第3話 欠陥のレッテル

「おい、明日花。お前のせいで俺達は居残りで掃除をさせられたんだから、責任持って俺達の分のカバンを持てよ」


 クスクスと嘲笑と共に、数人分の手持ちカバンが目の前に放り出された。非情な出来事に思わず目を疑いそうになる。


「何で? 今日の掃除は私だけじゃなくて、城山くん達がおしゃべりしていたのが」

「うるせぇんだよ! そもそもお前が先生の話を聞かずに、よそ見したのが悪いんだろ? いっつもいつもお前は人の話を聞かないで上の空何だからよォ! 少しは俺達の役に立てよ!」


 悔しさから歯を食いしばって耐えたけど、反論は許されないのは嫌というほど思い知らせてきたから……。


「お前みたいなクズと一緒にいてやってんだから、ちゃんと言うことを聞けよ? お前は一生俺の為に尽くせばいいんだよ!」

「クスクス……、いいのー城山くん。そんなこと言って、明日花ちゃん先生にチクったりしないかな?」

「大丈夫、コイツは昔から俺の言うことだけは聞いてきたから。なぁー、明日花」


 城山くんの言葉に傷ついているのに、ヘラヘラと笑って誤魔化した。泣きそうな感情を隠すために、必死に偽りの表情を貼り付ける。


 もっと小さかった頃は、絡んでいた子が「やめて」って言っても面白がって空気が読めない子供だったくせに、今は自身の気持ちが分からなくなってしまった。


「明日花はさ、大人の言うことを聞かないで暴れ回るような奴だったから、狼少年みたいに信じてもらえなくなってんだよ。だからコイツに頼れる味方はいねぇーの」


 そう、城山くんの言うとおりだ。

 お母さんやお父さんが「お店の中で走ったらダメだよ」って言っていたにも関わらず、思い切り走った結果、足の悪いお婆さんを転倒させてしまって、大惨事になってしまったことがある。

 その日から、私には欠陥品のレッテルが貼られてしまった。言っても言っても聞き流す、出来損ないの悪い子だって。


「だから俺がコイツの間違いを正してやるんだよ。感謝しろよ、なぁ?」


 人間って不思議な生き物だ。覚えないといけないことは忘れてしまうのに、忘れたいトラウマは脳にこびりついたように消えてくれない。


 私は悪い子、私なんかの傍にいてくれる人なんて、いないのだ……。


 ———……★


 ——どうして今になって、あの時の記憶が蘇ったのだろう?


 初めて会った男の人の胸に縋りながら涙を流して、私は小さい頃のトラウマを思い出していた。鼻を啜りながら少し距離を空けると、彼の胸元に涙の跡が染みていることに気付いた。


 しまった……。

 己の失態に青褪める顔面、熱を帯びていた指先が冷えていく。


 初対面の人にこんな失礼なことをして情けない。私は慌てて距離を取ったが、もう手遅れだった。彼は汚れた服を見て、何事もなかったかのようにハンカチで吹き始めた。


「こんなの気にしなくていいよ。年季の入った古いトレーナーだし」

「そんなわけには! 弁償します!」

「いや、本当に大丈夫だから。それよりもごめん。俺もそろそろ行かないといけないから」


 私が差し出したお金を拒んで、彼はその場を去ろうとしていた。離れた手、踵を返す彼の姿。


 嘘、これで終わり?

 いやだ、待って!


 咄嗟に掴んだ服の裾。そんな私の行動に彼は驚いて顔を向けて、戸惑うように口角を歪ませた。


「いや、本当に気にしなくていいから。どうせ捨てるつもりだった服だし」

「でも、それならせめてお礼だけでもさせて下さい! 私、美味しいハンバーガー店を知ってるから、今度ご馳走させて下さい!」

「ハンバーガー……?」


 彼のキョトンとした顔を見て、ハッと我に返った。


 咄嗟のこととはいえ、よりによってハンバーガーだなんて……! 恥ずかしくなった私は、急いで真っ赤になった顔を両手で顔を隠した。


「違……っ、その、もっと違うのもあるんだけど、咄嗟に出たというか、その!」


 慌てる私に呆然としながらも、彼は優しく笑って誘いに乗ってくれた。まるで穏やかな春の訪れを教えてくれる暖かさにも似た微笑みに、思わず胸が締め付けられた。


「そっか、そんなに美味しいんだ。そこのバーガー店。折角なら今度ご馳走になろうかな。今日は予定があって行かないといけないけど。——これは俺の名刺。ここに個人メールアドレスが載っているから、連絡してくれたら返事をするよ」


 そこには幸山こうやま 壱嵩いちたかという名前と彼の情報が載っていた。老人ホーム……? 補助スタッフ?


「わ、私は鈴木すずき明日花あすかです。あの、名刺はないんですけど」

「気にしなくていいよ。ただその番号は会社の電話番号だから、間違って掛けないようにね。明日花さんも帰り道に気をつけて。それと——……」


 幸山さんは私の手首を両手で掴んで、水脹れのように腫れた数本の傷跡を親指で撫でた。

 誰にも見せたことがなかった自傷の痕。いつ気付いたんだろう。こんな傷……。


 恥じるべき傷を咄嗟に隠そうとしたけれど、彼はあまりにも真剣に憐れむように見つめていたから、気を許すように力を緩めた。


「世の中、色々と大変なことは多いと思うけど、一人で無理をしないで」


 幸山さんは自分のことのように苦しそうに顔を歪めて、私の痛みを感じてくれた。

 こんなにも優しく私に寄り添ってくれた人はいなかったから、私はまた頬を濡らしてしまった。


「ごめん、本当は色々話を聞いてあげたいんだけど、俺も母親の世話をしなきゃいけなくて」

「いえ、大丈夫です。今日はありがとうございました。その、色々と」

「……うん。いいよ、大丈夫。ちなみに連絡はしてもしなくても気にしないから。渡されたからって気負いしないでいいよ」


 幸山さんはポンっと私の肩を叩いて、その場を去り始めた。


 短い時間のことだったのに、私にとってはとても大事で、とても優しい時間だった。


 彼との唯一の繋がりの名刺を大事に持って、胸に抱き寄せた。


「おかしいってレッテルを貼られた私だったけど、良いこともあるんだ……」


 久々に温かくなった胸中のまま、私も家路へと足を向け直した。


———……★


「そして私の人生は好機を迎える。もう、今までの私じゃない」

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