第30話 京の町中にて

「綾野、絵の具と紙を選びに行く」

「外出する気になられたのはいいですが危なくないですか。俺が行ってきますよ」

「困ったなあ、綾衣あやぎぬも出かけたがっとる。私は攘夷浪士やあれへんし大丈夫やろ」


 安政の大獄で攘夷派の浪士がおとなしくなり、京の町も少しだけ静けさを取り戻したように見えていた。だが表向き声を上げなくなったというだけで幕府方に報復しようとする動きがなくなったわけではない。


「綾野殿、林を呼んでくださいませんこと? わたくしの警護はそれで十分ですわ」


 用人とはいえ剣技も確かだからと綾衣あやぎぬが言う。


「今は町も静かに見えますが……」

「日の高いうちに戻れば大丈夫でしょう。私たちが何をしたというわけでもありませんもの。為恭様、早く参りましょう」


 綾野の懸念に返した綾衣あやぎぬの言葉に、とろりと目尻を下げた為恭がうなずく。


「綾衣の言う通りや、行こう」


 そう言って出かけてきたものの、やはり町の空気はぴりぴりとしている。


「早う用事を済ますのが吉やな」


 眉根を寄せ為恭が呟く。辺りを見回していた綾衣も眉をひそめた。


「あの人たちは?」

「攘夷浪士かもしれません。彼らの間ではああいうこしらえが流行りだそうで。特に長州人に多いらしいです」


 綾衣に応えた林宇一郎ういちろうの目線の先には侍が二、三人、閂差かんぬきざしの朱鞘しゅざやを見せつけるように腕を組み肩をいからせている。


「長州の人たちは大獄から逃れるために国元に帰ったと聞きましたが」

「戻ってきたのでしょうな。攘夷の活動をするにはやはり京でなければということでしょう」


 綾野の問いに宇一郎が苦い顔で答える。その間も周りに目を配りながらだ。

 また京が騒がしくなると綾野は顔をしかめた。


「いずれにせよ、早めに帰りましょう」


 宇一郎と綾野は険しい顔で互いに目を見交わした。

 通りを歩く人々に目をやるのは侍たちも同様だった。


「相変わらず京の者は浮かれちょりますな」

「おっ?」

「どうした」


 すわ、と刀に手が掛かる。


「いや、あの女子おなごではありゃせんでしたか。大楽さんの想い人」

「お、おい! 何を言うんじゃ!」


 狼狽うろたえる大楽だいらく源太郎げんたろうに笑みを向けながら、その侍がひゅうと口笛を吹く。


「あれは、あの様子では人妻じゃろう」


 口ごもる大楽に、そうかと侍があっけらかんと笑いかけた。


「亭主は、どこかで見ましたね。どこじゃったか……」


 もうひとりが思い出したと手を叩く。


下立売しもだちうりの屋敷の絵師じゃ」

「知っちょるのか」

「えらく広壮な屋敷に住んじょったんです。毛虫火事であの辺は焼けたようじゃが」


 大楽は為恭を睨めつける。


「調べてみられますか、大楽さん」

「きな臭い気がするんじゃがこれから水戸へ行こうと思うちょる。今は暇がない」


 応える大楽は去っていく綾衣を見続けていた。

 あの日、と大楽は心に思う。


 ひと目見た時から心に住みついた。微笑んだところは弁財天か吉祥天かと思った。

 密かに探して知ったのは、攘夷の気概もないような絵師の妻だったことだ。浮ついた亭主の元にあの人がいるかと思うとはらわたがちぎれるかと思った。今日に限って亭主も一緒とは全く以て腹が立つ。


 ふん、と鼻を鳴らし大楽はきびすを返す。

 なにかあれば斬るだけだと独りごちた。

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