第32話 冷泉為恭の顧客事情

 為恭が尚忠の特使として讃岐に渡った頃、桜田門外で事件が起きていた。

 幕府の大老が浪人によって暗殺されるなど、以前には考えられないことだった。幕府の権威というものは一体どこへいってしまったのだろう。幕府の凋落ちょうらくに反するように朝廷の力は増していく。


 そういう時世の中、為恭は顧客の間を走り回っていた。

 相変わらず注文が多い。今日は毛利もうり敬親たかちかの元を訪れている。

 三条家からの紹介で敬親が注文した絵を届けに来たのだ。最近は『重盛しげもり諫言図かんげんのず』や『楠公図なんこうず』など、主君への忠義や孝行を想起させるような画題を頼まれる。これは尊王の志を持つ者が特に好んだ。


「いい出来だ」


 そう言った敬親たかちかが絵を掲げて居並ぶ家臣にも見せた。

 尊王の気概を美しく彩り仕上げられた絵は、藩士の中からも称賛と欲求の声があがる。

 むろん為恭は気軽に注文を受けた。

 だが為恭が提示した金額は、想像以上に高額だと藩士たちに驚かれる。それほどに絵というものに価値があるのかと問われた。


「岩絵の具がたこうてなかなか手に入らへんのです。水墨でしたらもう少しお安うさせていただけます。ですが絵の価値はその人次第。高う思われましたら申し訳あらしまへん」


 為恭にしてみれば提示したのはいつもの金額である。理屈も己の信条もそのままだ。だが浮世絵とは違う肉筆にくひつの一枚絵に馴染みのない人々にはなかなかに手が出しづらいものだったのだろう。


「私の絵は高いんやろか」


 尚忠の直廬じきろで首をかしげる為恭に尚忠も同じように首をかしげた。


「お前の絵は安いもんやなかろ。あまり安うされたら儂が恥ずかしいわ」

「おおきに。そない言うてくれはって、ほっとしました」


 為恭が人気の絵師であることは間違いない。昔からの顧客である尚忠にとっては今更なにを言っているというところだろう。


「それよりも描きたいもんを描かせてもらえへんのです。鎧武者よろいむしゃも嫌いやあらへんのやけど、私は宮中の物語絵のほうが好きやし、そっちが描きたいんですわ」


 やまと絵は故事から題材を取ったものが多い。中でも宮廷世界の美しさを追い求める為恭にしてみれば、それを声高に主張できない時世であることが悔しい。


「お前と同じように皆、おのが理を信じて主張しとる。簡単には曲げられんやろ。度を越せばつかみ合いにもなる。お前、儂と立場が反対の者のところにも出入りしとるな?」


 尚忠が為恭の愚痴にかこつけて、ちくりと刺した。

 それに対し為恭はまっすぐに視線を返す。


「新しいお客様も昔からのお得意様も大事やいうことに変わらしまへん。ご注文いただけるのはありがたいことです」


 それが為恭の信条ならそれ以上は言えぬかと尚忠は思いを振り切った。


「お前にはなに言うても無駄やいうのがようわかったわ」

「九条様は甘やかしてくれはりますなあ。うちの弟子にも見習みなろうてほしいわ」

「お前に口酸っぱく文句を言えるとはのう。ええ弟子を掴まえたもんや。いつまでもお前んとこにおってくれたら儂も気ぃが楽んなる」

「弟子はいつか師匠から離れるもんや思てますけど。まあ、それまでは大事に育てます」


 出歩く時は気をつけろと改めて尚忠に言われ、為恭は深く頭を下げた。

 また別の日、京都所司代の屋敷、離れの小部屋に通された為恭はここでも深々と頭を下げていた。


「またお前か」


 酒井忠義ただあきが復職し京に戻ってくるまでは、もう絵巻は見られないかもしれないと絶望していただけに為恭の喜びは尋常ではなかった。満面に笑みを浮かべ早速に口火を切る。


「殿様、『伴大納言絵巻ばんだいなごんえまき』見せていただけまへんやろか」

「家宝ゆえ、おいそれと見せるわけにはゆかぬが……」

「今日が駄目やったら明日も参ります。よろしゅうお願い申し上げます」

「儂の話も聞け」


 頭を抱え忠義ただあきが大きなため息をついた。


「お前はそう言うてくると思うておったがそのままだな。絵巻はこの部屋から出さぬように。絵道具を置くことは許さぬ。持って参れ」

「描いてええのですか!」

「お前には負けたわ。九条様に不憫そうに見られた意味がようやくに落ちた」

「おおきに! ありがとうさんでございます! そうやったんや、九条様もお口添えくれはったんですね。絵巻、写し終わったら一番に殿様に見ていただきとう存じます」


 抱きつかんばかりの為恭に苦笑を送り、忠義ただあきは言わずもがなの釘を指した。


「よいか為恭。重ねて言うが、あれは酒井家の家宝である。本来、儂でさえ決まった日にしか目にできぬものだ。屋敷に来たら必ず儂が持って参る。不在の折は諦めよ」


 引き攣った顔の忠義が目に入らないのか、為恭のいつもの笑い声が低く小さく、だがずっと続いていた。

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