(第2章)田所直美の今 (その1)家族との夕食



五階建ての白いマンションの二〇二号室が、桃先生こと、田所直美の部屋だった。バルコニー付きのオシャレな外観を、直美は気に入っていた。

女性の一人暮らしを心配する両親を説得し、実家近くに部屋を借りてから二年が経つ。一週間に一度は夕食を一緒に食べるという約束で、なんとか許してもらったのだ。忙しい時には、夕食は無理でも、実家に顔を出し、そのまま泊まることもあった。

そして、今日も実家に向かって歩いていた。直美が中学校に上がる年に購入した建売住宅が、家族の住む家だった。三軒ほど同じような造りの家が並んでいる。

その真ん中の家のドアを開け、「ただいま~」と声をかけ中に入った。実家の鍵は、いつでも帰れるようにと持ち歩いている。

「お姉ちゃん、外は寒かったでしょ。今夜はお肉を奮発して、すき焼きだって!」

四つ年下の妹が、玄関まで出迎えに奥から現れた。まだ大学生で、就活中である。

ダイニングに行くと、「ほらほら二人共、座って、座って。お父さん、コンロの火をつけて」と、母親がいそいそとすき焼きの具材をテーブルに運んでいる。

「そう急かすな。直美も帰ってきたばかりだ」と言いつつ、父親の顔は嬉しそうだった。家族で食事の日は、同僚の誘いも断わり、真っすぐ家に帰ってくる。待ちかねていたのか、グラスのビールは半分以上減っている。

家族四人での夕食が始まる。娘二人が食べながら、近況を話す。妹は、もっぱら就活の話だ。

「ねぇ、お父さん、面接の時のスーツを買ってよ。お姉ちゃんのお古なんてイヤよ。身だしなみも大事なんだから」と、父にリクルートスーツをねだっていた。

直美は、幼稚園の行事とか、当たり障りのないことだけを話すことにしていた。愚痴や重い話をして、両親に心配をかけたくなかったのだ。

母親が「そういえば、銭湯に通っているとか言ってなかった? どんな人がいるの? 今は、お見合いパーティーも温泉でやることがあるらしいわね。誰かイイ人いないの? 仕事に一生懸命なのは分かるけど、ホントのこと言うと、お母さんは、早く孫の顔を見たいのよね」と鉄鍋に野菜を足しながら言った。

「また、お嫁に行く話が始まった! 銭湯に通ってるわけじゃないわ。この前で二度目よ。イイ人なんていない。悪い人達ではないけど、ハムスターに山田くんって名前を付けてる四十代の男性とか、飼い犬の代理みたいにブログを書いてる男性とか。あっ、その人はパリに住んでいる娘さんがいるって言ってたわ。お父さんと同じくらいの歳じゃないかしら。あとは女性だから、対象外でしょ。銭湯のご主人のお孫さんは若い男性だけど、最初にチラッと顔を見ただけだから、よく知らないわ。とにかく、そういうことだから。この話は、ここまで。はい、終わり。それより、お肉を足してちょうだい」

直美は早いところ、母親の結婚話を打ち切りたかった。そうじゃないと、延々と続くからだ。彼女が一人暮らしを始めたのも、結婚のプレッシャーから逃れる為でもあった。

「今日は泊まってくの? 面白そうな映画をやるから、一緒に観ようか」

妹が気を遣って、話題を変えてくれた。

直美は少し考えて、「う~ん、今夜は帰るわ。明日、大事な面談があるから」と残ったご飯にお茶をかけた。子供の頃からお茶漬けが好きで、食事のシメみたいなものだ。

彼女は、家族と過ごす食事の時間を大切にしていた。平凡ではあったが、ごく普通の家庭に生まれ、育てられたことに心から感謝をしている。

夕食が済み、片付けを手伝うと、「じゃあ、行くわ」と直美は玄関に向かった。

「慌ただしい子ねぇ。今度は泊まりで帰ってきて。風邪をひかないようにね」

母親が、名残り惜しそうに見送った。

閉店後の片付けをしている商店街を歩きながら、直美は「明日は、どう話を進めよう」と頭の中で考えていた。大事な面談とは、ブログにも書いた、ネグレクトを疑っている母親との面談だった。まずは今までの保育日誌を読み返してみようと、彼女は足を早めた。

マンションに帰り、保育日誌を読みながら、直美はあることに気づいた。最近、風子ちゃんの様子が落ち着いてきているのだ。以前は、友達にかみついたり、突然泣きだしたり不安定な時があり、その度に手を焼いていたのだが……。食事も家で食べてきているようで、こっそりパンを渡しても受け取らなくなっていた。

明日の面談は母親からの希望だった。今まで何度も話し合いをしようと、直美から声をかけたり、電話をしたりしていたのだが無視されてきた。こっそり、自宅まで様子を見に行ったこともある。呼び鈴を押しても返事がなく、風子の声もしなかったので、そのまま帰ってしまったのだが……。

とりあえず、保育園にも毎日通って来ているし、アザも消えている。虐待というのは自分の思い込みか、一時的なものだったのか、明日の面談で、とにかく確認しようと彼女は思っていた。

銭湯の人達が心配をしているのは、直美も薄々気づいていた。でも、個人的な情報を話すわけにはいかない。先回の帰り道、「大丈夫なの? よければ相談に乗るわよ。人の愚痴を聞くのは慣れてるし。お茶でもどう?」と里穂に誘われたのだが、「ごめんなさい。やっぱり、まだ話せないわ」と、直美は断わった。

「無理にとは言わないわ。わたしの素性もハッキリしてないものね。その内、ゆっくりお互いのことを話しましょう」と、彼女は気を悪くするふうでもなかった。

この人、突っ張っているけど悪い人じゃなさそうだわ。時期がきたら、里穂さんには連絡してみようと、直美は思っていた。自分とはタイプの違う、謎めいた雰囲気の結城里穂に、興味を持ち始めていたのだ。

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