第二章「運命の変わり目」

第4話 もう一人の男「夏目くん」

 まるで万華鏡のように煌めく出逢いを経験した私は、すっかり幼馴染だった城山とのいざこざを頭の中から消去していた。相変わらず着信やメッセージは鬼のように送られていたが、幸い家まで押しかけてはこなかった。


「そういえば、城山くんが私の家に来たことはなかったっけ」


 理不尽に突然呼び出すことは多かったが、ゴミ屋敷のような私のアパートに来ることは少なかった。家族ぐるみで交流のあった実家ならともかく、一人暮らしをしている家までは記憶していなかったのだろう。


 私は安堵で胸を撫で下ろしたままベッドに倒れ込み、そのままポケットに入れていた名刺を取り出した。彼とのやりとりを思い出して、自然と口角が上がっている自分に嬉しくなった。


「この人は良い人? 悪い人? 優しいけど信じていいの?」


 脱ぎ捨てた服が散乱した部屋で、その名刺だけがたった一つの宝物のようにキラキラして見えた。じっと眺めているだけで胸が高鳴って止まらない。


 幸山さんの勤めている職場は特別養護老人ホーム。ネットで検索してみると、精神疾患の患者さんも通院していると書いてあった。


「だから私みたいな人間にも理解があったんだ。でも、からこそ、逆に嫌がりそうなのに……。変な人」


 それとも彼もと同じように、下心で近づいているだけなのかな……。


 最初はどんなに優しい人でも、仲良くなるにつれて卑猥なことを要求するようになって。


 中学生の頃だっただろうか。ある男子生徒に変なことをされかけた時に「お前にそういう隙があるのがいけないんだ」と責められたことがあった。その人の言い分は私だけが悪いみたいで納得できなかったけど、その言葉がずっと棘のように刺さって私を苦しめていた。


「幸山さんは、そんな人じゃなければいいな」


 冷蔵庫の中に入れていたミネラルウォーターを取り出して、乾いた体に流し込む。零れて流れた水滴が露わになった胸元に落ちて、そのまま冷たさを残して消えた。


 ——……★


 後日、助けてくれた彼にお礼をしようと街まで出てきた私は、お気に入りのバーガーショップへと向かっていた。

 せっかくお礼をするのなら、自分がいいと思ったものを上げたい。テイクアウトで購入して、幸山さんの職場へと差し入れしようとはやる気持ちを胸に歩き続けた。


 だが、好奇心旺盛な私に誘惑で溢れたショッピングルームは危険地帯だった。

 自分の好みドンピシャな服。色鮮やかで華やかなコスメ、可愛らしい人形や雑貨。家を出て数時間が経っても、一向に辿り着く気配がなかった。決定打になったのはペットショップの小型犬だった。愛くるしい目で見つめられ、私の心は完全に奪われてしまった。


「はっ、私……またやってしまった」


 スマホを取り出して時間を確認すると、すでに十二時を過ぎていた。予定よりも一時間以上もオーバーしている。

 助けてもらったお礼にハンバーガーを差し入れて一緒に昼食をと思ったのだが、このままでは間に合わなくなってしまう。決意を固めてペットショップを立ち去り、目的だったハンバーガーショップへと向かって無事に購入することができた。


「お待たせしました。ダブルチーズバーガーとポテトセットをお2つです」


 お肉のジューシーで香ばしい香りに、揚げたてのポテト。そしてふっくらと柔らかそうバンズが食欲をそそる。手にした瞬間、思わず生唾を飲み込んだ。食べたい、今すぐ食べたい。


 だが、本来の目的はこれからだ。幸山さんの職場までバスに乗って向かわなければならない。初めて利用する方面に緊張が隠せない。しかも一、二時間に一本しかバスが運行していない過疎地だった。


 どうしたものだろうと唇に指を当てて悩んでいると、花壇の影から顔を覗かせる黒猫が見えた。まるで箒に跨った魔女まで姿を見せそうな愛くるしい容姿に、私の興味は完全に子猫に移ってしまった。


「ネコちゃん! 可愛いーね、ニャーニャー♡」


 その瞬間だ。勢いよく振った腕の反動で、カバンの中身が溢れて落ちてしまったのだ。それからは地獄の連鎖。軽くパニックになってしまった私は、持っていた紙袋も振って落とし、折角買ったハンバーガーを台無しにしてしまったのだ。

 開いた口は塞がらない。頭の中が真っ白になって、すっかり硬直フリーズしてしまった。


「ぶはっ! マジマジ、アレ? いい年してネコーってはしゃいで、あり得ねぇー」


 すぐ近くで歩いていた男子学生達が嘲笑しながら通り過ぎていった。全く正論である。だが、一度ついてしまった興味の火は簡単に消えてくれないのだ。そんなこと他人のあなたに言われなくても自分が嫌と言うほど経験したって……。


 俯いて必死に涙を堪えていた時、一緒に嘲笑していた男子学生が近付いて、ヒョイっと紙袋を拾い上げてくれた。前髪をセンター分けにした、勝気なツリ目が特徴的な顔立ちの好青年だった。


「お姉さん、大丈夫ー? 随分と盛大に落としちゃったけど、怪我はなかった?」


 まさか手を差し伸べられると思っていなくて、気まずさを誤魔化すように目を泳がせてしまった。こんな羞恥を味わうくらいなら、同行している男性のように笑いながら立ち去ってくれた方がマシだった。


「え、夏目。何してんだよー!」

「あー……行ってて? 俺は今日の飲み、キャンセルするから」

「キャンセルって! 今日はお前が来るからって喜んでいた女子もいるのに! 来ないと俺が怒られるって!」

「それもこれも縁だって。ごめんねーって言ってて、な?」


 結局、夏目という青年に言われた嘲笑男子は、グチグチと文句を呟きながら去っていった。

 いや、私としては夏目さんも一緒に行ってよかったのだけれど?


「美味しいよねー、ここのバーガー。お姉さんもよく買うのー?」


 愛想のいい端正な顔が不敵に笑いかける。ダメだ、恐い。こんな風に近付いてくる男の大半は下心を持っているのだ。最悪、ホテルに連れ込まれてエッチな動画を撮られて脅迫されるのかもしれない——!


「あ、あの! お気遣いは不要なので、私に構わずご友人とご一緒に行って下さい!」

「えー、いいよ別に。興味ない合コンだったし。そんなことより一緒に中身を確認しない? もしかしたら思ったほど悲惨じゃないかもしれないよー?」


 そう言っている間に、散々していた私のカバンの中身を集めて差し出してくれた。財布も抜き取ることなくそのまま渡してくれたので、悪い人ではないかもしれないと自分に言い聞かせて楽観を選んだ。


 こうして私達は近くの公園へと移動し、ベンチのあたりで中身を確認することにした。


 ———……★


「おぉ、ちょっとグチャグチャになってるけど意外といけるねー。良かったね、お姉さん」


 自分で食べる分には差し支えないが、お礼として差し出すには問題のあるレベル。慰めてくれる彼には申し訳ないけれど、とても喜べる状況ではなかった。悪いのは自分なのだから仕方ないのだけれども、楽しみにしていた反動で上手く笑うことができなかった。


「どうしたん? 浮かない顔してるけど」

「いえ、その、実は——……」


 目の前で一緒に袋の中身を見ている青年は初対面で「夏目」って名前しか知らない他人同然の人なのだけれども、あまりのショックに私は胸の内を白状してしまった。


 すべて自分の中では筋の通った、完璧な作戦だったのだが、私が言葉を続けるに連れ、夏目さんの顔はどんどんと蒼白になっていった。同情で頷いていた同調も、次第に「ん?」と詰まりだし、最終的には「待って」とツッコミを入れざる得ない状況になったようだった。


「えっとさー、その、お姉さんは、助けてくれた初対面同様のお兄さんに香ばしい匂いが漂う出来立てハンバーガーを差し入れしようとしてたん?」

「はい、だってそういう約束だったので」

「いやいやいや! それはー……うん、いいよ? いいんだけどー……その幸山さんって人が勤めているのは老人ホームなんだよねー?」


 どう伝えるのがいいのか、正解が分からず眉間に皺を寄せた夏目さんは、何度も必死に言葉を選んで悩んでいた。


「ってかさー、まずは名刺の連絡先にメールするのが先じゃないかなー?」

「——え、いきなりメールしたら迷惑じゃないですか?」

「いや、ハンバーガー持って突撃する方がよっぽど迷惑だからね!」


 ポロポロと目から鱗が溢れた。そうなのか、メール……。そういえば幸山さんが電話じゃなくてメールをしてくれたらと言っていた気がする。


「夏目さんって天才ですか?」

「うん? いや、別にそこまでじゃないけどー?」


 だが、満更でもない様子で口角を歪ませる彼を見て、素直な人だと安心した。幸山さんとは少し違うけど、根本が同じ優しい人だ。


「お姉さんってメール打てる? もし良かったら俺が代わりに打ってあげようか?」

「そんな失礼な。メールくらい打ったことありますので、お気遣いなく」

「ふーん、へぇー……お姉さんの名前って明日花ちゃんって言うんだー。上の名前は何ー?」

「初対面の人には教えたくないです。っていうか、スマホ見ないでくださいよ……緊張するじゃないですか?」

「あー、そこ! 変なスペースが入ってるから気を付けてー。あと、ハンバーガー食べていい? ちゃんとお金払うから」

「うん………うん………」


 その時の私は、集中してアドレスを入力していたので夏目さんがハンバーガーを頬張っていたことに全く気付いていなかった。ハッと気付いた時にはすでに半分ほど食べられた後だった。


「幸山さんのハンバーガー!」

「ゴチでーす。やっぱ美味しいよねー、ここのハンバーガー。明日花ちゃんも冷めないうちに食べちゃいなよー?」


 アイドルのようにパチンと片目を瞑っていたが、それで誤魔化せると思っているなら考えが甘い。しかし途中まで打ったメールを途切れさせることも出来ず、私は唸って威嚇することしかできなかった。


 こんなはずじゃなかったのに……。本来なら今頃は幸山さんにお礼を言って、美味しいハンバーガーを食べてもらう予定だったのに。


「よーく見れば明日花ちゃんって可愛い顔してんだねー。その不思議ちゃんスタイルはワザと? あざと系を狙ってる感じー?」

「……何を言っているんですか? あざと系とか不思議ちゃんとかって、意図的にしているならどれだけ救われるか」


 夏目さんの言葉に悪意が全くなかったかと聞かれたら、多少は含まれていたと答える。でも、よく耳にするような皮肉や嫌味とかじゃなくて、彼に取っては当たり前の、普通のコミュニケーションだったのだろう。


 私の表情に悲壮が漂ったのか、声のトーンで悟ったのか。何かを感じ取った夏目さんはバツが悪そうに唇を噛み締めて、困ったように頭を掻き始めた。


「それが素なら、目が離せない困った女の子だねー」

「だから言っているじゃないですか。私のことなんて放っておいて行けばいいって……」

「そんなの無理でしょ? 気付いちゃった以上、もう目を離せないって」


 ツリ目を細めて子供を宥めるように微笑んだ夏目さんに、私は慌てて顔を背けた。


「俺はさー、一生懸命に頑張っている子を見ると応援したくなるんだよねー。だからさ、明日花ちゃんのことも応援したいっていうかー、支えてあげたいっていうかー」


 夏目さんは私のスマホのメッセージアプリを指差して、連絡先交換をしようと催促してきた。


「こうして困っている明日花ちゃんに出逢えたのも何かの縁だと思うし、俺とも繋がってくれないかな? ほら、今日明日花ちゃんが買ったハンバーガーを食べちゃったから、お礼もしないといけないし」


 そうだ、夏目さんは私が買ったハンバーガーを勝手に食べたのだ。思い出した瞬間、怒りが湧いて反射的に頬を膨らませてた。なのに夏目さんは揶揄うように頬を突っついてケラケラと笑い飛ばしていた。


「明日花ちゃんはさ、一人で考えると失敗しちゃうと思うから、俺が幸山くんとうまく行くようにアドバイスしてやるからさー。俺とも仲良くなろう」


 不本意ながら繋がってしまった夏目なつめ康介こうすけさん。この時の私達は、この縁が末長く続ものだとは気づく由もなかった。


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