなくて、罪悪感から自分自身を傷つけるかのように、風子に当たったのです。その内、顔を見るのが辛くなり、食事はコンビニのおにぎりを与え、私はフラフラと外に出て行くことも増えました。保育園に通わせていれば、お昼は食べさせてもらえるし、顔を見なくても済む……。スーパーの仕事だけは、なんとか続けましたが、貯金も底をつき、とうとう借金をしてしまいました。娘は情緒不安定になり、夜中にも泣きだすようになっていました。人前では、泣くのを我慢していたのでしょう。たぶん、外で騒げば私が問い詰められると、本能的に分かっていたのかもしれません。あの子は、父親が突然にいなくなり、母親の私までいなくなることを、何よりも怖れていたんだと思います。私の顔色を見ては、「ママ、どこへも行かないでね」と言ってました。直美先生には、何度もお電話をいただいたり、帰り際に呼び止めてもらい、今では感謝しているんですよ。ただ、あの時は逃げるしかなくて……。風子と二人で死ぬことも考えていました。保育園のママさんは、みんな幸せそうに見えました。ダンナさんがいて、お昼はママ友とランチ、子供に好きな物を買い与えることもできる。すべてのママさんがそうでないことは分かっていても、比べては辛くなっていたんです。すみません。先生には、ずいぶんご心配をおかけしました。でも、もう大丈夫です」

若葉は、一番辛い部分を話したことで少しホッとしたのか、「ふぅ」と短く息を吐いた。

直美は、知らず知らずの内に手が震えていた。目の前で、虐待の様子を語る母親に嫌悪の気持ちが湧いていたのだ。けれど、ここで若葉を追い詰めれば、また風子に危害を加えるかもしれない。冷静にならなければと、心を落ち着かせた。

「お話は分かりました。ご主人を亡くされたことはお聞きしてましたが、大変な思いをされていたんですね。それで、大丈夫とおっしゃられたのは、何か援助してくださる人でも現れたのでしょうか? 先ほど、風子ちゃんも、ママが優しくなったと話してくれました」

直美は、頼れる男性でもみつけたのかと思った。

若葉は、さっきまでの深刻な表情を緩めた。

「先生、もしかして誤解されてますか? 男の人でもできたとか……。違うんです。けど、確かに救世主は現れました。四十代のオバサンですけど。オバサンは、失礼ですね。私は、その彼女に救われたんです」

直美は「はぁ、それで……」としか、言葉が出てこなかった。

「ええ。向井さん、向井さんとおっしゃるんですけど。私が昼間、働いていたスーパーに買い物に来られていた主婦の方です。その頃、私はよくミスをしていて、お客様からのクレームも多くなっていました。それで、向井さんが買われた商品の値段も桁を間違えてしまって。でも、彼女は『気にしなくていいのよ。誰にでも間違いはあるから』と笑顔で言ってくださったんです。それから、買い物をされる時は、私のレジに並んでくれるようになり、なんとなく顔見知りになっていきました。ある日、向井さんが並んでいる時、私が他のお客様のミスをして、怒鳴られることがあったんです。混んでいたのでイライラしていたんでしょう。人前でののしられ、私は自分が情けなくなり、その場を逃げ出してしまいました。さすがに店長から、『職場を放棄するような人は、辞めてもらいたい』と言われました。生きていく気力もなくし、近所をフラフラと私が歩いていると、『あの、お節介かもしれないけど。ちょっと心配になっちゃって』と、通りがかった向井さんが声をかけてくださったんです。近くの公園のベンチで二人して腰かけ、私は今までのことを泣きながら話しました。彼女は優しく背中を撫でていてくれました。そして、ご自分のことを告白してくれたんです。

『辛かったでしょう。ご主人を亡くされ、頼る人もいなくて。完璧な人間、完璧な母親なんていないと思うわ。実はね……私も、子供が小さい頃にヒステリックに叱りつけた経験があるの。今なら、育児ノイローゼっていうのかしらね。どうしようもない感情に襲われて。愛しいはずの我が子に当たってしまったわ。クッションやぬいぐるみを投げつけてしまったこともあるの。泣き叫ぶ子供を見ながら途方に暮れて、死にたくなった。主人は仕事が忙しくて、毎日、午前様。子供ができて、父親としての責任を、彼なりに仕事で果たそうとしていたのよね。今なら分かるんだけど。その内、主人もおかしく思うようになって、心療内科に連れて行かれたの。あなたは、傍に止めてくれる人がいなかったから、エスカレートしてしまったのね。もし、よければ私が心の支えになれないかしら? ウチの二人の子供も手が離れたし。息子達、今は大きな顔して、いったい誰がおしめを替えたんだと思ってるのかしら? あなたも、いつか笑える日が来るわよ。私ねぇ、いつも自信がなくて、自分はこれでいいのだろうか?と悩みながら生きてきた人間なのよ。もしかして、あなたもそうなんじゃないのかしら? 少しでも力になれれば嬉しいわ』と彼女の言葉のひとつひとつが、心に残っています」

若葉は、向井さんとの会話を思い出しながら、なるべく、そのままを伝えた。

直美は、いつのまにか手の震えが治まっていた。

「その主婦の方に出会えて、本当によかったですね。それで、失礼ですけど、スーパーを辞められて、生活費は大丈夫なんでしょうか?」

直美は、生活のことも気になっていたので、聞いてみた。

「スーパーを辞めて、一週間ほどは、とにかく心を休めることにしました。向井さんに、子供の好きな料理を教えていただいたり、風子と遊園地に遊びに行ったり。久しぶりに笑いました。けど、やっぱりお金は必要です。正直、この先、一人で風子を育てていけるのか? その不安も大きかったんです。あの子が欲しがる物を買ってやれるだろうか? 望む道に進ませてやれるだろうか? しばらくして、仕事も向井さんがみつけてくれました。彼女、この土地に引っ越して、まだ三か月ほどだったらしくて。友達もいないので、親しくしてくれていたんだそうです。それで、お子さんの手も離れたので仕事を探していたら、二人の事務職募集という会社を紹介されたんですって。ちょうどいいからって、私を誘ってくれました。偶然にしても、ありがたいことでした。向井さんと一緒なら心強いですし。昼間の仕事で、そこそこのお給料をもらえるんですよ」

若葉の顔は、すっかり穏やかになっていた。

「そうですか。お話を伺って安心しました。もう、大丈夫ですね。私、保育士として、これでいいのか、自分の無力さに悩んでいました」

直美の目は、うっすらと涙で曇っていた。

「そんな……。直美先生は、こっそり風子にパンを与えてくださり、心から心配してくださいました。私の方こそ、逃げてばかりですみませんでした」

面談が終わると、若葉は、来た時と同じように、深くお辞儀をして応接室を出ていった。直美は、しっかりと手を繋いで帰っていく母子の姿を、ハンカチで涙を押さえながら見送った。

その夜、直美は、思い切って結城里穂に電話をかけた。

「突然すみません。あの、銭湯で会った田所直美です。悩んでいたことが解決して、心が軽くなりました。もし……よければ一度、お茶でもしませんか?」

遠慮がちに誘う直美に、里穂は「あなたから電話くれるなんて。もちろんOKよ。連絡くれてありがとう」と、快く返事を返した。

二人は、次の日曜日に、美味しいと評判のタイ料理を食べにいく約束をした。

直美は、深入りしないつもりでいたのに、自分から誘いの電話をしたことに、少し戸惑いの気持ちもあった。だけど、彼女に今日のことを聞いてほしいと思ったのだった。

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