黒秘書さんとの出会い-2

 アリーは両の拳に込めた力を緩め、教官室の前でノックしようかしまいか悩むが、筆頭秘書から辛口の講評を聞かされる覚悟を決め、ノックする。


 入るようにとすぐに声がして、アリーは教官室に入る。正面の棚には雑多な物が置かれ、並べられた事務机も実に実用的なものだ。一応応接セットもあるが、たぶん、普段彼がいる秘書室とは雲泥の差があるに違いない。きっときれいなオフィスで仕事をしているんだろうと思いつつ、アリーは事務机に着いているブラッドレイに目を向ける。


「アリー・レイン。参りました」


 事務机の上にはアリーが一生懸命作ったオレンジピールのチョコが載った皿がある。まだ何片か残っていた。ブラッドレイはアリーの瞳を見つめると優しげな声で言った。


「どうぞ。座って」


 叱責されるかと思ったのに……とアリーは拍子抜けする。素直に応接ソファに座り、追ってブラッドレイも座る。ブラッドレイはアリーの個人データが印刷されているらしき紙を手に口を開いた。


「アリー・レイン。25歳。総合職で入社。前職なし。まちがいない?」


「はい。それまではカフェでアルバイトをしていました」


「アルバイトをしながら経営学修士MBA取得。頑張り屋さんなんですね」


 ブラッドレイが微笑みかけ、アリーは頬を赤く染める。彼女の人生においてこんな美形に微笑みかけられる体験は皆無だった。正直、心が躍る。


「パティシエールの経験があるのかと思いましたが……趣味でお菓子作りとかしていたのかな?」


 アリーは首を横に振る。


「いいえ。自分、そんなに器用でもなければ頭がいいわけでもないので、大学に行ったら大学の勉強で必死で、何を考えたかMBA取ろうと思い立って、あ、これは大叔父様のススメだったんですけど、えーっと、それで、なんでしたっけ?」


 アリーはしどろもどろになるが、ブラッドレイはにこやかに言う。


「聞いていますよ。続けてください」


 アリーは恥ずかしくなったが、彼の言うとおりに続ける。


「とにかく、もう勉強に必死で、やっとこの会社に入社できたので、これからなにかしなくちゃなとは思ってましたが、お菓子作りの趣味なんてまだとてもとても……」


「しかしこのオレンジピールのチョコはとてもいい出来で、私はものすごく感銘を受けたんですよ。荒削りですが、チョコ作りに大切なものを感じられました」


 ブラッドレイはまた微笑んだ。どうやら褒め殺しとかいう感じではなさそうだ。


「いやあ、過分なお言葉です」


 素直にアリーは照れてしまった。


「きちんと美味しかったですよ」


「本当ですか!? 嬉しい! 生まれて初めてそんなこと言われました! チョコ作りってとっても面白いし、作っていて幸せになりますよね!」


「君は面白いですね。君みたいな総合職が伸びてくれれば、きっと現場も安心することと思います。師匠マスターは――いや、社長は君みたいな存在を求めていますから」


「そうなんですか? しかしながらそうお聞きしても今ひとつ信じがたいのですが……」


 ショコラトルは飛ぶ鳥を落とす勢いの製菓会社である。しかし実際はそうではないのかもしれない。


「会社が大きくなるとどうしても現場と乖離することが多々あります。現場とのコンフリクトが起きるとどうしても効率が低下しますし、破綻のきっかけにもなりかねないものです」


「おっしゃるとおりです。しかし私にはやっぱり過分なお言葉です」


 アリーもブラッドレイが言っていることの意味は分かるが、自分の程度の人材がその問題を解決できるとは到底思えない。


「今すぐどう、という話ではありませんから。伸びてくれたら、ですよ」


「そうでしたそうでした……」


 思い違いも甚だしい。アリーは照れて俯いてしまった。


「……かわいいですね」


 ぼそっとブラッドレイの口からそんな言葉が聞こえた気がして、アリーは顔を上げた。


「どうかしましたか?」


「い、いえ。聞き違いだと思います、たぶん」


 ブラッドレイはただ微笑んでいるだけだ。そして微笑みながら再び聞いた。


「本当にお菓子作りの経験はないんですか?」


「子どもの頃――母が生きている頃に作ったことがあるくらいですね。それも私の方が結構せがんで作ったんです。そのときに作ったのがこのオレンジピールのチョコで、懐かしいなあと思いつつ作りました」


「そうなんですか」


 ブラッドレイの顔色が変わった。


「でも、母はお菓子作りがあんまり好きじゃなかったみたいで、作っている最中、笑顔がなかったので、作ったのはその1度切りですね」


「お母さんのことを慮ったんですね……君は優しいんですね」


「私も最初は楽しかったんですけど。母の顔を曇らせてまでお菓子作りをしても、楽しいはずがないじゃないですか」


「でも、お母さんは君にせがまれて、オレンジピールのチョコを作ったんですよね?」


 ブラッドレイがどういう表情をしているのか、アリーにはうかがい知れなかった。不思議な表情だ。懐かしそうな、悲しそうな、それでいて微笑んでいて――故人との思い出を聞いて同情しているんだなとアリーは判断した。


「いいお話です。でも、うちのチョコレート作りの手順でお母さんのレシピのオレンジピールのチョコが再現できたことになりますが?」


「そうですね。うろ覚えですけど、手順はそんなに変わっていないと思います」


 ブラッドレイは小さく頷いた。


「わかった。ありがとう。君のことを少し知ることができて良かったです」


「はい……そうですか」


 一新入社員にすぎないアリーのことを筆頭秘書のブラッドレイが知って何のメリットがあるのかは分からないが、そう言うのだからそうなのだろうとアリーは思うことにする。しかしブラッドレイは何やらまた複雑な表情をし始めた。今度は困惑したような、躊躇うような、恥ずかしげな、そんな表情だった。そして数秒後、アリーから目をそらして口を開いた。


「ところで……セクハラになるならもちろん答えなくてもいいのですが、今、特定の人と付き合ってるとかいうことはありますか?」


 えええええええ!?


 アリーは心の中だけで叫んだ。こんな美形にこんな質問を受けるなんて全く想像していなかったし、人生でこんなことが起きるなんて全くの想定外だ。

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