(弐)それぞれの今 (第1章)野村天作の今

築四十年は経っていそうな、古びた二階建てのアパート。

野村天作は、重い足を引きずるように階段を上り、一番奥の部屋まで歩いていった。

「手がかじかんで、鍵がなかなか開かへんわ。はぁ」

天作は、白い息を吐く。

「ただいま」

ドアが開くと、そう声をかけ、真っ暗な部屋の灯りをつけた。

「今、ストーブをつけるさかいにな。ほんま寒うなってきたな。今日から十二月やな。雪でも降りそうや。山田くん、凍えてへんか」

天作は、ハムスターのカゴを覗き込むと、表情を和らげた。一DKの狭い部屋なので、すぐに部屋は温まってくる。

「ほな、メシにしよか」

天作は、山田くんに一方的に話しかけるのが、日常となっていた。

小さなキッチンで、朝作った弁当の残りを温める。食事制限をしているので、野菜中心の薄味のおかずと、玄米ご飯である。一日三食、ほとんど同じ物を食べている。料理のレパートリーに限界があるのだった。そして、インシュリンの注射と薬はかかさず飲んでいる。

「糖尿病とは難儀なこっちゃ。そうや、今日なぁ、ええ水を買うたんや。というても、バイトの子が荷物を崩しよってな。それで、崩れた品物は売り物にはならへんから、いつものように従業員に安う販売してくれたんやけど。ほら、見てみい、山田くん、ミネラルたっぷりや。飲んでみるか?」

天作は、スーパーのビニール袋から数本のミネラルウォーターを取り出した。その内の一本を、ハムスターのカゴの水飲み場に注ぎ、残りを一口飲んだ。

「ん? あまり味の違いが分からへんな。これでお茶を煎れてみるわ」

温まったおかずと、玄米とお茶を丸テーブルに並べた。座ってテレビをつけると、ちょうど、入浴剤のCMのシーンが映しだされた。

「風呂かぁ。そういやぁ、この前、いうても一週間は過ぎてるけど、久しぶりの銭湯、気持ちよかったわ。あの日は浮かれてたんか、なんや、自分やないような気もしてな。初めて会う人ばかりやから、知らず知らず気負うてたんかな。水野くんの話をしたら、笑われてしもうたわ。わいにとっては、大切な家族なんやけどな」

天作は茶碗と箸を持ったまま、ハムスターのカゴに顔を向けた。

山田くんは、注がれた水を勢いよく飲んでいる。

「そうか、美味いか。あれからみなさんのブログを見てみたけど、保育園の先生のことは気になるわ。あれから、どないしはったんやろな。可愛らしい人やったわ。まっ、わいなんか、相手にされへんやろうな。少しだけしゃべったんやけど、利用する駅が同じみたいやさかい、バッタリ会うこともありそうや。いや、別に期待してるわけやないで。偶然ちゅうことかて、あるやないか」

天作は山田くんに話しかけながら、内心、「ほんまに会えたらええなぁ」と思っていた。子供の頃のように優しく頭を撫でてもらえたら、それだけで元気が出るような気がした。もう何十年も人の温もりから遠ざかっている。人恋しい。

「いかん、いかん。わいは、山田くんと支え合って生きていくんやったわ。そやさかい、元気でおってぇな。そういやぁ、犬の代理とかでブログを書いてはる人もおったな。悪い人には見えへんかったけど、時々、犬の名前を呼んでたりして、変わった人やった。まぁ、わいも人のことは言えへんけどな。一緒に暮らしてれば、犬やハムスターかて家族になってしまうわな。さぁ、メシが済んだら、薬を飲まないかん」

天作は質素な食事を終えると、薬の袋から錠剤を取り出し、さっきのミネラルウォーターと一緒に飲んだ。

しばらくテレビを観ていたが、「薬も飲んだし。ほな、銭湯のような風呂いうわけにはいかへんけど、今日の疲れを流してくるわ。よっこらしょっ」と、天作はテーブルに手をついて立ち上がった。

狭い風呂場だが、一応シャワーも付いている。先に体を洗い、その間にバスタブに溜めた湯に、身を沈める。

「あぁ、気持ちええわ。次はいつやろな。銭湯に入るいうんが、こない贅沢な時代になったんやなぁ」と口にしてから、「一人暮らしやと、ほんま独り言が多くなるわ」と苦笑いをした。

風呂から上がると、湯冷めしない内にふとんにもぐる。今は、寝る前のブログチェックもしなくなった。婚活していた頃は、毎日のようにパソコンを開いていたのだが……。

横になったままテレビを観て、十一時には寝る。翌朝六時半に起き、自分で弁当を作り、薬とインシュリンの注射器を持ち、職場に向かう。

最近は、重い荷物を運ぶと後から腰にくる。

「年齢には勝てへんもんや」と天作は心の中で嘆いていた。昼は、若いバイトやパートのおばさんと世間話をしながら、変わり映えのしない弁当を食べる。夕方五時半まで働き、アパートに帰る。これが、野村天作の変わらぬ日常である。

それから五日後、帰宅途中の電車に乗ろうとした時、反対側のホームにいる直美を見かけた。

「あっ、桃先生や! ほんまに出会うもんやな」と思わず口から出た。そして、電車の中でも一人、頬を緩めたまま、窓の外を眺めていた。その日、彼は、寝るまで幸せな気分でいられた。

それからも天作は、毎日のように彼女を探した。けれど、そうそう会えるものではない。ただ、桃先生の姿を探している自分に、彼は満足していた。誰かを気にかけることで、日々の生活に張りを感じるようになったのかもしれない。

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