第33話 欲深な者たち

「為恭様」

「なんや、綾野」


 まとわりつく視線が煩わしいと綾野は言った。


「最近特にそうなんですが、酒井様のお屋敷に向かう途中、誰かに監視されてるように感じませんか」

「ああ、それか。攘夷派の浪士やろな。あっちゃこっちゃ揉めてるて九条様も言うてはったわ」


 為恭に御所での話を聞かされた綾野は強ばった顔で低い声を出した。


「知っててなんで出かけてきたんです。難癖つけられたら面倒ですから今日は帰りませんか」

「そらあかんわ。まだ描き終わっとらん」


 頼むと為恭が笑う。

 なぜ笑っていられるのかと綾野は思った。大老が暗殺される世の中だ。なにかあったらどうするのだ。怖い顔のまま、せめて早めに切り上げろと詰め寄った。


「こればっかりは言うこと聞かれへん。どないしても描きたい」

「そのために死んでもいいんですか」


 綾野が睨むと為恭がそうやなあと空を仰いだ。


「子どもの頃、父上が訥言の模写をうてくれた。あん時はだいぶ無理してくれはったんやろな。そん時からいつか見たいて思とったんや」

「……後少しっていうのはもう聞きませんからね」


 綾野は絞り出すように言って、また為恭を睨む。


「あの絵巻はどんな思いで描かはったんやろなあ、まるでその場にいたかのようやったやろ。公家と庶民の表情の対比も、炎の臨場感もほんまに素晴らしい。ひとりの男がほんの些細な子どもの喧嘩から破滅するまでをあんな見事に描ききってはる。あれほどのもんを写さんなんてあり得へんわ」


 為恭のとろりと垂れた目に強い意志が光った。


「綾野、私は死んでも描く」


 その日も取り憑かれたように模写していた為恭だったが、やはり帰り際にはもう少しとごねた。

 酒井家からの帰り道、やはり背後に視線が痛い。ひりつく気配に為恭の足が早まっていた。


 町中で視線を感じるのは綾衣あやぎぬも同じだったようだ。所用で町に出ていた時、供をしていた宇一郎ういちろうを振り向いて不機嫌そうに言った。


「林、また見かけましたわ。なんですの、あの男は。気持ちが悪い」


 為恭と町を歩いた時にも見かけた気がする。家を出る度に目に入るように思うのは偶然なのだろうが、いつも様子をうかがわれているようで気味が悪い。綾衣は不快を隠さない。


「攘夷浪士でしょうな。関わりにならないがよろしい」


 宇一郎が怖い顔で止め、小声で言う。


「もちろんよ、気味が悪くて嫌だわ」


 言ったきり綾衣の気持ちはそこから逸れた。

 それよりも心にかかることがあるらしく歩きながら小さく呟いている。どうやら為恭が忙しくかまってもらえないらしい。そういう可愛らしいところは幼い頃と変わらない。

 苦笑をこらえた宇一郎が言った。


「お嬢様、それは私ではなく為恭様ご本人にお話されてはいかがですか」

「わかっていますわ。愚痴も聞いてくれないなんて林は意地悪ですこと」


 綾衣は赤い顔で文句を言い、ぷっ、と頬をふくらませ家路についた。

 家へ帰ると為恭の正面に座った綾衣が藪から棒に言う。


「浮気をしてしまいますわよ」

「そら困る」


 言われた為恭は驚いて眉を下げ、悲しそうに綾衣を抱き寄せた。


「なんでそないに言うんや」

「為恭様が意地悪だからですわ」


 嫌々と綾衣が逃れようとする。逃がすまいと為恭は腕に力を込めた。


「美しい綾衣が私の手をすり抜けてまうんは悲しい」

「仕方がありませんわ、為恭様がかまってくださらないのが悪いんですのよ」


 綾衣がことりとその胸に体を預けた。負けじと文句を言っては甘える。

 為恭はそれには笑って応えた。


「綾衣は欲深やなあ」

「それは為恭様も同じでしょう。わたくし、知っていましてよ」


 欲深な者同士、互いにどこまでも相手を求める。

 夜ごと日ごと相手を求めるのはもうひとりいた。


 大楽だいらく源太郎は京の町を彷徨い歩く。

 脱藩も暗殺計画に関わったこともようやく許され京に出てこられた。今は久坂くさか玄瑞げんずい高杉たかすぎ晋作しんさくらと協力し尊王攘夷運動を進めている。

 だがそのことよりも切実な想いで胸が痛い。町で見かける度に想いは募る。


 綾衣を自分のものにしたい。

 へらへらと浮ついた亭主の顔がうとましい。

 あれさえいなければ。

 あの人は俺のものになる。

 京を歩く一歩ごとに気持ちが募る。

 だから大楽は調べ始めた。

 綾衣を得るために為恭の弱みになることを探す。

 そうして見つけた。


「岡田為恭は三条様のご紹介で毛利の殿のご用を受けたはずだ。だが九条尚忠に仕えている。尚忠の家宰かさい、島田左近さこん奸賊かんぞくなのは承知の通りだ。それに京都所司代、酒井若狭守のところにも出入りしている。これは攘夷派の策を探り伝える役だからだ」


 これであの人を俺のものにできると大楽はほくそ笑む。

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