第30話 激昂の殺し屋
「や、やっと帰れる」
誰にも聞こえないように呟いたフェルリート。
実は店主に対し、若干の気持ち悪さを感じていた。
だが、ヴァンとエルザが一生懸命探してくれた店だと思い全てを飲み込む。
自分が我慢すれば、ヴァンたちはフェルリートの心配をせずに、旅を続けられると考えていた。
「あ、あれ……」
扉のノブに手が届く直前で、フェルリートが前のめりのままうつ伏せで床に倒れた。
「あ、ああ……」
意識が朦朧としているフェルリート。
小さな口からよだれが垂れる。
「だ、大丈夫ですか!」
店主が駆け寄る。
「フェルリートさん! フェルリートさん!」
フェルリートの背中を擦る店主。
「頭はぶつけてないですか?」
フェルリートの頭を擦る。
同時にフェルリートの美しい黒髪の匂いを嗅いでいた。
「はあ、はあ。もう初めて見た時から、この髪に触りたく触りたくて」
フェルリートの髪を持ち上げ、優しく撫でる店主。
そして舌を出し、舐め始めた。
「ああ、本当に美しい」
髪を舐めた舌は耳に近づき、フェルリートの頬を一度だけ舐める。
「や、やめ……」
「この薬はね。すぐに気持ち良くなるんですよ。私の虜になりますよ。今日からずっと」
「や、や……」
「ほら、気持ち良いでしょう?」
右手で黒髪を撫でながら、汚い唇をフェルリートの小さな唇に重ねようとする店主。
「い、いや、やめ……」
「すぐ気持ち良くなりますよ。フフ、フフフ」
店主の荒い鼻息が、フェルリートの頬を不快に湿らせる。
「や、やだ……。エル……様。ヴァ……様。助け……て」
「誰も来ませんよ。フフフ、フフフ」
フェルリートの唇に触れる寸前で、落雷のような轟音と同時に店の扉が開いた。
いや、開いたなんて優しいものではない。
蹴破られ、吹き飛んだ扉が店の奥の壁を破壊。
「な! 何ごと!」
顔を上げ驚く店主。
「フェルリート!」
「ヴァ……様……」
「この香りは? あの媚薬か!」
瞬時に薬を盛られたことに気づくヴァン。
ヴァンは以前の任務で、麻薬から抽出された媚薬を大量に飲んでいた。
もちろんヴァンには全く効果がない。
「貴様! フェルリートに何をした!」
激昂したヴァン。
感情を表に出さない、いやそもそも感情が薄いヴァンにとって珍しいほどの怒りだ。
いや、初めての怒りだろう。
「フェルリート!」
髪が濡れたままのエルザが店に入ってきた。
「エルザ、すぐにフェルリートを連れて外へ出ろ!」
「は、はい」
「今すぐここから離れろ!」
「はい」
フェルリートを抱きかかえ、外へ出るエルザ。
ヴァンと行動するようになって、初めて見たヴァンの表情に驚いていた。
「フェルリートごめんね。もう大丈夫だから。大丈夫よ」
「エル……様」
「一緒に宿へ帰りましょう。大丈夫よ」
「ごめ……さい。ごめ……さい」
朦朧とした意識の中で、ただひたすら謝るフェルリートだった。
エルザとフェルリートが店を出ると、ヴァンは店主の前に立つ。
「貴様」
「ち、違うんです! 私は仕事を教えただけなんです!」
店主を睨みつけるヴァン。
かつてないほどの形相だ。
「ち、違うんです! そ、そうだ! 私は雇ってあげたんですよ! 雇い主ですよ!」
「あの薬はなんだ? 麻薬だぞ」
「違うんです! 違うんです! 初めての仕事で疲れたと思ったから。そう! 疲労回復に効くんです!」
「言い残すことはそれだけか?」
激昂したヴァンに恐れおののく店主。
すぐさま床に正座した。
「お、お願いです。魔が、魔が差したんです。あまりに美しい黒髪だったから」
「黒髪が好きなのか?」
「そ、そうです。彼女の黒髪はとても美しいんです」
「そうか。確かにそうだな」
「フ、フフフ。そうでしょう!」
ヴァンは店主の髪を無造作に掴む。
「い、痛っ! な、何を!」
「黒髪が好きなのだろう?」
右手で掴んだ髪を一気に引きちぎった。
数万本の髪が抜け、皮膚までめくれている。
「ぎゃあああああ!」
床にのたうち回る店主。
「黒髪が好きなんだろう?」
店主の体に引きちぎった髪をばら撒く。
皮膚がついた髪は、まるで抜いた芝生に付着した土のようだ。
「もっとくれてやろう」
「お願いします! お願いします! もうやりません! お願いします! 助けてください! お願いです! 助けてください!」
「貴様らクズは必ず命乞いをする」
「か、家族がいるんです! 妻が、子供が。命だけは助けてください!」
ヴァンは棚から一本の瓶を取り出し、中の液体を店主と床に撒いた。
「こ、これは? あ、ああ! た、助けてください! お願いです! 何でもします! 助けてください! お願いです! お願いです!」
「何でもするのか?」
「はい! 何でもします! 何でもしますうう!」
壁にかけられた蝋燭立てに手を伸ばすヴァン。
「何でもしますからああああああ! 何でもおおおおおおおお!」
体中の体液を全て流す店主。
正座しながら両手を組み、神に祈るような姿勢を取る。
「何でもしますからああああああああ!」
「では死ね」
店主の体に蝋燭立てを落とした。
「貴様に運など不要だ」
店を出たヴァンは、すぐにエルザを追う。
フェルリートを抱えて歩くエルザを発見。
「エルザ。大丈夫か?」
「ヴァン! ヴァンこそ平気?」
「俺は問題ない。代わろう」
ヴァンはフェルリートを抱え、道路脇の茂みに入った。
そこでフェルリートをそっと下ろす。
「フェルリート。水を飲め」
フェルリートを仰向けにし、口に水筒をつける。
無理やり水を流し込む。
「飲むんだ」
水筒の水を自分の手にかけるヴァン。
そしてフェルリートの首を横に向かせ、口に指を突っ込んだ。
喉の奥深くまで無理やり押し込む。
「ぐええええ」
「そうだ。全部吐け。吐くんだ」
吐き終わると水を飲ませ、また吐かせる。
フェルリートの歯がヴァンの指に当たり流血。
それでも構わず繰り返す。
エルザは地面に座り込み、大粒の涙を流している。
「フェルリート! ごめんなさい! ごめんなさい! あなたにまた辛い思いをさせて! ごめんなさい!」
水筒の水がなくなるまで嘔吐を繰り返した。
涙、鼻水、よだれを垂らすフェルリート。
美しい黒髪も吐瀉物まみれだ
「フェルリート、よく頑張ったな。偉いぞ。もう大丈夫だ」
「ヴァン様、エルザ様。申し訳ありません。申し訳ありません」
フェルリートの意識がしっかりと戻った。
あの媚薬は死ぬこともある強力な麻薬だ。
まだ十五歳のフェルリートにとっては劇薬といえよう。
フェルリートを優しく抱え上げたヴァン。
「フェルリート。宿へ帰ろう」
「ヴァン様、申し訳ありません。申し訳ありません」
「何を謝ってるんだ? もう大丈夫だ。安心しろ」
「せっかく仕事を探してくださったのに。申し訳ありません。申し訳ありません」
「いいんだ。帰ろう」
ヴァンに抱きかかえられたフェルリート。
ヴァンの背中に腕を回し、しがみつくように抱きついている。
「申し訳ありません。申し訳ありません」
泣きじゃくるフェルリートの涙が、ヴァンの肩を濡らしていた。
しばらく歩くと、住人が騒ぎ始める。
「おい、火事だ!」
「あれは! 薬局か!」
「火消しを呼べ!」
ヴァンが歩いてきた方向から立ち上る黒煙と激しい業火。
それはヴァンの怒りのように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます