第3話「奴隷少女の名前」

「ここが、今日から君の住む家だ」

まざまざと佇む住まいに、彼女はただ立ち竦む。

帰路に歩き出してから数時間が経った。

その後、奴隷商人が町から姿を晦ましたと、直ぐに出回った。

噂では、何者かに襲撃されたとの話もあるが、真相を知る者は、まだいない。


街を一望する高台に佇む小さな家、それが彼女の新たな居場所だ。

人里離れた山奥にある為か、人の出入りも少なく静かな場所である。


しかし、その静けさも束の間の休息に過ぎないだろう。

奴隷商人という、元より命を扱うことを生業としている者は基本的に地位が高い。

雇われ人も連れていたことからして、貴族生まれの人間であるというのが大凡の見方。


逃亡者となった以上、彼らはありとあらゆる手を使って足取りを探るだろう。

仮にも貴族から奴隷を盗んだのだ、その程度は当然の末路と言える。


それとは別に、今の彼女にとって言うべきではないということだけは確かであるが。


先ずは、住まいを紹介するところから。

まともに使用していない為、黒カビの増殖した浴槽。普段は川の水を汲み、タオルに染みこませて身体を拭いている。台所も、料理など極めて稀である。ならば、有り様を想像することは容易いだろう。


純白に結晶化した油に埃の積もるテーブル。

敷物は見当たらず、足裏は白いタイルが敷き詰められた床。

唯一、この家で人間の居住空間としての面影を残しているのは、窓から窺える景色くらいだろうか。

天井に届きそうな本棚が壁一面に設えられ、本が隙間なく埋められている。棚も足りないのか、所々には平積みの書籍すら見受けられる。

しかしそれでも尚圧迫感を覚えないのは部屋そのものの大きさ故か。

凄惨な場を目の当たりにしたからか、思わず顔を引きつる彼女がいた。


客間は、改めて質素な造りをした部屋である。

白を基調とした壁と床には絢爛紋様が描かれている。

しかし、それに彩りを添える小物や家具の類いは一切存在しない。

唯一目に留まるものと言えば、部屋の中央に置かれたベッドくらいか。


…流石の美貌も、長らく清潔にしていないのだとしたら勿体ないもいいとこだ。

近辺の川で身を清潔にするよう促した。その間に、変色した浴槽を掃除する。

水垢が付着し、黒ずんだ浴槽。

単にスポンジで擦るようでは中々に落ちない為、専用の洗剤で洗う必要がある。

惜しいことに、普段の出費の中には洗剤など含まれていなかった。

これを機に、購入を考えてもいいかもしれない。


粗方のカビを擦り落とし、今度は水で流す。

皮脂汚れの酷い箇所に布を押し当てる。強く擦る必要はない

要は汚れを浮かし取れればそれで良いのだ。

最後に、水気が残っているとカビの原因となる為

しっかりと乾燥させる必要があるが、今回は時間が無い為省略した。


浴室の掃除はこれで完了。後は彼女が戻るのを待つのみだが、ふと、周囲を見渡してみた。


人間の生活感は一切無い部屋。整頓されていると言えば聞こえはいいが

生活感を欠落させているとも言える。


「お待たせしました」

落ちる一滴の雫に似た、透き通るような声。一滴が波紋を呼び起こすように声もまた反響する。

振り返ると、そこには見目麗しき少女が佇んでいた。

水気を帯びた髪と、上気した肌。そして何より、その美貌は見る者全てを魅了する。


「あぁ、悪かったな、風呂場が使えなくて」

彼女は、首を横に振るう。一節入れようと

「あ」と小さな口を開くが、すぐに閉ざす。

醜い姿だからなのかと考えが頭を過ぎるが

そんな話をしている場合ではないと必死に頭の隅から追いやる。


テーブルに座るよう促す。彼女は、一礼をして席に着いた。

向かいに腰を下ろす。そして、改めて彼女の顔を見た。

光沢のある火打石を思わせる、輝きを放つ瞳の奥に

深淵が広がる、底無しの闇を携えながら、それでいても尚光を失うことのない輝き。


「君の名前を教えてくれるかい?」

「リアナ、「リアナ・コルヴェリア」と申します」


口を開けるなり、再度物言いたげに瞳孔を開いては瞼を閉ざす。

口を閉ざす訳に、おおよその見当がついた俺は、彼女に続きを話すよう促した。


「…もう一度聞いて良いですか」


震えた声。弱々しいその声、全てを憎み、包み込む。

窮鼠、猫を噛む、というのがあるだろう。

一匹の鼠が猫を噛んだところで、それはただの傷跡に過ぎない。

猫が噛まれた程度では死なない。だが、鼠がそれ以上の力を持ち合わせていたとしたら。

一度噛み付いたのなら最後、穴から穴へともがき、骨まで食い尽くされるだろう。

その牙が今か今かと待ちわびているのに気付かないのは、愚かだと言えるだろうか。


圧巻されるその気迫に、うんと一振り、頷くことしか出来なかった。


「あの時、どうして私を助けたのですか」


「もう一度言う、君の姿は、俺と似ていたからだ。

死ぬのは怖い、嫌われて、恐れられて、生きているのが辛いと思うような日々を過ごしていても

死ぬのは怖かった。怖かったんだ、あと一歩を踏み出せない、そんな情けない俺が

我儘ながら、どうしようもなく君に重ねてしまったんだ」


「違います、あの場、あの時、死にたくないというのは確かです。

でも、私だって、人間なんです。

一人の人間で、様々な人間が日々を、地と共に生き抜く。

そんな中、見ず知らずの私で

金目当てでもない貴方は突如として手を差し伸べた。馬鹿でも分かります」


「……貴方は、男だから」


涙を浮かべながら、その眼は嫌悪感の一つも抱いていない。

唯一畏怖の対象として向けられていない視線に、複雑な感情と、そして安堵感を。


「今日は、本当に色々とありがとうございました。

私はあの一言で救われました。

あのままでは、自身すら失うことになっていたでしょうから。

これからよろしくお願いします」


俺は、客間へと歩みを進める彼女の背中を、眺めることしか出来なかった。

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