泡沫のようにさようなら

華霧むま

泡沫のようにさようなら

 珈琲店を営んで5年。まさか、彼女が来るとは思わなかった。


 その女性が纏うオーラは圧倒的だった。彼女がその場にいるだけで、ついそちらを見てしまう。彼女が目を伏せるだけで、庇護欲がわいてくる。彼女が少し口元を緩めるだけで、思わず息を呑んでしまうほど幻想的だった。


 その女性は、有名人をあまり知らない私が名を知っているほど人気のアイドルだ。


 彼女はそのアイドルグループの中で、1番かわいいかと言われればそうではない。1番歌が上手かと言われればそうではない。1番ダンスが上手かと言われればそうではない。1番話が面白いかと言われればそうではない。


 ただ、存在そのものが特別だった。異質、と言う人もいるくらい。他と並べることができないくらい、彼女の存在は色濃い。そこにいるだけで人目を集めた。


 同じアイドルメンバーですら、彼女を特別視していた。彼女を推している、と公言するメンバーすらいるほど。

 本当に彼女は、みんなに愛されているのだ。


 そんな彼女は一度限りではなく、たびたび私の珈琲店へ来るようになった。お客さんである彼女に不躾に話しかけることはしなかった。会話があるわけではないのに、彼女が来るとき私はいつも緊張していた。

 

 実際の彼女を見て、彼女の異質性をまざまざと見せつけられた。

 彼女のいる場所だけスポットライトが当てられているように目立っていた。私の店はそこまで繁盛しているわけではないが、お客さんはぽつぽつ来ている。彼女に出くわしたお客さんは、彼女から視線を外せなくなるのだ。


 ある日。私が震える手で珈琲をだした後。いつもなら黙って珈琲を飲んでいくだけの彼女が口を開いた。

 

「店主さん」

「はい」

「私のこと、知ってる?」

「……はい」


 嘘をつくことはしなかった。短く答えた私に彼女は一度視線を送ったが、すぐに手元の珈琲へ目をやった。

 

「今をときめく人気アイドル、ねえ」


 彼女は珈琲を一口飲んだ後、軽く息を吐く。それはため息と呼ぶには上品なものであった。ふっと笑った彼女は目を伏せる。


「どうせ、泡のように消えるというのに」


 それは、悲しそうで嘲るようで。彼女が今までに見せたことのない表情だった。

 

 私は何も答えなかった。

 


 その次の日から彼女がテレビに出なくなるのではないか、と妙な予感がしたが、そんなことはなかった。彼女は相変わらず独特な空気で魅了を続けた。



 2年後。唐突に彼女は表舞台から姿を消した。最初は騒いでいた世間も、すぐに芸能人の不倫やスポーツの話題で盛り上がりを見せる。


 アイドルだった彼女の引退はすぐに世間では耳にしなくなった。

 彼女は本当に泡のように消えてしまった。店にも現れることはなくなった。


 彼女がこの店で、どのような気持ちで過ごしていたかを正確に推し量ることは到底できない。しかし、彼女は。この店にいるときにも、何からも解放されなかったのかもしれない。だって、彼女はここでも「アイドル」だったのだ。

 他とは違う、特別な存在として。崇拝される人として。彼女はアイドルでい続けていた。

 

 仮に彼女の「本当」が見えたとしたら、あの一瞬だけだ。それでも、私は何もできなかった。


 泡のように消える、と言っていたけれど。消えた後の泡の行く末を知ることなんてできない。それでも、彼女がどうか。自分を嫌になっていませんように。

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