第31話 金刀比羅宮
「ほな、行てくる」
綾野が見送る中ひらひらと手を振った為恭は御所の門を潜り、関白の
尚忠が早々に復職したように派閥は夜ごと日ごと入れ替わる。今、勢いがあるのは公武合体派だった。
「
為恭は頼まれていた下絵を差し出す。
「確か
「いや、そういうわけやない」
不思議そうに首をかしげる為恭に対する尚忠がいつもより酷薄そうな表情を見せた。
「早めに考えて差し上げようと思とったのや。いずれ宮様におかれては自由な婚姻などは望めぬ」
尚忠の言葉の半分は呟きだった。政治向きのことだろうと為恭はそれ以上を聞かずひと言だけつけ加えた。
「お輿入れ先でのお慰めになったらよろしいんやけど」
為恭に向き直った尚忠が、仕切り直しとばかりに頼みがあると言った。
「なんでございましょう」
「
「金刀比羅宮には一度行ってみたい思てました。それは楽しみなことやなあ」
「三月の御開帳に間に合うように頼む」
「承りました」
為恭は驚きながらも嬉しそうに目を輝かせた。尚忠の元を辞した為恭は早速に旅の支度を始める。
「為恭様、旅支度ですの? どちらへ行かれるのですか」
「九条様の御用で讃岐へ渡ることになった」
驚いて、まあ、と言ったきり綾衣が顔を伏せた。今度は為恭が驚いた。
「綾衣? どないした。具合でも悪うなったんか」
「また長くお出かけになられるのですね。
「綾衣……」
「寂しゅうございます」
為恭は泣き崩れる綾衣を抱き寄せた。
「そうやったな、岡崎にも長くおったからなあ。すまんかった。出発までは御所の御用もあらへん。ふたりでこうしていよう」
「為恭様は意地悪ですのね」
童女のように頬をふくらます綾衣に為恭は、うふっ、と小さく笑う。
「どこが意地悪なんや」
「ずっと放っておいて、それなのにそんな風にお優しく言われては怒れなくなりますわ」
「怒らんかったらええやないか。綾衣は笑った顔のほうが美しい」
「いいえ、
「そんな可愛いこと言われたらかなわんなあ、いけずな口は塞いでしまお」
為恭は合わせていた口をそっと離す。綾衣の頬がほんのりと上気した。
「美しいなあ、純白の牡丹に色が差したようや」
潤んだ目の綾衣を見つめ、為恭はその頬を撫でる。とろりと濃密な時間が流れ始めた。睦み合うふたりの時間は急ぎ足で過ぎていく。
数日のうちに為恭は吉日を選んで旅立った。
「風の匂いも
そう言って為恭があの妙な笑い声を上げる。
ぽこりと青に浮く島を横に船が行く。
為恭の隣に立つ綾野も遠く広い空を見ていた。
「ここだとその笑い声もあまり気になりませんね」
「綾野は師匠に対して失礼やぞ」
それでも機嫌良さそうに為恭が言う。
「
晴天の中するすると船は走り、為恭と綾野を讃岐へ運んでいく。
金刀比羅宮では早速に尚忠の
絵馬には神馬が描かれることが多いのだが、為恭の奉納したものは『
その後は請われて『
「為恭様、俺ここの障壁画が見たいのですが許可をいただけないでしょうか」
「それは私も見たい。
宥常がすぐに許可をくれたのでふたりは金刀比羅宮の中を見て回ることにした。
書院の襖の前でぶつぶつと為恭が呟く。
「
若冲の描いた紫陽花、蓮、菊、牡丹、水仙、
花弁の一枚、葉の虫食い跡まで細かな観察の目が向けられている色鮮やかな花々。それは形を変え、繰り返し現れ、見る者を圧倒するほどに覆い被さってくる。
「模様というより花を活けて……いや、そのままここに植えてるみたいだ。すごいですね、花でむせ返りそうになります」
綾野の言葉も少ない。
「どれだけ見てはるんやろ、容赦なさすぎて怖いくらいや」
花に酔いそうだと為恭がよろめく足を表書院へ向けた。
今度は『鶴の間』『虎の間』『
「……ああ、こっちは少し優しゅう見せてくれはるんやな」
鶴が身を寄せ合い、虎が睨み合い、
「悔しいわ。模写だけやあかん、もっと写生もせなあかん」
手が届いたかと思うとそれが幻だったことを思い知らされる。模写から学ぶことは大いにあるのだが、書院の絵が、絵師の魂が、自然から学ばなくていいのかと訴えかけてくる。為恭の言葉に応えた綾野の声も震えていた。
為恭はため息と共に呟く。
「ああ、ほんまにここはええなあ。私ももっとここで描かせてもらえへんやろか」
さすがにその場で描き続けることは御所の勤めもあり難しい。為恭は五十日ほどで京に帰ることになる。だが
京から龍を運んで来た綾野は表装された天井を見上げる。
「今回は為恭様はいらっしゃらないのですね」
目を下げると年若い
「
地団駄を踏んでいたとはさすがに言えず、綾野は苦笑混じりにそう答えた。
「為恭様は面白い方ですね」
そう言って
龍の丸めた体を取り囲むように雲が渦巻いて、龍自体が雲気を発しているようにも見える。勢いのある水墨の筆が太く走る。描かれた龍の毛の一本、鱗の一枚まで濃い墨線で縁取られる。そこに加えられた金彩が龍の神々しさを引き立てる。
「昨年ここに来られた時は柔らかいやまと絵を描かれていたでしょう。実を申しますと大きな天井画はどうかと思ったのですが素晴らしいですね。狩野派に近いのですが、やまと絵の緻密な表現もなくしたわけではない。そこが為恭様らしい」
どちらもこの水墨画に生かされていると宥常が言う。
綾野は見上げたまま、ほう、とため息をついた。狩野派の画風は拙いからと嘆いた為恭はもういない。学び、吸収した画技を使いこなしている。
綾野は改めて京狩野の伝統に思いを向けた。豊臣家に仕え、多くが江戸に移っても京に残り、公家や寺社、御所にその画を愛され残してきた。
「ありがとうございます。そのお言葉、為恭に必ず伝えます」
その狩野派の絵も再び己のものとする巧みさ。為恭はいつも気づけば遠くにいる。描けるかと問われ、もっと描けと鼓舞されている。そんな気がした。
綾野は誇らしさと同時に悔しさを噛みしめ、京への帰路についた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます